私は、「好きだよ」って言いたい
王都に戻るのは、本当に久しぶりだった。
一人で乾杯するつもりで酒場に入ったら、酔っ払いに絡まれた。
「好きな子が死んだんだ」
その言葉を聞いて、酒の匂いに押し戻されるように、過去が喉元までせり上がる。
気づけば、意識は五年前へ連れ戻されていた。
◆◆◆
朝の光が窓硝子に砕け、白い壁に薄い明るさを広げていた。
その光を銀縁の鏡が拾って、私の輪郭を浮かび上がらせる。
手入れの行き届いた、まっすぐな金髪。
水色の瞳は、春の空みたいだと人は言う。
整ってるね、ともよく言われる。
でもそれは、金をかけてきたから当たり前な話。
この容姿で助かったことがあるかと聞かれたら、正直、首をひねる。
鏡の中の出来映えなんて、私にはどうでもいい。
顔がどうとか、得か損かとか、そういう話をしたいわけじゃない。私の問題は、もっと切実で、もっと生臭い。
私は『十七歳』『レイチェル・カークランド』『伯爵令嬢』という札を首から下げている。
でも札だけだ。
かつての伯爵家の屋敷は、両親の気配で満ちていた。
暖炉の火の匂い。書斎に積まれた本の背の色。食卓で交わされる、他愛のない会話。
家という器に積もる、あたたかさ。
けれど、両親を失った日から、それらは冷たい遺物に変わった。
今の屋敷の主は叔父。爵位も、財産も、権限も、叔父のものになった。
両親が事故で他界したあと、女は爵位を継げない国の決まりで、継承は叔父に回され、私は未成年のまま後見の名で囲われた。
私は伯爵令嬢のはずなのに、叔父夫婦の持ち物になった。
後見人の印があれば、私名義の金も外出も手紙も止められる。
保護者という肩書きは、叔父夫婦が私を動かすための鎖だ。
彼らは傲慢で厚かましい。しかも自覚がない。
よくもまあ毎朝あんな顔で朝食を食べられるものだ。パンが喉に詰まって死ねばいいのに。
踏みにじっている自覚のない人間は、足の裏だけ丈夫にできているのかもしれない。
害悪という言葉がこれ以上なく似合う叔父夫婦が私に用意した未来は、きっちりと紙に書ける形をしている。
形は結婚で、中身は売買。
相手は年老いた成金貴族で、私は心の中で『糞爺』と呼んでいる。
書面まで出来ている。私の署名欄は空白でも、婚約と持参金の取り決めは後見の署名で進められる形だ。
……自分の人生の決定権が、老いぼれの財布と叔父の欲の間で売られるなんて、悪趣味にも程がある。
結婚は学園卒業後、つまり一年後。
拒否権はない。拒めば屋敷を追い出され、学費も生活費も止まる。逃げても後見の権限で行き先を塞がれ、長くは保たない。
逃げることは考えたことはある。夜逃げも、やろうと思えば不可能じゃない。
でも私みたいな『見てくれを整えること』ばかり教え込まれた令嬢が、一人で生きていけるとは思えない。
売られて、見るも無残な姿の自分しか想像できない。
反抗も助けを求めることもできない。
私は叔父夫婦に教育されてきたから、その仕組みがどれだけ堅牢か、ちゃんと分かってしまう。
分かってしまうのが嫌だ。知らなければ希望という名の愚かさに浸れるのに。
とはいえ、言い換えれば一年の猶予がある。
学園は華やかだ。
黒板をこする音に、紙とインクの匂いが重なる。制服の裾が揺れて、噂が行き交う。
恋がある。友情がある。未来がある。
十代特有の、まだ本物になりきれていない眩しさがある。
だけど、私にとって学園は、猶予の舞台でしかない。
卒業までの一年で、私は糞爺との縁談を潰さなければならない。
正確に言えば、叔父夫婦が私を売り飛ばせない理由を作るか、縁談そのものをぶっ潰すか。どちらかを一年でやり切らなければならない。
回避策は一つ。先に婚約を取りつけて、叔父夫婦の縁談を通せない形にすること。
品がない? 知ってる。
下品? 認める。
糞爺は私が処女ではないと分かったら、興味を失う。
契約書にも、純潔を条件にする文言が入っていると聞いた──叔父夫婦が酒の勢いで笑いながら話すのを、廊下の陰で。
笑いながらそんな話をするな。お前らの血は何色だ?
