【84】
翌朝、彩月が食堂に降りて行くとすでに天里たちは起きて食事を済ませていた。朝の支度を手伝ってくれた狐塚によると日付が変わるまで対策を練っていたようで、まだ眠そうな響葵は陽当たりの良い窓辺に敷かれたクッションの上で舟を漕いでいたのだった。
「こうしているとただの可愛いうさぎなんだけどね」
食後の紅茶を片手にそんな天里の言葉に苦笑していると、誰かのスマホがメッセージアプリの着信を告げた。自分のスマホを確認しようと彩月がポケットから取り出したところで、眉間に皺を寄せてスマホの画面を睨みつける天里の姿が目に入った。どうやら今の着信音は天里のスマホから聞こえたものらしい。
「どうしたの?」
「いっちゃんの家族が泊まっていた部屋から出てきて、他の宿泊客と一緒にチェックアウトの列に並んでいるって」
「もうチェックアウトするの!?」
自分のスマホで時刻を確認すれば、まだ十時を少し過ぎたばかりの頃。
大抵のホテルは十時からチェックアウトが行えるため、彩月の両親はチェックアウトの開始時刻とほぼ同時刻に部屋を出たのだろう。
「朝食のバイキングに満足していたみたいだから、もうしばらくは時間が稼げると思っていたんだけどなぁ……」
はああとわざとらしく大きな溜め息を吐く天里に小さく笑う。きっと彩月の緊張を解そうとして気を遣ってくれているのだろう。
軽薄そうに見えて周囲をしっかり観察して場を和ませようとする。彩月も響葵も一人で抱え込むタイプなので、いつも天里の心配りには救われてばかりいた。
天里によるとホテルの朝食バイキングは九時までだが、ほとんどの宿泊客は帰る前に庭園を散歩したり、売店でお土産を買ったり、近くを観光したりするらしい。
彩月の家族は観光目的で宿泊したわけではないので、玄朔から勧められた時には文句ばかり言っていたらしいが、ホテルに着いた時には今の状況を忘れたかのように大盛り上がりしたとのことだった。
滅多に宿泊できないグランドホテル久慈川のスイートルームに興奮しただけではなく、夕食のバイキングを堪能してホテル内の露天風呂付き温泉に二回も入ったと従業員から報告が入った時には、流石に天里たちも戸惑ったらしい。
更にその日のうちに爽月が自身のSNSアカウントで「家族旅行に来た」という体で写真や動画まで投稿して生配信まで始めた時には、本当にここに来た目的を忘れてしまったのではないかとますます疑いを持ってしまったという。
「あの我儘で好き嫌いの激しい爽月が満足するなんて、きっとホテルのバイキングには美味しくてヘルシーなSNS映えする料理がたくさんあったんだね。爽月は目立ちたがり屋だからSNSで注目を集めそうなものには目が無いから」
「興味があるなら、今度オレたちもそのホテルに宿泊しようか。都市部から離れた場所にあって交通が不便な分、女性旅や家族層を狙ってサービスを充実させて、若者向けにSNS映えスポットや推し活の推進プランもあるらしいから。食事はバイキング形式にして野菜や豆腐中心のヘルシーメニューや低カロリーメニューを増やしたみたいだけど、SNS映えを狙って新たに追加したフランスの洋菓子店で修行したパティシエ監修のケーキが一番人気だってね」
「泊まりに行ってもいいの?」
「勿論、落ち着いたら予約を取るよ。バイキングコーナーには子供に大人気の六段タイプのチョコレートファウンテンや綿あめの製造機もあるらしいね。オレたちもチョコレートファウンテンは写真でしか見たことないから興味があるんだ」
「私もチョコレートファウンテンはテレビでしか見たことないかも。チョコレート大好きだからチョコレートファウンテンに憧れていたんだよね……」
湯水のように湧き出る甘く艶やかなチョコレートの泉に串で刺した果物や菓子を浸す姿を想像して喉が鳴ってしまう。
機材の底に設置されたヒーターの熱で溶けて液体状になったチョコレートを絡める一口サイズに切られた果物や小さな菓子。
チョコレートの蕩けるような濃厚な甘さと果物の甘酸っぱさが混ざり合って、口の中はチョコレートの香ばしさと果物の華やかな香りに包まれる。ふわふわのマシュマロやさくさくのクッキーで食べれば、しっとりとしたチョコレートの苦味が菓子の甘さを引き立てて、後にも引く上品な甘味と刹那の苦味のアクセントが至福の時間にしてくれるだろう。
他のチョコレート菓子や製菓とはまた違った味わいを感じられるに違いない。
そんな憧れのチョコレートファウンテンを夢想していると、いつの間に起きたのか彩月の足元にいた響葵がちょこんと首を傾げていたのだった。
「君の家族が動き出したのか?」
「起きていたんだ。爽月たちがホテルを出たみたいだよ」
響葵を持ち上げて膝の上に乗せれば、黒い目を丸くした天里が意味ありげな深い笑みを浮かべる。ニヤニヤする天里が気に入らないのか「何がおかしい?」と不機嫌そうに響葵が問い掛けるが、「別に」とまたしても含みがあるように返して席を立ったのだった。
「オレもそろそろ用意しようかな。いっちゃんも着替えて応接間においで。この屋敷の人たちにはいっちゃんの家族が着いたら応接間に案内するように伝えているから」
「分かった。着替えって何を着ればいいの? このままでも良いような気がするけど……」
今日の彩月はカーキ色のロングサロペットの上からブランド品の薄手のセーターを着ていた。どちらも天里が用意してくれた国内有数の人気ブランド品なのでこの洋服だけでも彩月の安物の洋服とは比にならないくらい高価な品だが、これ以上の着替えが必要だろうか。
「いっちゃんはもうあの家族の笑われ者じゃない。誰もが愛するお姫さまだ。だからうんとオシャレをして格の違いを見せないとね。部屋に用意させているから着替えてメイクを整えておいで。狐塚さんが手伝ってくれるから」
そう天里に促されてよく分からないまま部屋に戻ってクローゼットを開けた彩月だったが、朝起きた時には無かった洋服が数着掛かっていた。見るからに仕立ての良さそうなフリルがたくさん使われたロング丈の黒色のワンピースを手に取って眺めていると、「それになさいますか?」と後ろから狐塚に声を掛けられたのだった。




