オーガ
昼なお暗い、鬱蒼とした原生林。
樹齢数百年はくだらないであろう巨大な樹木が天を突くように立ち並び、幾重にも重なる分厚い枝葉が太陽の光を無残に遮り落としている。足元はぬかるみ、踏み出すたびに腐葉土と湿った苔が嫌な音を立てた。
この『魔の森』の奥深くに、レインはたった一人で足を踏み入れていた。
目的はただ一つ。近隣の村を脅かす狂暴な魔物、オーガの討伐である。
冒険者ギルドに駆け込んできた村長の顔は、絶望に青ざめ、恐怖で引きつっていた。家畜が食い殺され、森の様子を見に行った屈強な若者数名が、無惨な肉塊となって発見されたという。
本来、オーガといえば熟練の銀等級冒険者が五人でパーティーを組み、入念な罠と作戦を用意してようやく互角に戦えるほどの強敵だ。駆け出しの、しかもソロの冒険者が挑むなど、自殺行為以外の何物でもない。
しかし、レインの足取りに迷いはなかった。
彼は深い森の静寂の中、ただひたすらに標的の痕跡を追い続けていた。
やがて——森の空気が、変わった。
ピタッ、と。風の音も、名も知らぬ虫たちの鳴き声も、すべてが幻であったかのように消失したのだ。
直後。
ズシン……。
微かな、しかし内臓の底を揺らすような重低音が響いた。
ズシン、ズシン……ッ!
それは一定の周期で繰り返され、一歩ごとに大地を震わせる。単なる地鳴りではない。途方もない質量を持った『何か』が、こちらに向かって歩みを進めてくる足音だ。
バキィッ! メキメキメキッ!
前方の木立が激しく揺れ、人間の胴回りほどもある太い木の枝が、まるで爪楊枝のようにへし折られて宙を舞う。
濃密な獣の臭いと、むせ返るような血の匂いが風に乗って鼻腔を突いた。
「……お出ましだな」
レインの呟きに応えるかのように、薄暗い木々の隙間から、その巨大なシルエットがぬっと姿を現した。
亜人種の頂点の一角に君臨する狂暴なる破壊者、オーガ。
見上げるほどの巨躯は、およそ三メートル近くにも達するだろう。丸太のように太い腕と、岩石を思わせる異常に隆起した筋肉が、赤銅色の皮膚の下で悍ましく蠢いている。
頭部には天を突くように捻じ曲がった二本の太い角が生え、裂けたような巨大な口からは黄色く濁った鋭い牙が覗く。その手には、大樹を根元からへし折ってそのまま削り出したかのような、身の丈ほどもある巨大な棍棒が握られていた。
棍棒には無数の赤黒い染みがこびりついており、それがこれまで何人もの人間を叩き潰してきた血肉の痕跡であることを雄弁に物語っている。
圧倒的な暴力の権化。
もしも普通の冒険者であれば、その威容を前にした瞬間に絶望し、膝から崩れ落ちていただろう。武器を放り出して逃げ出せたなら、まだ運が良い方だ。ほとんどの者は恐怖で金縛りに遭い、ただすり潰されるのを待つだけの的と化す。
「グオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
侵入者であるレインの存在を視界に収めた瞬間、オーガは森全体の空気を震わせるほどの凄まじい咆哮を上げた。
周囲の木の葉が猛烈な風圧で吹き飛び、ビリビリと鼓膜が千切れんばかりに悲鳴を上げる。
自身より遥かに小さく、矮小な人間。オーガの血走った双眸には、レインの姿が単なる『餌』、あるいは『鬱憤晴らしの玩具』として映っていたに違いない。
オーガはその巨体からは到底想像もつかないほどの俊敏さで地を蹴り、地響きを立てながら一気に距離を詰めてきた。
ゴォォォォッ!という風を切る轟音と共に、必殺の棍棒が上段から全力で振り下ろされる。
当たれば人間などトマトのように弾け飛び、肉片すら残らないであろう、文字通りの致死の一撃。
だが――レインは逃げなかった。