話が逸れた。まあ、相手が好きな男なら……純愛、だよね? ってこと。そのはず。
……いや、本当は違うって分かっている。
私みたいな人間が、自分を守るためにかぶる最後の薄い布だ、って。
その布が薄いのも、よく知ってる。
でも、夢くらい見たい。
好きな男ってのは、同級生の、ジーク・フェルナン。
彼の名前を頭の中で呼ぶと、心臓が一拍だけ早くなる。
彼はまっすぐで正義感が強くて、善良だ。
ああ、善良。善良な人間って、どうしてあんなに眩しいの?
眩しいものは、こちらの汚れが目立つから嫌いなのに。
でも、自分にないものを持つ人って憧れるよね。
私はこの一年、彼にアプローチをするつもりでいる。
というか、すでにしているので『続けている』の方が正しい。
廊下で挨拶をする。話題を拾う。手紙を渡す。講義室で隣に座る。昼食に誘う。行事の準備で同じ班になるよう動く。
周囲から見れば、私たちは親しいはずだ。そう、つまり噂が立つ程度には。
噂というものは、時に武器になる。私の味方を増やすための、小さな盾にもなる。
でも私は、告白しない。
なぜ、って?
答えは簡単。
怖いから。
「好きです」と言って、困った顔をされたら。
「俺らはそういうのじゃないだろ」と言われたら。
優しく断られたら。
私はそこで終わる。
ついでに、生存戦略も私の恋心ごと焼け落ちる。
焼け落ちた後に残るのは、叔父夫婦と糞爺という、最悪の現実だけ。
……ああ、もう。好きになってくれないかな、私のこと。
鏡の中の私は、今日も大人しく礼儀正しい令嬢の顔をしている。
唇はきちんと結ばれ、背筋は伸び、視線も揺れない。
完璧な外面は、私が磨いた鎧だ。鎧の内側で、私は舌を出す。
制服の襟を整え、指先でリボンを結び直す。
淡い色の布が、私の喉元を飾る。
今日も私は、伯爵令嬢として微笑み、内心で悪態をつきながら、運命に喧嘩を売る。
朝の回廊、昼の中庭、放課後の図書室。私とジークが並べば、その事実だけが膨らみ、関係性という物語に加工される。
視線は勝手に意味を付け、噂は勝手に育つ。
だから、私たちは親しいと思われていた。
二人でいるところを見かける機会が多い。名前を並べて呼ばれることも増えた。
誰かが笑いながら言う。「また一緒?」と。
恋人未満。
その言葉は、ちょうど良い曖昧さを持っている。
断定しないくせに期待だけは含ませる、特別な間柄。
正直に言うと、その誤解は嫌いじゃなかった。嫌いじゃないどころか、助けになっていた。
周囲がそう思うなら、ジークも意識するかもしれない。意識が積み重なれば、関係は変わるかもしれない。そういう算段だ。
だが、ジークは噂話に疎い。噂が届かないどころか、本人は周囲の目を気にする様子もない。それでも周囲の女子への牽制にはなった。
それに、ジークは他の女子より私に笑顔を向けることが多かった。
……そう思いたいだけかもしれない。それでも、期待していいと自分に許した。
私は現実主義者で、希望的観測を戦略に組み込む程度には図太い。
そのはずだった。
卒業が近づくにつれて、空気は少しずつ変わった。
行事が終わり、掲示板の紙が減り、未来という単語がやたらと口に出されるようになる頃だ。
そこへ転入生が現れた。
キキ。
ジークの年下の幼馴染。
彼女は小柄で、よく笑う子だった。
それだけで、周囲はすぐに受け入れてしまう。
ジークのそばにいる姿が何度も目に入るうちに、私は理解した。
私の知らない時間が、二人の間には最初から存在している、と。
すぐに噂が流れた。
幼馴染。
久しぶりの再会。
仲がいい。
昔から一緒。
単語の洪水だ。
どれも決定打ではないのに、重なると圧になる。
私は見ないふりができなかった。ジークのことが好きだから。
で、追い打ちが来る。
「ジークって、節操なくベタベタしてくる……じゃなくて。距離の近い女の子が苦手なんです」
キキはそう言って、屈託がない、無邪気な笑顔を見せた。
「そういう、しつこい……じゃなくて、距離感が分からない人が近くにいるのって疲れますよね」
言い切った直後、キキは足元へ視線を落とし、慌てて笑った。
「噂で、色々聞いちゃって。変な言い方になりました。……ごめんなさい」
私はその場で、呼吸の仕方を忘れかけた。
そして理解した。させられた。私が積み重ねてきたものは、好意ではなかったんだ、って。
少なくとも、ジークにとっては、踏み込まれるものだったんだ、って。
私は、ただの同級生。特別でも、何でもない。
同級生ですらない可能性もあるのかもしれない。
思考が変な方向に加速する。自分でも分かる。
でも止まらない。
私は悪い方に解釈するのが得意だ。
ここで踏みとどまって確認すればいい?
