雑用兵、追放される
王国暦三一五年。グランベル王国辺境、ゼーレ砦。
灰色の雲が重く垂れ込める訓練場に、不快な嘲笑が響き渡った。
「レイン、お前は今日でクビだ」
豪奢な装飾が施された白銀の鎧を身に纏う騎士隊長バルドが、虫ケラでも見るかのような冷酷な視線を下ろして吐き捨てた。彼は王国でも有数の権力を持つ名門貴族の三男であり、その顔には生来の傲慢さが深く刻み込まれていた。
「え……」
突然の宣告に、レインは小さく声を漏らした。
くすんだ亜麻色の髪に、使い古されて所々すり切れた革鎧。グランベル王国軍において、平民出身の彼に与えられている階級は「雑用兵」という最低辺のものだった。
「聞こえなかったのか? 無能め。戦力にならんと言っているんだ。剣も振れず、魔法も使えん雑用兵など、我が誇り高きゼーレ騎士団には不要だ」
バルドの言葉を皮切りに、周囲を取り囲んでいた重装備の兵士たちが下品な笑い声を上げた。
「隊長の言う通りだぜ! いつもいつも竹槍しか持ってねえもんな!」
「農作業の途中から抜け出してきた村人かよ!」
「だいたい、魔力ゼロの人間が軍隊にいること自体が間違いなんだよ!」
彼らの言う通り、このグランベル王国は『魔法と剣技』を至高とする徹底した実力至上主義――そして、貴族至上主義の国だった。
優れた魔力を持つ貴族が国を支配し、魔力を持たない平民であっても、類まれな剣の才能があれば騎士として取り立てられる。しかし、レインはそのどちらも持っていなかった。
魔力測定器はピクリとも反応せず、剣を握らせれば鈍重な素振りしかできない。軍に入って三年、彼に割り当てられた任務は、馬の世話、水汲み、薪割り、そして武器庫の掃除といった完全な「雑用」のみだった。
周囲の嘲笑を浴びながらも、レインは黙っていた。
反論する言葉がなかったわけではない。ただ、彼らと言い争うことに何の意味も見出せなかったのだ。
確かに、剣は苦手だった。
魔力がないため、魔法は使えない。
だが――槍だけは違う。
レインの右手に握られているのは、軍から支給された一本の『竹槍』だった。
鉄の穂先すらついていない、ただ先端を斜めに切り落とし、火で炙って硬化させただけの安物の竹。新兵の訓練用にすら使われない、倉庫の隅で埃を被っていたガラクタだ。
しかし、レインは入隊してからの三年間、毎日毎日、誰もいなくなった深夜の訓練場で、ただひたすらにその竹槍を振っていた。
最初は一日に百回。それが千回になり、一万回になり……気づけば、呼吸をするのと同じくらい自然に、槍と己の身体が一体化する感覚を掴んでいた。
雨の日も、雪の日も、泥にまみれながら槍を突いた。彼にとって、それは生きるための拠り所であり、己と向き合う唯一の時間だったのだ。
(とはいえ、実戦経験はゼロだしな……。魔物一匹倒したことがない俺が、戦力外通告を受けるのは仕方ないかもしれない)
レインは、自らの内に秘められた異常な力にまったく気づいていなかった。
一日一万回の極限の鍛練。それはすでに人体の限界を超え、無意識のうちに大気中の魔素を竹槍に纏わせ、空間そのものを穿つ神域の技へと昇華されていたのだが、比較対象がないレインは「ちょっと素振りが早くなったかな」程度にしか思っていなかったのである。
「おい、聞いてるのか! 荷物を持ってさっさと消えろ! お前の貧乏くさい顔を見ているだけで、高貴な俺の目が腐る!」
苛立ったようにバルドが剣の柄に手をかける。
レインは小さく息を吐き、静かに頷いた。
「わかりました。今までお世話になりました」
深く一礼し、踵を返す。
背後から、「せいぜい魔の森でゴブリンの餌にでもなるんだな!」「明日には骨になってるぜ!」という嘲笑が投げかけられたが、レインの心は不思議と晴れやかだった。
(これでやっと、ゆっくり槍の素振りができるな)