恐怖に顔を引きつらせることも、慌てて回避行動をとることもない。ただ、湖面のように静まり返った澄んだ瞳で、眼前に迫る死の塊を冷静に見据えているだけだった。
彼の両手には、一本の武器が握られている。
それは名工が鍛え上げた鋼の剣でも、ミスリル製の槍でも、強力な魔法陣が刻まれた魔杖でもない。
道端の竹林から切り出した支給品、先端を小刀で鋭く削っただけの、ただの『竹槍』だった。
およそオーガという強大な魔物と対峙するには、あまりにも不釣り合いで、滑稽ですらある粗末な代物。
「ふぅ……」
視界を覆い尽くすほどの巨大な棍棒が迫る中、レインはゆっくりと、そして静かに短く息を吐き出し、呼吸を整えた。
スッと重心を落とし、竹槍を腰の横に引いて構える。
足の裏から大地を掴むように力が伝わり、ふくらはぎ、太もも、腰、そして肩から腕へと、全身の筋肉が滑らかに連動していく。力の流れが一切のロスなく一直線に、竹槍の穂先へと収束していく。
極限まで高められた集中力の中、世界がスローモーションのように感じられた。
振り下ろされる棍棒が、レインの頭頂部に触れる数ミリ手前。
「――シッ!」
鋭い呼気と共に、レインの腕が弾けた。
踏み込みの力、腰の捻り、そして腕の突き出し。その全てが寸分の狂いもない完璧なタイミングで噛み合い、究極の一点となって解き放たれる。
神速の突き。
それは、オーガの剛腕から放たれる棍棒よりも遥かに速く、そして鋭く、空間そのものを縫いつけるかのように直進した。
ドスゥゥゥゥンッ!!!!
激しい衝突音ではなく、何か分厚い壁を強引に貫通したような、鈍くも内臓を揺らす重い音が森に響き渡った。
竹で作られた粗末な槍の先端は、鋼鉄のような硬度を誇るはずのオーガの分厚い大胸筋を、まるで柔らかい豆腐に串を刺すかのように、いとも容易く貫通していた。
槍は寸分の狂いもなく心臓の中央を捉え、そのまま背中側へと深々と突き抜けている。
「……ガ、ァ……?」
レインを叩き潰すべく振り下ろされようとしていたオーガの棍棒が、空中でピタリと停止した。
オーガは信じられないものを見るかのように、自分の胸のド真ん中から生えた細い竹槍を見下ろし、そして、目の前で平然と立つレインの顔を見つめた。
理解できない。何が起きたのか分からない。
そんな疑問を浮かべたまま、赤走った凶悪な瞳から、急速に生命の光が失われていく。
ズズズンッ……!!
やがて、数百年を生きた巨木が根元から切り倒されたかのような凄まじい地響きと共に、三メートル近い巨体が力なく地面へと崩れ落ちた。
もうピクりとも動かない。急所を完全に破壊されたことによる即死だった。
巨体の墜落によって大きく舞い上がった土埃が、風に流されてゆっくりと晴れていく。
静寂を取り戻した森の中で、レインは突き刺さった竹槍をスッと引き抜いた。穂先にはオーガの血がこびりついているが、刃こぼれ一つしていない。
彼は足元に転がる強大な魔物だったモノの死骸を見下ろすと、不思議そうにコトリと首をかしげた。
「……あれ?」
レインの口から、緊迫感のかけらもない、間の抜けた声がぽつりと漏れる。
村人たちが怯えに怯え、ギルドが厳戒態勢を敷いていた恐るべきオーガ。
どれほどの死闘になるか、もしかしたらこの竹槍が折れてしまうかもしれないと、それなりの覚悟を決めて臨んだというのに。
「……なんか、想像してたより随分と脆かったな……」
ポンと叩けば壊れてしまいそうな手応えに、レインは竹槍とオーガの死体を交互に見比べる。
「もしかして、普通のオーガじゃなくて……重い病気にかかってた個体とか、お年寄りのオーガだったのかな?」
常軌を逸した自身の『規格外の強さ』に全く気がついていないレインは、あまりにも呆気なく終わってしまった討伐任務に、ただただ納得がいかない様子で首をひねり続けるのだった。