本人に聞けばいい?
冗談じゃない。そんな勇気、どこに置いてきたと思ってるの。
私は引くことを決めた。
そう、敗北。
白旗を振って撤退。
これ以上近づけば、完全に拒絶されるかもしれないから。
それなら、こちらから距離を取った方がいい。
傷は浅い方がいい。
理解した瞬間、視界が少しだけ澄んだ。
ああ、これで終わりだ、と。
望まぬ結婚を避ける道は、ここで断たれた。
選択肢は残っていない。
叔父夫婦が決めた、年老いた成金貴族との結婚。
それを受け入れる覚悟を決める。決めるしかない。覚悟という言葉は、諦めを少しマシに見せる包装紙だ。
中身が諦めだと分かっていても、いや、だからこそラッピングの必要がある。
恋人未満だと思われていた時間は、もう終わる。
特別だったかどうかは、今となっては意味がない。
卒業式は、拍手や靴音や呼ばれる名前ばかりが多かった。
祝福という名の進行に、私は置いていかれないよう立ち、座り、礼をして、また立った。
感慨なんか、ない。
胸の中に祝うための空きスペースなんてなかった。あるのは重たい感触だけ。
式が終わり、人が散る。
ここで終わり。
そう思った瞬間、足が動いた。頭より先に。理屈より前に。
最後に──
最後だから、話しかけるくらい、いいよね?
いや、正確に言うと、告白したい。
そう、したいだけ。気持ちは返ってこなくてもいい。「好き」だけ言って、それで運命が変わるわけがないと分かっている。
でも、言わないまま終わるのと、言って終わるのとでは、私の中の後処理が違う。
私はジークを探した。
見つけるのは簡単だった。人の輪の中心にいるから。
声をかけようとして、息を吸った。
でも、その前にジークの方が私に気づいて駆け寄ってきてくれた。
「レイ、卒業おめでとう」
「ジークも……おめでとう」
「……でも、全然嬉しそうじゃないな。……大丈夫か?」
人の輪の真ん中にいたのに、私の顔色だけは見えていたらしい。ジークは少し眉をひそめて、輪から外れるように私の横へ寄る。
「大丈夫だよ」
ジークはじっと私の耳のあたりを見る。
視線を追って、自分の指先に気づく。いつの間にか、耳たぶをいじっていた。
「また触ってる」
「え?」
「耳」
心臓が、うるさい。
そんなところまで見ていたなんて、やめてほしい。
自分でも気づかない癖に気づかれて、顔が熱い。
どうしよう、嬉しい。
「……レイ、そのさ、俺──」
「ねえ、ジーク、私──」
二人の言葉が重なったそのとき。
「ジーク! 卒業おめでとう!」
キキが現れた。
自然な動き。呼ばれたみたいに、するっと。
二人は言葉を交わし、流れるように会話に入る。
昔の話だろうか。私は知らない話題。知らないテンポ。
あの日の言葉が、まだ耳の奥に残っている──『距離の近い女の子が苦手なんです』
だから、言えなかった。
最後まで。
ううん、最後だからこそ。
ジークの横顔を見て、私は微笑んだ。
……これでいい。
これが私の引き際だ。
そう思って一歩退いた瞬間、胸の前にあった何かが、ぱたりと閉じた気がした。
お祝いのざわめきに紛れているうちに、叔父夫婦が近づいてくる。
