【92】
「ほら、いっつもそう! 昔から都合が悪くなると俯いてうじうじ泣き出す。そうやって自分が被害者みたいな顔をするのっ! 私たちが虐めの加害者みたいに思われてこれまで散々嫌な思いをしてきたのよっ!」
「違う! 私はそんなつもり……っ!」
「家を追い出してもう二度とあんたの顔を見なくて済むと思っていたのに、久慈川家で世話になっているって教えられなければわざわざこんなところまで来なかったのに……っ!」
細面の美人顔を崩れてしまうほど歯軋りをした爽月に襟元を引っ張られる。
癇癪を起して八つ当たりで暴力を振るわれたことは多々あったが、ここまで爽月が柳眉を逆立てた姿を見たことは無かった。
彩月は恐怖と驚愕で目を大きく見開いて、爽月を見つめたのだった。
「あんたに恋人がいるなんてあり得ない。その相手が資産家の久慈川家の人間ってなんてもっと許さないっ!」
「さっ、爽月……」
「あんたは私の次。私より偉くなるなんて絶対に認めないから……!」
先程までの体裁を気にして舌戦に徹していた時とは打って変わって、爽月は強烈な敵愾心を剥き出しにして声を荒げて彩月を威喝する。
あまりの禍々しさに助けを求めて天里たちの方角に目を向けるが、そんな彩月の行動さえ癇に障ったようだった。首を絞める手に力が込められて息が詰まりそうになる。
「ぐぁあ……あっ!」
「何も知ろうともしないのにヘラヘラ笑っているのがずっと気に入らなかった。私と同じ顔で! 人の気持ちも知らないでっ! 私が今の場所に来るまでどれだけ大変な思いをしたか知ってる? 誰にも取られないように維持してるのよ、こっちはっ! 私の“次”で良いなんていうあんたには絶対に分からないでしょうねっ! 私の悩みなんてっ! 何の苦労も経験しないで、ただ与えられた物を受け取るだけのあんたにはっ!」
そしてウェーブのかかった茶色のロングヘアを振り乱して憎悪を剥き出しにした爽月がテーブルの上でひっくり返っていたティーポットを鷲掴む。わずかに残っていたぬるい赤茶色の雫が彩月の顔に跳ねて爽月の服に染みを作ったのだった。
「訳知り顔で喋らないでっ! 変な力を持つ月の民が何なのか知らないけれど、あんたなんているだけで他人を不快にさせるのよ! 私に何度も劣等感を植え付けさせて、人を傷付けるだけの化け物がっ!」
ティーポットを持つ爽月の手が振り上げられた時、頭を守ろうと反射で両手を振り上げた彩月の視界の隅で本棚がぶるりと大きく震える。
そして意思を持った生き物のように棚に残っていた本を数冊吐き出すと、ティーポットを掲げた爽月の手首に向かって真っすぐ飛んできて手から払い落としたのだった。
「いたっ……!」
爽月が怯んだ隙に彩月は手を振りほどいて距離を取るが、目尻に涙を溜めながら睨み付けてくる爽月に怯んで足が竦んでしまう。
一方で爽月を心配して両親が近づこうとするが、爽月の手から落ちて粉々に砕けたティーポットと先程の揺れでこぼれた紅茶と四方八方から飛んできた室内の調度品で足の踏み場が無く、その場に留まることしか出来ずにいた。
やがて痛みが治まってきたのか目を血走らせた爽月が手を伸ばし掛けるが、今度はその手に転がっていた置き物がどこからか飛んできてぶつかる。そしてよろめいた爽月にトドメを刺すかのように、爽月の足元のカーペットだけが波打ち始めたのだった。
「な、なっ、何なのよ、これ!?」
踊るように足を動かしては狭い足場でどうにか体勢を整えようとするが、寄せては返すカーペットの千重波は容赦なく爽月を追い詰めた。
ダンス初心者のようなぎこちないステップを取り続けていた爽月だったが、とうとう割れたティーカップや陶器製の置き物の破片に足元を取られると鋭利な破片が散らばる床の上に倒れたのだった。
室内にこだまする爽月の断末魔の悲鳴とカーペットを真っ赤に染める血にすっかり腰が抜けて彩月がその場に座り込んでしまうと、視界の隅では赫怒で顔を真っ赤にした父親が足早に近寄ってくる。
「こんなことをして許されると……っ!」
「彩月に触れるな」
響葵の低声に続いて、父親から彩月を守るように天井に設置された照明が割れてガラス製の欠片がパラパラと振り落ちる。そしてガラスの細氷の向こう側には、天里に背中を支えられた人間姿の響葵が力を放出するように真っ直ぐ正面に片手を伸ばしていたのだった。




