ゼーレ砦
国境の街での屈辱的な大敗から数日後。
グランベル王国軍、辺境防衛の要であるはずの『ゼーレ砦』に、亡霊のような影がよろめきながら近づいていた。
「あ、ああっ……くそっ、なぜだ。なぜ俺が、こんな目に……っ!」
うわ言のように虚空に向かって呟き続ける男――騎士隊長バルドの姿は、もはや見る影もなかった。
誇りであった豪奢な白銀の鎧は泥と自身の吐瀉物で汚れ、誇り高き金髪は皮脂と砂埃でベトベトに固まっている。その手には、レインの竹槍によって無惨にへし折られたミスリル剣の『柄』だけが、未練がましく握りしめられていた。
街から砦への帰路は、まさに地獄だった。
食料も水も調達できず、あまつさえ移動用の馬すら街に置き忘れて逃げ出した彼らは、道中の森で魔物に怯え、泥水を啜りながら、徒歩で何日もかけて歩き続けるしかなかったのだ。
付き従う精鋭騎士たちも、すでに限界を迎えていた。虚ろな目でただ足を引きずり、誰一人として言葉を発しない。レインの竹槍がもたらした『絶対的な死の恐怖』が、彼らの精神を完全に破壊していた。
「……着い、たぞ。我が城、ゼーレ砦だ」
鬱蒼とした森を抜け、ようやく見慣れた石造りの城壁が姿を現す。
バルドは乾ききった唇を歪めて笑った。
(そうだ、俺は王国有数の権力を持つ名門貴族の三男。砦に戻りさえすれば、従順な部下たちが傅き、温かい風呂と極上の食事が用意されている。あの竹槍のゴミカスのことなど、王都の兄上に頼んで暗殺部隊を送り込んでやればいいのだ……!)
自身の都合の良い妄想にすがりつきながら、バルドは重い足取りで砦の正門へと向かった。
だが。
門に近づくにつれ、バルドの鼻腔を「ある強烈な臭い」が突いた。
「……なんだ、この臭いは」
それは、甘ったるく、そして鼻の奥を突き刺すような『腐敗臭』だった。
本来、屈強な門番が二名立っているはずの正門は、無惨にも半開きになっており、人っ子一人いない。門の蝶番には蜘蛛の巣が張り、砦のシンボルであるはずの軍旗はボロボロに引き裂かれて地面に落ちていた。
「おい! 誰かおらんのか! 隊長であるこの俺の帰還だぞ!」
バルドが怒鳴り声を上げながら門を潜り、砦の中庭へと足を踏み入れた瞬間。
彼の目に飛び込んできたのは、まさに現世に現出した地獄であった。
「な、なんだこれは……っ!?」
砦の機能は、完全に停止していた。
中庭の中央には、数日前に狩猟部隊が仕留めてきた巨大な魔獣の死骸が、解体されることもなく放置されていた。分厚い皮に阻まれて刃を通せなかった肉は完全に腐り果て、腹を割って無数のウジが湧き、巨大なハエの群れが黒い竜巻のように飛び回っている。
先ほどから感じていた死臭の正体はこれだった。
さらに、厨房の裏手には薪割りがされていない巨大な丸太が山積みになり、水場にある数十個の水瓶は一滴の湿り気もなく完全に干上がっていた。
水がない。火がない。食料もない。
インフラが完全に死滅した砦は、わずか数日でその命脈を絶たれていたのだ。
「た、隊長……? バルド、隊長ですか……?」
砦の奥から、フラフラと足を引きずりながら数十人の兵士たちが現れた。
彼らの目は落ち窪み、頬はこけ、まるで飢えたゾンビのようだった。生焼けの腐った肉を食って腹を下し、水も飲めずに脱水症状を起こしているのだ。
「お、お前ら! なぜ出迎えない! なぜ掃除をしていない! 貴様ら全員、軍法会議にかけて――」
「水は……?」
バルドの傲慢な怒鳴り声を、副官の男が低く、地の底から響くような声で遮った。
「食料は……それに、新しい『雑用係』はどうしたんですか……?」
「そ、それは……」
バルドは一瞬言葉に詰まった。街で何一つ目的を果たせず、あまつさえ底辺の雑用兵にボコボコにされて逃げ帰ってきたなど、口が裂けても言えなかった。
「街の平民どもが反乱を起こしてな! 食料の供出を拒みおったのだ! だが案ずるな、俺は貴族だ! 王都に伝令を出し、直ちに支援の物資を――」
「嘘をつけええええええええっ!!!」
副官の悲痛な絶叫が、砦に響き渡った。
「街から逃げてきた行商人から聞いたぞ! 隊長と精鋭部隊が、街の広場で『たった一本の竹槍』を持った男に、三秒で全滅させられたとな!!」
「なっ……!?」
「それに気づいたんだ! 俺たちも、ようやく気づいたんだよ!」