そして私は連れて行かれた。文字通り。
「レイチェル! 早くしろ!」
「待って、叔父さ……」
「早く乗りなさい。いい? 私たちは同乗しない。代わりに監視役をつけた。逃げようなんて考えるんじゃないわよ!?」
「……はい」
叔父夫婦は容赦がない。
式が終わったその足で、私は馬車に押し込まれた。御者台には雇いの護衛が二人、扉のそばには監視役が一人、無言で立っていた。
荷物は最小限。選ぶ時間もない。選ぶ権利もない。
伯爵令嬢の扱いとしては雑すぎる。でも彼らにとって私は商品で、問題にならないのだろう。
去り際、ジークと視線が絡んだ。
なんとなく、キキがばつの悪そうな顔をしていた。同情されたんだなと思った。そして彼女もジークが好きなんだなあと、腹の底で理解した。
大丈夫、怒ってないよ、と意味を込めて笑っておいた。
分かるよ、恋をすると、ちょっと意地悪な自分が出てくるよね。
同時にジークの声が飛ぶ。
「またな、レイ! 連絡する!」
また。
便利な言葉だ。
未来を約束する体で、何も保証しない。
でも私は頷いた。頷いてしまった。否定する理由も、力もなかった。
どうせ私はすぐに、糞爺とやらの家へ運ばれる。
そこにこの『また』の入り込む余地はない。
私の中で、その言葉はもう過去形だった。
馬車は走る。
王都を離れる。
窓の外で、見慣れた景色が後ろに流れていく。ここで終わりだ、と何度目かの確認をする。
だけど、終わりは別の形でやってきた。
激しい衝撃。
怒号。
馬が悲鳴みたいな声を上げ、馬車が横腹を蹴られたみたいに傾く。
荷物が崩れて、身体が跳ねる。
外から誰かの叫びが聞こえた。
「盗賊だ!」
言葉として認識する前に、身体が理解した。
次の瞬間、火薬みたいな臭いが鼻を刺した。
「荷だ! 馬車を開けろ! 女がいたら押さえろ!」
誰かの叫びと同時に、護衛が舌打ちをして御者台から飛び降り、盗賊の方へ回り込む。
扉のそばの監視役も、こちらを一瞥しただけで背を向けて逃げた。
そういう雇い方をしたんだな、と思った。
乾いた破裂音。
荷のあたりから橙の火が跳ね、幌に舐めるように移る。
これは予定外。
予定外は怖い。
でも、叔父夫婦の予定通りよりは、まだましだと一瞬だけ思ってしまった。
混乱の中、私は扉か窓か分からない隙間から転がり出た。街道脇の斜面へ落ち、草を掴んで転げた。
その拍子に、喉元のリボンが何かに引っかかり、きゅっと締まる。
息が詰まり、反射で結び目をほどいた。
指が震えて上手くいかない。乱暴に引きちぎるように外して、投げ捨てた。
振り返る余裕はない。足だけが前へ出る。
必死だった。
考える余裕なんてない。
走って、転んで、また走る。誰かに追われているのかも分からない。
ただ、背中に刃を感じる気がして、足を止められなかった。
生きたい。それだけが、全部を支配する。
足がもつれ、斜面の草むらに頭から突っ込んだ。硬いものにぶつかる感触。視界が白く弾けて、音が遠くなった。
そこから先の記憶はない。
気がついたとき、私は知らない天井を見ていた。
木の匂い。
薬草の苦い香り。
年老いた女性の声。
「アン、目が覚めたのかい」
アン? 誰? 私が?
