オーガ討伐
冒険者ギルドは、いつものようにむせ返るような熱気と喧騒に包まれていた。
汗と土の匂い、安酒のアルコール臭、そして手入れされた武具から漂う鉄と油の匂い。
それらが混ざり合い、独自の空気を形成しているこの場所は、荒くれ者たちの吹き溜まりであり、一攫千金を夢見る者たちの出発点でもあった。
昼下がりの時間帯、一階の広間にある巨大な木製の掲示板の前に、普段以上の人だかりができていた。冒険者たちの間に、ざわめきが波のように広がっていく。
「おいおい、冗談だろ……? オーガ討伐だと……?」
誰かが絞り出すように呟いたその言葉に、周囲の者たちがごくりと唾を飲み込む音が聞こえるようだった。
張り出された真新しい羊皮紙。そこに描かれた禍々しい巨人の姿と、血のように赤い文字で記された『討伐対象:オーガ』の文字が、歴戦の冒険者たちの顔を青ざめさせていた。
オーガ。それは、ゴブリンやスライムといった下級の魔物とは次元が違う、暴力の化身だ。筋骨隆々の巨体は三メートル近くに達し、その皮膚は並の剣の刃を容易く弾き返す。丸太のような腕から繰り出される棍棒の一撃は、重装備の騎士であっても鎧ごと肉体を粉砕すると言われている。
当然ながら、Cランク以上かつパーティーで挑むこと推奨の依頼である。
普通なら、前衛で盾となる重戦士、攻撃を担う剣士や槍使い、後方からの魔法使い、そして回復役といった、役割分担のきっちりできた熟練のパーティで挑む相手だ。 決して、その日暮らしの素人や、単独の冒険者が手を出すべき代物ではない。
「こんなもん、どこの物好きが受けるんだよ……」
「近衛騎士団の連中にでも任せとけってんだ」
冒険者たちが及び腰になりながら遠巻きに依頼書を眺める中、その人だかりを縫うようにして、一人の青年が前に進み出た。
くすんだ亜麻色の髪に、少し眠たげな亜麻色の目をした青年。 身に着けているのは、ところどころ傷の入った使い古された革鎧だけだ。 威圧感など微塵もなく、一見するとどこにでもいる平凡な村人の青年にしか見えない。
彼の名はレイン。グランベル王国軍ゼーレ砦の元・雑用兵であり、社会の最底辺階級として扱われていた過去を持つ青年だった。
レインは、周囲の張り詰めた空気など全く気にする素振りも見せず、マイペースな足取りで掲示板の前に立つと、羊皮紙を見上げた。
(オーガ……。大きい魔物なのかな。肉は美味しいんだろうか)
温厚でマイペースな性格のレインの思考は、至って平和なものだった。 砦で超高速水汲みや神速の薪割り、果ては刃を通さない魔獣の解体まで、常人離れした身体能力を「ただの雑用」としてこなしていた彼にとって、魔物は「生活の糧」あるいは「夕飯の具材」程度の認識でしかなかった。
「これ、受けてもいいですか?」
レインは、ごく自然な動作でオーガ討伐の依頼書をベリッと剥がし、そのまま受付カウンターへと歩いていった。
受付カウンターに座っていたのは、今年で20歳になる受付嬢のミリアだった。 彼女は、差し出された依頼書を見て、パチリと大きく目を丸くした。
「レ、レインさん一人でですか!?」
ミリアの悲鳴に近い声が、ギルド内に響き渡った。彼女はレインが大量のゴブリンを一人で討伐してきた実績を知っていたが、相手はオーガだ。ゴブリンが束になっても敵わない、森の災厄である。
「はい」
レインは、まるで「近所の森へキノコ狩りに行ってきます」とでも言うような、拍子抜けするほど軽い調子で頷いた。
そのやり取りを聞きつけた周囲の冒険者たちが、一斉にレインへと視線を向けた。
「おいおい、本気かよ! 竹槍でオーガだと?」
「死ぬぞ、マジで!」
「ゴブリンの巣を狩れたからって、調子に乗ると痛い目見るぜ、レイン!」
彼らの嘲笑には無理もない。レインが持っている武器は、先端を斜めに切り落とし、火で炙っただけの支給品――『ただの竹槍』だったからだ。 魔法と剣技を至高とするこの世界において、槍自体が不遇な扱いを受けている上に、それが木製ですらない竹の棒なのだから。
しかし、周囲の言葉を受けても、レインは全く意に介さなかった。 自己評価が著しく低く、自分が異常な強さを持っていることに全く気づいていない彼にとって、他人の評価はどうでもいいことだった。 そもそも、彼は争いを好まない。 理不尽な暴力が降りかかれば無表情で物理的に払いのけるが、言葉の暴力にはただ首をかしげるだけだ。
「そんなに強いんですか?」
レインは、本気で不思議そうに周囲の冒険者たちに問いかけた。その純粋すぎる疑問に、笑っていた冒険者たちは毒気を抜かれ、逆に気味悪そうに顔を引きつらせた。
ミリアは身を乗り出し、小声で必死に説得を試みる。
「……普通は危険です。 レインさんの実力は評価していますが、オーガは別格なんです。強靭な筋肉と、恐ろしい回復力を持っています。その……竹槍では、皮膚を貫くことすら……」
ミリアは言葉を濁した。彼女は優しい性格ゆえに、レインの愛用の武器を真っ向から否定することはできなかった。
だが、レインの竹槍は「ただの竹槍」ではない。彼が握り、極限に圧縮された闘気と無意識の魔素を纏わせることで、神話級の武具をも凌駕する貫通力を生み出すのだ。 大気中の魔素を直接竹槍に絡め取り、物理的な破壊力に変換するという、魔法使いでも不可能な業を、彼は三年間、一日も欠かさず狂ったように竹槍を振り続けた結果として身につけていた。
レインは少し考えた。
(皮膚が硬いのか……。アイアン・グリズリーみたいに、なんか柔らかいといいんだけどな)
彼の中での比較対象は、騎士団の一個中隊がかりで犠牲を出しながらようやく討伐できるAランク指定の魔物、アイアン・グリズリーだった。 レインにとっては「今夜の鍋の具材」として一撃で毛皮ごと撃ち抜いた記憶しかないが。
そして言う。
「でも、誰かが困っているから依頼になってるんですよね?」
「それはそうですけど、そんなに急がなくても──」
「じゃあ、試してみます」
ニコリと人の良さそうな笑みを浮かべ、レインはそう告げた。ミリアが何かを言いかける前に、彼は依頼書を受付のトレイに置き、きびきびとした動作で背を向けた。
そう言って、竹槍を肩に担いだ。
ギルド内の静まり返った視線を背に受けながら、彼は迷いのない足取りで扉を開ける。
目指すは、濃密な魔素が漂い、凶悪な魔物が生息する危険地帯――暴食の森。 熟練の冒険者パーティーや正規の騎士団であっても、深く立ち入ることは避ける絶対禁忌の領域だが、レインにとっては「ちょっと物騒な近道」程度の場所だ。
森の奥へ向かう。
陽光に照らされたその背中は、どこまでも平然としていた。
――オーガ討伐へ。
誰もが彼の死を確信したその足取りは、これから始まる『竹槍無双』の新たな伝説への、確かな第一歩だった。




