【87】
「い、彩月。くっ、苦しい……」
「ごっ、ごめん! 響葵くん……」
あたふたしながら小声で話していた二人を見兼ねたのか、横から伸びた手に響葵を奪われてしまう。「何をするんだ天里!?」と響葵はじたばた藻掻くものの、天里は平静を保ったままで「すみません。うちのうさぎが興奮したみたいで」と彩月の両親に説明しながら、自身の膝の上に乗せたのだった。
「その様子だと綺世さんは月や月の民のことをご存知のようですね。お嬢さんの彩月ちゃんと――彩月ちゃんの姉妹は知らなかったようですが」
急に注目を集めたからか、爽月は母親の腕に縋りついたまま両目を瞬かせて横を見るが、半狂乱状態の母親は気付いていないようだった。
忌々しいというように苦虫を噛み潰したような顔で母親が重い口を開く。
「……この子たちが生まれた時に主人の両親や親戚に言われたのよ。『この子は月に愛された特別な子だ』、『この子は月の民の運命を左右する子だ』って。全員揃いも揃って訳の分からないことを言うのよ。下の娘――彩月に向かって」
憎悪と恐怖が入り混じった母親の厳しい眼差しに身体が竦んでしまう。彩月が生まれてから抱えていた積怨に膝が震えて逃げ出したくなるが、両手を強く握り締めてどうにか堪えたのだった。
「彩月ちゃんには月の民の血が流れていますが、それはご両親のどちらかが月の都から地上に降り立った月の民の子孫だからです。どうやらお父さんが月の民の子孫だったようですね。いっちゃん、お父さんの両親や親戚について何か知ってる?」
天里が「いっちゃん」と呼び掛けた瞬間、ほんの僅かに爽月が眉を動かして彩月を凝視するが、彩月はゆるゆると首を左右に振る。
「何も知らない……お父さんはおじいちゃんたちと仲が悪かったから」
彩月はほとんど覚えていないが、父方の祖父母が存命な頃は彩月たちをうんと甘やかしてくれたらしい。
特に彩月に関しては目に入れても痛くないというように爽月よりも可愛がっていたようで、それが両親の癇に障ったと聞かされた。
彩月の扱いについて意見が対立してからはお互いの家を行き来することも無くなり、やがて祖父母の味方をする親戚とも連絡を取らなくなった。
そして祖父母の葬儀に参加したのを最後に、父方の親類に関しては何も知らずにいたのだった。
「それはそうだ! 親父たちは何かと彩月だけを優遇する! 彩月なんて爽月と比べたら容姿も知能も劣る。爽月の劣化版も良いところだっ!」
「私たちが爽月を可愛がれば、もっと彩月を愛せと口を挟んでくる。彩月を注意すれば、彩月を大切にしろ、彩月は一族の家宝だと繰り返す。何をするにしても彩月が優先、口を開けば彩月のことばかり。もううんざりなのよ、こっちはっ!! 爽月を見なさい。爽月だって私たちの娘なのよっ! それもこんなにも綺麗で器量が良くて、誰よりも優秀なのよ!」
身体に絡みつくようなどろりとした彩月への嫌忌。覚悟をしていたものの、直接言われる骨身に答えるものがあった。
自分でも思っていた以上に落胆しているということは、やはりどこかで期待していたのだろうか。また両親とやり直して、爽月とは昔のような親密な姉妹関係に戻り、ずっと憧れていた深い信頼関係で結ばれた家族になれるかもしれないと。和解の道はどこにも存在しなかったとこれではっきりしたにも関わらず、ショックを隠しきれない。
底知れぬ深い寂しさが胸に迫って会話が頭に入ってこなかったが、そんな彩月の様子を気にする様子もなく、母親はこれまでの鬱憤を晴らすかのように怨恨を込めて鼻息も荒く捲し立て続ける。
「爽月はSNSでも話題になって、誕生日にはファンから誕生日プレゼントも贈られる人気者よ。そんな子が平凡以下の彩月より格下なんて可哀想でしょ! だから私たちが愛してあげることにしたの。彩月なんかよりもずっと大事に愛して……」
「同じ姉妹でも彩月ちゃんは違うと?」
顔に笑みを貼り付けたまま、天里は艶のある声を低くする。その声は怒りを必死に押さえているようであり、爽月を称える両親への吐き気を堪えているようでもあった。
先程から両親が彩月を貶して爽月を賞賛すればする程に彩月たちは天里から発せられる激憤を感じて肌がピリピリと痛んでいたが、両親と爽月は気付いていないのだろうか。
そんな天里の怒気を意に介さず、母親は爽月の賛美と彩月への怨念を感情が昂ぶるままに熱弁する。
「この子はしっかり私たちの期待に応えてくれたわ! 国内でも有数の大学に合格して、彩月なんかを褒め称える親族の誰よりも優秀であることを証明してくれた。芸能界デビューも間近だって事務所に言われたのよ! 子供の頃から出来が悪くて私たちを立腹させてばかりの彩月とは大違いよ! あれだけ家のために働けと言ったにもかかわらず、三流の短大に通うなんてとんだ恥晒しだわ!」
「大切なのは、学校の優劣よりも彩月ちゃんが自分の力だけで学費免除の特待生として入学したことではありませんか。聞いたところによると、学生寮の費用や教材代も全て彩月ちゃんがアルバイトで得た給料から支払っていたとか」
「自立するのは当然だ。もう大人なのだからな! あんな将来性が無い奴に使う金でさえ勿体無い。こんな出来損ないに気を遣えなんて親父たちはいったい何を血迷ったのか……」
「主人の両親や親族が間違っていたのよ。月の民だか何だか知らないけど、どうせ私たちの教育方針が気に入らなかったから横槍を入れたかっただけだわ……」
「なにそれ……っ! じゃあ今までずっと子供みたいに親に反抗してたってことなの!? 私を大切にするように言われただけで!?」
黙っているつもりだったが、つい頭に血が昇って叫んでしまう。これまで自分が両親の言葉を真に受けて従ってきたのは何だったのか。両親が爽月ばかり大切にするのは自分に原因があるからと悩んだ時期もあった。両親が愛する爽月と同じになれば、自分も家族の輪に入れてもらえると信じて努力をしてきた。
けれどもそれら全てが無駄だった。原因は彩月ではなく両親にあったのだ。祖父母や親戚の言葉が気に入らないからといって、反抗期の子供のように抵抗していた両親に。
両親に好かれたいと遊びや対人関係も放り投げて血の滲むような努力をしてきた彩月の二十年間は何の意味もなさなかった。全て両親の身勝手な行動に振り回されていただけだったと知ってしまい、泣き崩れたい気持ちになったのだった。
「彩月! 自分の親に向かってなんて口の聞き方なの!! パパたちに謝ってよ!!」
両親を愛し、愛されてきた爽月が即座に彩月を叱りつける。きっと爽月には彩月の気持ちを理解できないだろう。
自分が欲しいものを目の前でちらつかせられて“次”を待ち続けた苦渋と、期待と落胆を繰り返していつか訪れるであろう“次”を信じた苦衷。
そして最初から“次”が無かったと、これまでの待ち続けた時間を否定された彩月が味わう塗炭の苦しみを。
これまでずっと黙っていた彩月が急に怒声を上げたのが意外だったのか両親は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、しばらくして肩を震わせると青筋を立てて両目を釣り上げて怒髪天を衝く形相となる。
もう後には引けないと、彩月は今まで胸に秘めていた想いを吐露する。