どうやら老婆は私を孫だと思っているらしい。
いわゆる、『ぼけている』という状態なのだろうか。
名前も関係も過去も曖昧だ。でもその曖昧さが、私を救った。
説明しなくていい。証明しなくていい。
何者かを問われない場所は、それだけで安全地帯だ。
しばらくして、身体を起こせるようになった頃、窓の外を見て気づいた。
見えるのは山と森ばかりで、街道らしい道もない。王都から遠く離れた場所だということくらいは、ぼんやりした頭でも分かった。
ここなら、少なくともすぐには見つからない。
私は、否定しなかった。
レイチェル・カークランドは、ここにはいない。
伯爵令嬢でもない。結婚話も、叔父夫婦も、成金貴族も、全部、遠い場所の話。
アンとして暮らす。
そう決めた。
決めた瞬間、息が少しだけ軽くなった。
重さが消えたわけじゃない。
形が変わっただけ。
でもそれでいい。
今は、それで生きられる。
私は、名前を捨てた。
その代わりに、命を拾った。
◆◆◆
そして、冒頭へ戻る。
「好きな子が死んだんだ」
夜の酒場は、笑い声と湿った熱で満ちていた。
卓を叩く音。杯の縁がぶつかる音。甘い酒気と、焦げた肉の匂い。
その声だけは、聞き間違えようがなかった。ジーク・フェルナンだ。
「死んだんだよ。だから、ほら、もういない。んでさ、いないのにさ、俺は……まだ……」
言葉が絡まる。舌が回っていない。
目だけが冴えていて、焦点が合ったり外れたりする。頬は赤いのに、顔色は悪い。
それよりも。
好きな子が死んだ?
誰のことだろう、なんて考える余地はない。
胸が勝手に答えを出してしまう。
私のこと、だよね……?
さっきから、というか今も「レイ、レイ……」ってうわごとみたいに言ってるし。
灯りは揺れている。炎は細い。夜気が戸口から入り込み、頬の熱を冷やす。
私は息を吸って、吐いて、また吸った。
ここにいる理由はひとつ。薬師のお婆が亡くなり、私は山を下りた。身を寄せる場所も仕事も探し直す必要があって、王都へ来た。
山での暮らしは四年続いた。
お婆は呆けていたけど、薬師の在り方を全部教えてくれた。
まあ、前日に言ったことを忘れる日もあったけど、同じ話を何度も聞くうちに、自分で繋げていって何とか吸収した。
薬買いの男に、「王都に行ったら薬師は大歓迎されるだろうよ」と言われて、それを鵜呑みにして山を下りた。
私は今、アンじゃない。
レイチェルでもない。
宿帳にだけ別の名を書いている私は、夜の酒場で、死んだ私の話を聞く羽目になっている。
「俺が、片をつけたんだ。あいつらのこと」
「『あいつら』?」
「レイの叔父夫婦」
ジークは杯を持ち上げ、半分こぼして笑った。笑い方が下手だ。笑う場所じゃないから、余計に下手に見える。
「どうやって?」
「騎士団に入ってな。表に出ない部署だった。貴族絡みの揉め事とか、金の流れとか、そういうのを洗って、罪を確定させる仕事だ。んで、辿り着いた。横領、脅し、書き換えられた帳簿。証拠を揃えて踏み込んで、拘束した」
杯が空になる。
「燃えた馬車のそばから、レイのリボンが焦げたのだけ見つかっただけで、成金側が圧をかけた。遺体が無くても、失踪扱いを短期で死に寄せる手続きがある、とまで言っていた。早く片をつけろ、契約を白紙にしたい、って。最後に親族であるレイの叔父が死亡届を出した。遺品と成金の圧と死亡届。三つが揃えば、形式上は通る。まともじゃないが、通るように捻じ曲げてさ。葬儀まで済ませて、死亡扱いが通った時点で探す理由も消えた。成金の方も契約を畳んで手を引いた。盗賊に襲われてるなら生きていても瑕ものだから、って……あの下衆野郎……」
私は視線を落とした。
酒場の熱が、急に息苦しい。
「気持ちが晴れるはずだったのにな」
彼は続ける。
「俺はさ。間に合わなかったんだよ。間に合わなかった。間に合わないって、どういうことか知ってるか?」
