街で噂になる
冒険者ギルドの建物内は、いつものようにむせ返るような熱気と喧騒に満ちていた。
安酒と汗、そして古びた革鎧の匂いが混じり合う独特の空気の中、無事な帰還を祝ってジョッキを打ち鳴らす者や、次の依頼を求めて掲示板を睨みつける者たちがひしめき合っている。
そんな日常の風景は、一人の少年の帰還によって、唐突に、そして劇的に打ち破られることとなった。
「――討伐、完了しました。これが部位破壊の証明部位です」
ドンッ、という重く鈍い音が、木製のカウンターに響いた。
レインが麻袋から無造作に取り出して置いた『それ』を見た瞬間、ギルドのベテラン受付嬢であるミリアは、笑顔を貼り付けたまま文字通り石のように固まった。
それは、大人の腕ほどの太さはあろうかという、湾曲した巨大な牙だった。
表面には赤黒い血の跡がこびりつき、根元には分厚い肉片がわずかに付着している。先端は鋼鉄すら噛み砕きそうなほど鋭く、黄ばんだ象牙色のような表面からは、持ち主がいかに凶悪な魔物であったかを雄弁に物語る、禍々しい瘴気すら漂っていた。
毎日のように様々な魔物の素材を目にしているミリアの鑑定眼が、瞬時にその牙の正体を弾き出していた。間違いない。それは森の生態系の頂点に君臨する狂暴な亜人種、オーガの牙だ。
「え……? あ、あの……?」
「どうしました?」
小首をかしげるレインの顔と、カウンター上の規格外の牙を、ミリアの視線が激しく往復する。
彼女の喉はカラカラに乾き、震える声はどうにか一つの疑問を紡ぎ出すのが精一杯だった。
「……ほ、本当に、倒したんですか……? これを……たった一人で?」
「はい。弱点に一撃を入れたら、すぐに倒れてしまったので。思ったよりあっけなかったです」
まるで「近所の森でキノコを採ってきました」とでも言うかのような、あまりにも平然としたレインの態度は、ミリアの常識を根底から破壊するには十分すぎた。
その時、カウンターでの異様なやり取りに気づいた周囲の冒険者たちが、一人、また一人と会話を止め、二人の手元へと視線を向け始めた。
「おい……あれ、嘘だろ?」
「見ろよあの牙のデカさ。あれ、オーガの牙じゃねえか……?」
「馬鹿な! オーガが出たってんで、銀等級のパーティーを三つも招集して討伐隊を組む手はずになってたはずだぞ!?」
「あいつ、しかも武器は……おいおい、あの竹槍レインかよ!?本当に実在したんだな!」
ざわめきは波紋のように広がり、瞬く間にギルド全体を飲み込む大喧騒へと発展した。
「竹槍の奴がオーガを一人で討伐した」という、まるで三流の吟遊詩人すら語らないような荒唐無稽な事実に、腕自慢の冒険者たちは呆然と立ち尽くすか、信じられないとばかりに頭を抱えている。
「騒々しいぞ、お前ら!!」
その時、ギルドの奥にある執務室の重厚な扉が蹴り破られんばかりの勢いで開いた。
姿を現したのは、筋骨隆々という言葉すら生ぬるいほどの巨躯を誇る大男だ。顔には歴戦を物語る無数の刀傷が刻まれ、歩くたびに床板が軋む。
かつてこの国で最強と謳われた元Sランク冒険者にして、現ギルドマスターのガルムである。彼の怒声一発で、騒然としていたギルドは水を打ったように静まり返った。
ガルムは鋭い眼光で周囲を睥睨した後、ズシン、ズシンと重い足音を立ててカウンターへと近づいてきた。そして、机の上に置かれたオーガの牙を無骨な手で拾い上げる。
「……ほゥ。見事なもんだ。刃こぼれ一つねぇ。心臓を一突きで絶命させたってところか」
傷だらけの指で牙の切断面や状態を確認したガルムは、感心したように息を吐いた。そして、見下ろすようにしてレインへと視線を落とす。威圧感だけで並の冒険者なら気絶しかねない眼差しだ。
だが、レインは涼しい顔でガルムの視線を正面から受け止めていた。
「ふ、ふははははっ! あっははははははは!!」
不意に、ガルムが腹の底から絞り出すような豪快な笑い声を上げた。
呆気にとられる冒険者たちをよそに、ガルムはレインの華奢な肩をバンバンと乱暴に叩く。
「やっぱお前は面白い奴だな、あの時に只者じゃねぇとは思ってたが、まさか初仕事でオーガの単独討伐をやってのけるとはな!」
「鑑定……? いえ、たまたま運が良かっただけで……」
「謙遜はよせ。運でオーガの心臓をぶち抜けるほど、この世界は甘くねぇ」
ガルムはニヤリと人の悪い笑みを浮かべると、振り返ってギルド中に響き渡る声で宣言した。
「おい、ミリア! 手続きをしろ! 特例中の特例だ!」
「えっ? て、手続き、ですか?」
「あぁ。こいつのランクを、今この瞬間から上げてやる。掲示板の更新を頼むぜ」
ざわっ、と再び空気が揺れた。
冒険者のランクアップには、数多くの依頼達成数と厳格な試験が必要不可欠だ。それをギルドマスターの権限で強権的に引き上げるなど、前代未聞の出来事だった。
数分後。ギルドの大きな掲示板に、真新しい羊皮紙が張り出される。
『レイン オーガ単独討伐の功績により、特例としてCランクへ昇格』
駆け出しのFランクから、中堅以上の実力が求められるCランクへのゴボウ抜き。
普通なら嫉妬や反発のやじが飛ぶところだが、誰も文句を言う者はいなかった。
カウンターに鎮座する巨大なオーガの牙が、レインの絶対的な実力を証明していたからだ。冒険者たちは畏敬の念を込めて、竹槍を持った場違いな少年の背中を見つめていた。
* * *
「――ねえ、聞いた? 『竹槍のオーガ殺し』の噂」
「あぁ、聞いた聞いた。なんでもギルドに登録したばっかりの男が、その辺の竹を削っただけの槍で、あの山のオーガを一撃で串刺しにしたって話だろ?」
「いくらなんでも尾ひれが付きすぎよ。でも、Cランクへの特例昇格は事実みたいね」
その日の夕刻。
レインの偉業は、冒険者ギルドの壁を容易く飛び越え、街中の酒場や市場、路地裏に至るまで、あっという間に燃え広がる炎のように噂となっていた。
人々は口々にレインについて語り合い、大げさな身振り手振りで想像上の死闘を語り明かしている。
そんな喧騒に包まれた街の片隅。
オープンテラスのカフェで、優雅にハーブティーを傾けていた一人の少女がいた。
目深に被った上質な純白のローブの隙間からは、夕日に照らされて煌めくような銀色の長い髪がこぼれ落ちている。テーブルの脇には、身の丈ほどもある美しく豪奢な装飾が施された杖が立てかけられていた。
「竹槍……オーガを一突き……ねぇ」
少女はカップをソーサーに静かに置くと、小鳥の囀りのような可憐な声で一人ごちた。
街を行き交う人々から聞こえてくる噂話。その荒唐無稽な内容を前にして、少女の桜色の唇が、ひそかに、しかし確かに弧を描く。
「……面白い。私が見つけた『預言の勇者』の第一候補は、随分と規格外のようね」
ローブの奥で、宝石のように澄んだ青い瞳が、好奇心と確かな期待に妖しく輝いていた。
竹槍の少年と、謎に包まれた銀髪の少女。
二人の運命の糸が交差する時は、もう目前に迫っていた。