副官は血走った目でバルドを睨みつけ、腐臭漂う中庭を指差した。
「この砦の異常なまでの快適さは、隊長が追放したあの雑用兵が、一人で、それも誰にも見えないほどの神速でこなしていたからだと! あの水も、薪も、肉の解体も、俺たち全員で束になっても、何一つできなかった……! お前が……お前が自分のちっぽけなプライドを満たすために、俺たちの『命綱』を切り捨てたんだ!!」
「ち、違う! あれは無能で――」
「黙れ! この無能な豚野郎がっ!!」
副官が抜剣し、バルドの足元に剣を叩きつけた。
それを合図にするかのように、飢えと渇き、そして絶望で狂乱した数十人の兵士たちが、一斉に獣のような雄叫びを上げてバルドたちに飛びかかった。
「ひぃっ!? や、やめろ! 俺は貴族だぞ! 貴様ら、平民の分際で――ぎゃあああああっ!!」
もはや階級も身分も関係なかった。
生きるために極限状態に追い込まれた人間にとって、無能な指揮官ほど憎悪の対象となるものはない。
バルドは鎧を無理やり剥ぎ取られ、泥の地面に引き倒され、無数の足でタコ殴りにされた。共に逃げ帰ってきた騎士たちも同様に、怒り狂う兵士たちのリンチに遭い、悲鳴を上げることすらできなくなっていく。
「ふざけるな、お前だけ逃がすものか!」
「この腐った肉、隊長が責任持って全部食えよ!」
「俺たちはもう限界だ! 砦は放棄する! 武器庫の金目のものを全部持って、王都に逃げるぞ!」
暴動、そして反乱。
略奪の限りを尽くした兵士たちは、ボロ雑巾のようになったバルドたちを腐った魔獣の死骸の山に放り投げると、そのまま我先にと砦から逃げ出していった。
後に残されたのは、ハエの羽音と、絶望的な腐敗臭だけ。
全身の骨を折られ、ピクリとも動けなくなったバルドは、腐った肉の海の中で、濁った瞳からポロポロと涙を流した。
「あ……あぁ……」
今更ながら、彼は理解した。
自分がゴミのように見下し、追放した亜麻色の髪の青年が、どれほど規格外のバケモノであり、同時に自分たちを生かしてくれていた神様のような存在であったかということを。
「れ……い、ん……。たす、け……て……」
誰もいない廃墟と化した砦の中、全てを失った傲慢な元・騎士隊長の掠れた後悔の声は、虚しく夕闇に溶けていった。
◇◇◇
同刻。国境の街。
冒険者ギルドが提携している小綺麗な宿屋の一室。
「う〜ん! いい匂い!」
木製の丸テーブルの上で、とろりとした湯気を立てる大鍋を前に、レインは満面の笑みを浮かべていた。
砦の者たちが飢えと渇きで地獄を見ていたことなど露知らず。彼は今日、街の広場で特売の卵を守り抜いた自分へのご褒美として、極上の夕食作りに精を出していたのだ。
大鍋の中には、ギルドで解体したAランク魔物『アイアン・グリズリー』の最高級の霜降り肉が、たっぷりの香味野菜と一緒に煮込まれている。
さらにその上には、半熟に茹で上げられた特売の卵が、完璧なタイミングでトッピングされていた。
「いただきます!」
木のスプーンで、とろとろに煮込まれたクマ肉とシチューをすくい、口に運ぶ。
肉は舌の上でホロホロと崩れ、濃厚な旨味と野菜の甘味が口いっぱいに広がった。さらに半熟卵を割って絡めれば、まさに神の食べ物と見紛うほどの絶品である。
「はぁ〜……美味しい。こんなに美味しくて温かいご飯が、毎日自分のペースで食べられるなんて。冒険者って、本当に最高だな」
レインは幸せそうに目を細め、部屋の隅に立てかけられた『ただの竹槍』をチラリと見た。
綺麗に布で磨き上げられた相棒は、ランプの光を反射してツヤツヤと黒光りしている。
「あ、そうだ。バルド隊長たち、あの後ちゃんと砦に帰れたかな? なんだかみんな顔色が悪かったし、変なところでよく転んでたし……砦に帰って、ちゃんと温かいご飯を食べてゆっくり休めてるといいんだけど」
本気で、心からの善意と心配を込めて、レインはポツリとそんなことを呟く。
彼の中では、バルドたちは仕事のしすぎで疲労困憊のおじさんたちという認識のままなのだ。
窓の外では、平和な街の夜景が広がっている。
追放された雑用兵が、自分の異常な才能に微塵も気づかないまま、今日もただ竹槍一本を傍らに置いて、幸せで美味しいご飯を頬張る。
――自覚なき最強の竹槍使いの伝説は、まだ始まったばかりである。