知ってる。
最後まで言えなかった。
一言でいいのに。好き、とだけ。
ジークが顔を上げる。
でも、彼は私に気づかない。
それもそのはず。今の私はショートカット。髪もバレないように染めた。お婆の作った染料は、期限切れか何かで、茶色の予定が藍色になった。変装の化粧でそばかすも足している。
しかもジークは、ベロベロに酔っている。
「好きだったんだ」
ジークはまた、言った。
棺の蓋を閉じるみたいな言い方だなと思った。
「可愛かった。照れたり緊張するとき、耳を触るんだ……おい、やめろ、真似すんな。……くそ、レイに見えてきた……んなはず、ねえのに……」
言われてすぐに耳から指を外す。
自分でも気づかないまま、指先で耳たぶをいじっていたらしい。
癖って怖い。
「好きだったんだ、本当に」
さらりと言いやがる。
「言うの遅いよな。遅い。遅すぎる。遅いっていうか……」
胸は勝手に痛む。痛いくせに、変なところが熱い。
「……」
私は何を喜びかけているんだ、喜んでる場合じゃないのに。
「……幼馴染のキキちゃんに慰めてもらえば?」
「あ? キキ? なんで?」
「好き同士なんでしょ?」
酔っぱらっているのをいいことに聞いてみる。
「妹みたいなもんだからな、好きとか嫌いとかの次元じゃねえ」
「……『レイ』のことも、そうなんじゃないの?」
酔っぱらっているのをいいことに、もう一度だけ聞いてみる。
「違うんだ。俺は、あいつが死んでから……」
ジークは杯を握ったまま、喉を鳴らした。
「やっと気づいたんだ、ばかだよな」
彼はまだ私を判別できない。酔いの膜が厚い。
「……帰りなよ」
口から出た声は、思ったより落ち着いていた。
ジークが顔を上げる。
「あ? お前、誰だ」
「通りすがりの美女だよ」
「はあ? 美女? おせっかいの間違いだろ。言い直せ」
「む」
私は息を吐いて、椅子の背に手を置いた。
「倒れる前に帰れって言ってるだけなのに、『おせっかい』?」
「そうだ。……俺は今日は帰りたくないからな」
私は少し迷った。
迷いの間に、お婆の顔が浮かぶ。
あの人は私を「アン」と呼んで、私を生かした。
私はあの人の墓前で誓った。生きる、と。
生きるために、逃げるだけじゃなく、選ぶこともする、と。
だから私は決めた。
「じゃあ、私の部屋に来る?」
言いながら、私は店主へ目配せした。
店主は面倒くさそうに頷き、戸口の近くにいた用心棒へ顎をしゃくる。
この街の安宿は、こういう時だけ連携が早い。
ジークが笑った。
「はあ? 男を持ち帰るな、いなかもんが」
「田舎者じゃないよ、私、生まれはこっちだもん」
私は彼の腕を取り、立たせる。
だって仕方ないでしょ、と自分に言い訳をする。
放っておけば、このまま床で眠って身ぐるみはがされるか、最悪は死ぬ。
何より自暴自棄って感じで放っておけない。
ジークはふらつき、私の肩に額を預けた。
酒の匂いが強い。昔の彼は、こんな匂いをさせなかった。
昔の私も、こんな場面を想像しなかった。
「……れい、ごめん」
ジークが小さく呟いた。
呼吸に混じった音。
はっきりした意識の言葉じゃない。
夢の中の名前の呼び方。
というか、何に対しての謝罪なんだろう?
分からないけど、許してあげる。
「うん、いいよ。許す」
「……れい、すきだ」
私は動きを止めた。
心臓が、間抜けなくらい跳ねた。
「はあ……酔ってる人の言葉を鵜呑みにしたら、だめだよね」
誰に言ったのか分からない。
ジークに言ったのか、自分に言ったのか。
私は『亡きレイチェル』への告白を聞いたまま、酔っ払いのジークを連れて帰る。
お持ち帰り、というやつだ。
──ジークは、朝、起きたらなんて言うのかな。
【完】
※今月中にあとがき欄にて、タイトルの台詞の後がどうなったか分かるか、もしくはジーク視点載せます(20260207 ゼン)。




