【75】
「ところで犀原さんが久慈川学園について詳しいのは、久慈川さんの秘書だからですか?」
「それもありますが、実は私もこの学園の卒業生なのです」
「ということは、犀原さんも月の民……?」
「まあ卒業生と言いましても、私は月の民の血を引かない、ただの協力者でしかありませんが……」
そして犀原は在りし日の久慈川学園について話してくれた。
犀原が在籍していた数十年前よりも学園内部の施設が発展しており、当時からは考えられないくらい進化を遂げたこと。昔は禁止されていた車やバイクでの通学がいつの間にか許可制になっており、学園から許可を得られたら通学に利用できるようになったこと。
犀原が通っていた時は真冬でも自転車通学を強いられていたので、降雪の日は大変な上に道が凍っている時は自転車が横転して怪我人が絶えなかったこと。
当時はスクールバスの本数も少なく、自転車が使えなかった時は移動が大変だったことなど。
自身の思い出と愚痴混じりに学園の様子を語ってくれたのだった。
「途中聞き苦しいところもあったかと思いますが、今は整備が進んで快適に通えるようになりました。防犯面も整っておりますので、姫様も安心して勉学に励められるかと思います」
「自分が通っている大学以外の話を聞く機会が無かったのでとても新鮮です。特に久慈川学園は名前しか知らなくて、身近に通学している人がいなかったので」
「……それは安心しました。私も姫様の新たな進路を応援しておりますので、この話が参考になりましたら幸いです」
そんな愚痴混じりの犀原の話に笑みをこぼしながら耳を傾けていた彩月がだったが、やがて犀原が運転する車は久慈川学園の正門に辿り着いた。
事前に彩月たちの訪問連絡を受けていた警備員の指示に従って、学園の理事や職員たちの詰め所がある本部棟に向かうが、その間も学園内の道路は学生が運転する自転車や自動車が行き交い、道中の大きな池や噴水の周りでは学生が談笑している様子が見受けられた。
芝生エリアでは馬や牛、ヤギを散歩させている学生たちがいたので驚いたが、畜産系の学部や乗馬の授業があるので珍しく無いと犀原はこともなげに答えたのだった。
「久慈川学園は国内でも群を抜いて学部数が多く、全部で十八の学部から成り立っております。歴史が長いのは文学部や経済学部、理工学部、畜産学部あたりですが、世界に通用する人材を多く排出しているという点では芸術学部や体育学部、新設されたばかりの医学部や薬学部も負けておりません。学部内では専攻分野ごとに更に細かく分かれており、その数は三十を越えます。またそれぞれの専攻や研究を生かせるように、常に施設の拡張や整備を行っております」
「これで完成ではないんですか!?」
学園の至るところで工事が行われているのか、学園に入ってからというもの頻繁に工事中の看板や工事車両を見かけていたが、これも研究に向けた拡張工事の最中ということだろうか。
「専攻分野も時代やその時々の学生によって流行り廃りがありますので。その分野を担当されていた教授や准教授、講師が異動や退職をされて廃止されることもあれば、新しく赴任したことで増えることも珍しくありません」
「なっ、なるほど……」
そうしている間も窓の外では布が貼られた大きなキャンバスや台車で布が掛けられた制作物と思しき立体物を運ぶ学生の一団や、人形劇の練習をする女子学生のグループなどを見かける。
学園内に入ってから非日常な光景が目の前に広がっているからか、ちょっとしたテーマパークに来たような気持ちになって、次第に彩月の全身がうずうずと高揚し始めたのだった。
そうして辿り着いた本部棟は日本史の教科書に出て来そうな小さいながらも頑丈な造りをした趣のある洋風建物だったが、それだけでも彩月の大学の事務室とは比較にならないくらい瀟洒であった。
元は迎賓館として使われていた二階建ての建物を大学職員の詰め所としてリメイクしたらしいが、当時の装飾やデザインをそのまま利用したようでどこか明るく開放的な雰囲気を感じられたのだった。