そんな暢気なことを考えながら、彼はただ一本の竹槍を肩に担ぎ、砦の門をくぐった。
――この時、バルドたちは知る由もなかった。
毎朝、砦の貯水槽に満々と溜まっていた水が、レインが片道十キロ離れた湖から数分で汲んできていたこと。
厨房の料理長が「刃牙の通らない魔獣の肉が、なぜか毎朝綺麗に解体されている」と首を傾げていたのが、レインの竹槍による神速の捌きによるものだったこと。
雑用兵を失ったゼーレ砦が、数日後にどれほどの機能不全に陥り、地獄を見るかを。
砦を出たレインは、王国と隣国を隔てる広大な樹海、『暴食の森』の獣道を歩いていた。
木漏れ日が差し込む薄暗い森の中は、常に濃密な魔素が漂い、凶悪な魔物が生息する危険地帯だ。熟練の冒険者パーティーですら、足を踏み入れるのを躊躇う場所である。
「とりあえず、隣の街を目指すか。金もないし、道中で食べられそうな獲物でも見つかればいいんだけど……」
ぐう、と腹が鳴る。
今朝は支給品の硬い黒パンを半分かじっただけだ。
その時だった。
『グルルルルル……!!』
前方の大樹の陰から、地響きのような唸り声とともに巨大な影が姿を現した。
体長は優に三メートルを超える。全身が鈍い銀色の毛並みに覆われ、額には鋭い一本の角が生えた巨大な熊。
Aランク指定の狂暴な魔物、『アイアン・グリズリー(鋼鉄熊)』だった。
その毛皮は鋼鉄をも弾き返し、騎士団の一個中隊(約百名)がかりでようやく討伐できるという、森の絶対的な捕食者である。
「うわっ、でっかい熊……」
グリズリーは、ひ弱な人間の姿を認めると、涎を撒き散らしながら後脚で立ち上がった。そして、丸太のような豪腕を大きく振り被り、レインの頭蓋を粉砕すべく全力で振り下ろした。
風を切り裂き、轟音とともに迫る鋼の爪。
普通の人間なら、恐怖で身動きすら取れず、肉塊に変えられるだけの圧倒的な暴力。
だが、レインの目には、その一撃が酷く『ゆっくり』に見えた。
(軌道が単調だな。それに、無駄な力みが多すぎる)
毎晩、極限の集中力の中で素振りを繰り返してきたレインにとって、グリズリーの攻撃は止まっているも同然だった。
彼は焦ることもなく、自然体で半歩だけ右へ踏み出し、剛腕を躱す。
「――シッ!」
そして、短く呼気を吐きながら、右手に持った竹槍を真っ直ぐに突き出した。
何の変哲もない、ただの素直な突き。
しかし、その一撃には、三年間で数千万回繰り返された血の滲むような修練と、極限まで圧縮された無意識の闘気が込められていた。
ズドンッ!!!
乾いた破裂音とともに、空間が歪んだ。
鋼鉄の毛皮、分厚い筋肉、そして強固な骨格。
それらすべてを、安物の竹槍が豆腐でも切るかのようにあっさりと貫通し、グリズリーの背中から巨大な風穴を空けて突き抜けたのだ。
「ギャ……ガ……?」
何が起きたのか理解できないまま、アイアン・グリズリーの巨体はゆっくりと前のめりに倒れ、ズズンと地響きを立てて沈黙した。
静寂が戻った森の中で、レインは血の付いていない竹槍の先端を見つめ、首を傾げた。
「あれ……? 熊って、こんなに柔らかかったっけ?」
そう呟きながら、倒れた巨大な熊の腹をポンポンと叩く。
「まあいいや。今日の夕飯は熊鍋にしよう。毛皮も売れば、少しは旅の資金になるかもしれないしな」
最強の魔物を一撃で屠ったというのに、レインの感想は『夕飯のおかずができた』程度のものであった。
己の異常な強さにまったく気づいていない追放された雑用兵は、鼻歌交じりに熊の解体を始める。
一方その頃、ゼーレ砦では――。
「おい! 薪割りはどうした! 水がねえぞ! なんで誰もやってねえんだ!」
と、バルドたちの悲鳴が響き渡り始めていたが、それはまた別の話である。
一本の竹槍だけを握りしめ、平民の青年が王国中を震撼させ、己を見下した貴族たちを無自覚にひれ伏させる痛快な伝説は、今ここから始まろうとしていた。




