【9】
「月の姫……? 月の姫って何?」
「それは……」
「ああ、良かった。目を覚ましたんだね」
うさぎが口を開きかけた時、川辺に繋がる土手の階段を降りながら若い男性が声を張り上げていた。
さっき夢現の中で聞いた耳心地の良いバリトンボイスに似ていると考えている間に、男性は彩月たちの元に駆け寄ると、顔を覗き込むように膝をついたのだった。
「うさぎを追いかけて川に飛び込む姿を見かけたから心配していたんだ。無事で安心したよ」
毛先だけを茶色に染めた黒漆のロングヘアをうなじまで伸ばした派手な容姿に、紺のテーラードジャケットと黒のスラックス、そして黒いサングラスといった出で立ち。明らかに閑静な住宅街には不釣り合いなパンクスタイル風の男性に彩月は緊張して目線を下に向けてしまう。
しかし男性はそんな怯える彩月を宥めるように艶のあるバリトンボイスで優しく声を掛けながら、ジャケットを肩に掛けてくれたのだった。
「女の子が身体を冷やしちゃダメだよ。帰ったらシャワーを浴びて身体を温めて。残暑の季節だからって油断しないでね。必要なら救急車を呼ぶけどどうする?」
「大丈夫です。あっ……ありがとう、ございます……」
幾分か柔らかくなった声音に身体を強張らせていた彩月もそっと胸を撫で下ろす。
もしかしたら見た目に反して悪い人では無いのかもしれない。ほっとして彩月は肩の力を抜いたのだった。
「でもこんな高そうなお洋服をお借りできません。今の私はその……お世辞にも綺麗とは言い難い格好をしていますし……」
秋の涼風が吹く度に彩月の身体からは魚の生臭さと泥の混ざった悪臭が漂う。
カラスに攻撃されて服はボロボロで、川に落ちた時に脱げてしまったのかパンプスさえ履いていない。乱れた髪と落ちてしまった化粧もそのままで恥ずかしさが募ってくる。
羞恥で顔を真っ赤にしていると、派手な男性はそんな彩月を愛おしむように大きな掌で両頬を包んでくれたのだった。
「気にしないで。家に帰れば同じような服が沢山あるから。それに……君とはまた会うような気がするからね」
「それはどういう……?」
「うちのうさぎを助けてくれてありがとう。探していたんだ。ようやく見つけたと思ったら橋の上から落ちるところで、そうしたら君もうさぎを助けようとして一緒に飛び降りちゃって。心配したよ、ふたりとも」
「あっ……お兄さんのうさぎだったんですか。この子」
派手な見た目に反して実は動物が好きなのかもしれない。
顔を上げると口元を緩めた男性の濃艶な微笑みと目が合ってしまったので、気恥ずかしさから咄嗟に傍らのうさぎに目線を向けるが、そこでようやくうさぎがそっぽを向いて男性と目さえ合わせていないことに気付く。
この男性が嫌いなのか、それともわざと顔を背けてしているのか。
「前から脱走癖はあったんだけど、勝手に戻るからそのままにしてたんだよね。いつもだったら逢魔時には帰ってくるはずなんだけど、なんでだか今日は帰って来なくて。一応……探していたんだ」
どこか含みがあるようにうさぎに視線を送るが、相変わらずうさぎは飼い主という派手な男性を無視していた。その不機嫌そうな態度を見れば見るほどに、彩月を叱った饒舌はどこにいったのかと考えたくなってくる。
そんなうさぎの態度に慣れているのか、男性はやれやれというように肩を落としたのであった。
「でも君が保護してくれて助かったよ。ありがとう。危険な目に合わせてごめんね」
「いいえ、大したことはしていません。それに川で溺れていたところを助けてくれた方がいたようで……もしかしてお兄さんが私たちを川から引き揚げてくれたんですか?」
「オレが駆け付けた時にはここに倒れていたよ。カラスを追い払いつつ荷物を回収するのに、ちょっと時間が掛かってね。間に合わなかったんだ」
「そうですか……」
それならあのキョウくんは彩月が見た幻か、他に助けてくれた人と見間違えたのだろう。
そう都合良く敬愛する推しがただのファンである彩月の目の前に現れるはずがない。そんな奇跡が存在するとも到底思えなかった。
全て命の危機に瀕した彩月が推しを恋しむあまり走馬灯にまで現れただけだったと結論付けたのだった。