関係者用の出入り口前で車を停車させた犀原は、すぐに外に降りると後部座席のドアを開けて彩月たちの降車に手を貸してくれる。
「長時間のご移動お疲れ様でした。私はここで待機しておりますので、ごゆるりとご見学をなさってください」
「ありがとうございます。犀原さんも運転お疲れ様でした。見学に行っている間に休んでくださいね」
「勿体なきお言葉です。それではお言葉に甘えて、私も少し休ませていただきます。何かありましたらスマートフォンでご連絡ください」
「分かりました。響葵くん、着いたよ。起きて」
彩月は自分の荷物を持つと、隣で丸くなって眠っていた響葵に声を掛ける。それでも響葵はぐっすり眠っているようだったので、両手で抱えて車から降りたところでようやく起きたのだった。
「ん、ああ。もう着いたのか……」
「お昼を食べてからずっと寝ていたもんね。疲れちゃった?」
「疲れてはいないが……ここしばらくこの姿でいるからか、すっかり生活リズムがうさぎ寄りになってしまったらしい。どうしても昼間は眠くて仕方ないな」
彩月の腕の中で小さな黒毛の手を動かして両目を擦る姿はうさぎにしか見えないが、ついこの間までは彩月たち人間と同じように昼に行動して夜に眠るような生活を送っていた。しかしうさぎ姿から戻れなくなってからというもの少しずつ響葵は人間からうさぎに寄った生活を送るようになってしまい、夕方から明け方以外の時間帯はほとんど寝て過ごしていたのだった。
月の民特有の〈超常力〉も使えなくなっているようで、このままでは地上に暮らすうさぎ同然となってしまうと危惧した彩月は天里に相談したが、天里自身にもどうすることが出来ないと返されてしまった。
これは響葵の問題だから、響葵自身がこの状況をどうにかしない限りは何も出来ることは無い。響葵自らが人になりたいと思わなければ、この先ずっとうさぎのままでいるしかないと――。
「無理しなくていいんだよ。見学だけなら私一人でも大丈夫だから。ほら、一人は慣れているし」
「学園内はセキュリティが万全とは言え、彩月の身に何かあっては大変だ。俺も供として連れて行ってくれ」
「でも……」
「この姿では君の荷物になってしまうのは分かっている。だが君を一人で行かせたくないのだ……これまで君が孤独に耐えてきた分、これからは俺たちが傍に居たい。辛く苦しかった孤独を忘れてしまうくらいに、君のすぐ側で楽しい時間を共有したいのだ。もう二度と、一人が慣れていると言わせないように……」
上目遣いで縋るように見つめてくる響葵に罪悪感を覚えて目を逸らしてしまう。やはり先日のぎこちなさが続いているのだろうか。翌日に食堂で会った時は普通に会話が出来たというのに。こういう時に人付き合いが苦手な彩月はどうしたらいいのか分からなくて困惑してしまう。
すると二人の間に流れる微妙な空気を察したのか犀原がわざとらしい咳払いをしたので、彩月は我に返って響葵の身体を撫でながら口を開く。
「ごめん。二人の気持ちも知らないで……それなら一緒に見学に来てくれる? 初めての場所を一人で回るのは心細くて、不安で……」
「喜んで供をしよう」
響葵を抱え直したところで犀原が助手席から持ち出したうさぎ用のキャリーケースを差し出してくれる。肩掛け式のボストンバッグのようなキャリーケースに響葵を入れて蓋を閉めようとするが、ちょこんとバッグから身を乗り出すように頭を出してしまったのだった。
響葵本人は周囲を警戒するためだと言っているものの、その姿がカバンから顔を覗かせるうさぎのぬいぐるみそのものに見えてしまい、彩月はつい顔を綻ばせてしまう。そんな彩月の様子に響葵は不思議そうな顔をするが、彩月はそれ以上何も言わずに蓋を開けたままにしたのだった。
自分の荷物が入った肩掛けカバンを反対側の肩に掛けたところで、本部棟の出入り口が開いて中から慌てた様子のスーツ姿の男女が姿を現す。二人は彩月たちを見つけると、「お待ちしておりました!」と駆け寄ってきたのだった。




