【96】
「もしかして……天里くん?」
「ひょっとして、今まで気付いていなかった? まぁ、いっちゃんの前で元の姿に戻ったことが無いから仕方ないか。響葵が人間になったことで、あの場でうさぎがいなくなると話がややこしくなると思ったんだよね。それでこの姿に戻ってみたんだ」
彩月の足に捕まってよじ登ろうとするうさぎ姿の天里を抱き上げると、天里は器用に彩月の肩にしがみつく。よく手入れされた柔らかな毛が頬に当たってくすぐったかったが、天里が落ちないように身体を支えながら気になっていたことを尋ねる。
「それにしても天里くんは響葵くんとは違って背中の毛が茶色なんだね。うさぎが響葵くんじゃないっていうのは気付いたけど、話しかけられるまで誰か分からなかったよ」
「地上に来て髪を染めた影響なのかな。それまでは響葵と同じ黒毛で見分けがつかないくらいそっくりだったんだよ」
人の姿をしている時の天里は後ろ毛を茶色に染めていたが、その影響がうさぎの時も出ているということなのだろうか。背中の一部分だけが茶色の毛だった理由も納得がいったのだった。
「本当だ。こうして見ると、響葵くんと顔や身体の大きさが同じだね」
「そこは同じ親から生まれた兄弟だから。この姿の時はみんな見分けがつかなくてオレたちのことを間違えるけど、不思議と姫と眉見だけは見分けられたんだよね」
「月祈乃さんと眉見さんは二人の家族だからじゃないかな。兄弟でもよくよく見比べると違うところがあるから。ところで響葵くんはどうやって人間の姿になったの? 今までずっとうさぎ姿のままで、《超常力》も使えなかったよね?」
「それは……」
「姫様のご家族はようやっと帰られましたぞ。いやはやご苦労なことでしたな」
響葵が口を開きかけた時、開け放たれたままの入り口から顔を出したのは玄朔と犀原であった。いつもと同じ好々爺といった様子の玄朔に彩月は頭を下げたのだった。
「今回はうちの両親と姉がご迷惑をお掛けしてすみませんでした。部屋も滅茶苦茶にしてしまって……」
「ほほほっ……これしきのこと姫様の御身に比べたら安いものよ。年寄りが出る幕は無かったようじゃ。無事で何より」
「……月の姫として覚醒したのだな」
「覚醒したの? 自分では全然分からなかったけど……」
「小さな振動を与えて物を倒したり浮かせたりと《超常力》が力を振るえるのは狭い範囲だけだが、月の姫が持つ『月の加護』だけは広範囲に影響を起こせる。特に自然に干渉して災害や現象を発生させられるのは、月の姫しか出来ない高度な手法だからな」
つまり大学で教室の窓ガラスを全て割った時のように最初に置き物が飛んできたのは自分が持つ月の民の力――《超常力》によるものだったが、その後の地面を突き上げるような大きな揺れは彩月だけが持つ『月の加護』が原因だったということらしい。
とうとう《超常力》に続いて、目覚めたばかりの『月の加護』まで制御できずに暴走させてしまった。自分の不甲斐なさに臍を噛む思いである。
「ごめんなさい。自分が力を制御できないからこんなことになって……」
唇を噛み締めて身を小さくするが、うさぎ姿の天里が安心させるように彩月の頬に顔を寄せる。
「これくらいで済んで良かったよ。ヒビが傷付く姿を目にして屋敷ごと吹っ飛ばされると思ったから。そうなったら、何としてでもいっちゃんを止めなきゃならなくなってた。下手をしたらこの辺り一帯が爆弾でも落ちたみたいに更地になっていたからね」
「あまり追い打ちをかけるな。俺は何とも無いから心配しなくて良い」
安心させるように響葵は一笑するが、彩月にとっては肝を冷やす思いであった。
爽月の手が響葵に当たって壁に飛んでいき、他のうさぎを買えば良いという爽月の言葉にカッとなった後、頭の中で何かが切れる音が聞こえた。
それをきっかけに《超常力》と『月の加護』が暴れ回ったので、あれは今まで彩月の中に眠っていた『月の加護』に目覚めた証だったのだろう。最初に月の民の血に目覚めた時も同じものを感じた覚えがあった。封印されていたかのように、自分の奥底に沈んでいた未知なるモノが浮上してきたような感覚。
自分の中でふわふわとして掴みどころ無く、いつ爆発するか分からない状態で漂っている言い知れない大きな力の存在が。
「響葵くんが壁にぶつかって動かなくなった後、爽月の言葉で頭の中が真っ白になったの。そうしたら歯止めが利かなくなって……本当に怪我は平気なの? 病院に行かなくて良いの?」
「うさぎ姿のままだったら命に関わっていたかもしれないが、月の民として覚醒した君から溢れた『月の加護』がもう一度人の姿にさせてくれた。また君に命を救われてしまったな。恩人である君に感謝する」
初めて会った時に野良猫から助けた時の話をしているのだろう。あの後、川で溺れかけた彩月を響葵が助けてくれたので、響葵を助けたうちに入らない。それどころか何度も彩月は響葵に助けられている。彩月が反射的に首を大きく振ったので、危うく天里が肩から落ちそうになったのだった。
「全然そんなこと無いって! 響葵くんが人になろうと努力したからだよ」
「きっかけはどうあれ、俺一人ではきっと人の姿になれなかった。危険が迫る君を前にしてどうにかして人にならければと必死に踠いていたが、ただのうさぎである俺には目の前で君が傷付けられる姿を見ていることしか出来なかった。どうも出来ずに歯軋りをしていたところで、姫として覚醒した君が放つ『月の加護』が俺に力を与えてくれた。君が月の姫で本当に良かった……」
込み上げてくる感情を堪えるように消え入りそうな掠れ声で呟いて、響葵は彩月を抱き締める。
感極まって言葉を失った響葵に対して、潰されそうになった天里は器用に彩月の肩の上によじ登って避難すると安堵の息を吐く。そして彩月たちを見守っていた玄朔たちを振り返って尋ねたのだった。




