【64】
「何かあったらスマホか備え付けの内線から連絡して。この部屋の物は自由に使って良いし、必要なものがあったら屋敷の使用人が持ってきてくれるから内線で呼んでね」
「うん、色々とありがとう。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ、いっちゃん」
「おやすみ、彩月」
二人が出て行くとベッドサイドのスマホを確認する。やはり江原から心配するメッセージが届いており、何度か電話も掛けてくれたようだった。
あれから教室は警察による現場検証のため立ち入り禁止になったこと、江原たちもスマホや財布などの貴重品以外は持ち出せなかったことがメッセージに書かれていた。荷物は全てが終わったら騒ぎが落ち着くまで大学が預かってくれることや、衝撃の大きさから彩月以外にも早退した人が何人かいたので気にしないでゆっくり休むようにと綴られていたのだった。
案の定と言えばいいのか、家族からは一切連絡がきていなかった。ニュース沙汰になったと天里からは聞いたが、彩月の安否などどうでもいいのだろう。とりあえず江原にお礼と無事を知らせるメッセージだけ送ってしまう。
あまり家族以外にメッセージを送るというのは慣れていなかったので時間は掛かってしまったものの、どうにか形にして送信ボタンを押してしまうと心なしか解放された気持ちになったのだった。
(水でもいいから、何か口にしたいな……)
そうすると今度は喉が渇いたことに気付いてベッドを抜き出す。水差しらしきものはテーブルセットの上にあったが中身は入っていなかった。
冷蔵庫らしきものも無かったので、屋敷の人に頼んで運んでもらうしかないのだろう。
水を貰うためだけに天里のスマホを鳴らすのも気が引けてしまい、夜を随分と過ぎた時間帯に屋敷の人を呼び出すのも申し訳ない気持ちになる。
我慢してもう一度寝ることも考えたが、目が冴えてしまってすぐには寝られそうになかった。散歩も兼ねて自分で取りに行こうと部屋を出たのだった。
(良いよね。少しくらい……)
屋敷の廊下は照明が落とされて薄暗かったが、窓から差し込む月明りや屋敷を囲むように設置された照明のおかげで灯りを取りに戻らなくても問題なく歩けた。
用意されていたスリッパで音を立てないように廊下を進んで階段を見つけると手摺りを掴みながらゆっくりと降りていく。
中ほどまで降りた時、階下からは話し声が聞こえてきたのだった。
「……なんだ、天里。こんなところに呼び出して」
「流石にもう見ていられないから言わせてもらうよ。お前と彼女の――彩月ちゃんのことだ」
自分の名前が出てきたので、彩月は度肝を抜かされて階段を踏み外しそうになる。
どうにか体勢を整え直して下を覗くと、階段の踊り場で話しているのは響葵と天里のようだった。
二人はもう休んだと思っていたので、鉢合わせすると少々気まずい。
見つからないように彩月はその場で足を止めると、二人がいなくなるのを待つことにしたのだった。
「俺と彩月がどうしたというんだ?」
「はっきり言って、今のお前はただの足手まといだ。月の姫として覚醒を待ち侘びる彼女の邪魔でしかない」
「なっ……!?」
先程も感じた冷え冷えとした怒りを含んだ天里の低声に彩月までもが怒られているような気持ちになる。
暗くて二人の顔を見えないが、これには響葵も一驚を喫したのか言葉を失ったようだった。
腕組みをした天里は憤懣遣る方ないといった様子で話し続ける。
「……さっきのお前と彩月ちゃんの会話を聞かせてもらったよ。その上で彼女を守るために言わせてもらう。今回のネットニュースの一件はお前の責任だ。尾行されていたことに気付けなかったのはオレたちのミスだったとしても、ネットニュースで好き勝手に憶測を書かれたのはお前が事情を説明せずに芸能界を去ったからだ」
「それは……」
「引退後、長らく姿を消していたお前が急に表に出てきて一人の女性を連れていたら、そんなの誰だって噂したくなるものさ。引退した”五十鈴響夜”は炎上通りの女遊びが派手な奴だったって」
「だが月のことを大々的に話すのは御法度のはずだろう。この国を悪戯に混乱させないためにも」
弱り切った様子の響葵に対して、呆れたように天里が溜め息を吐く。
「そこを上手くやるんだよ。それにオレは何度も言ったはずだ。せめて事務所にだけは月のことや姫のことは伏せて引退を決意するに至った経緯を話せって。そうしたらこうやって週刊誌にリークされる前に、事務所が引退理由を代わりに説明してくれたはずだ。あのネットニュースを見た連中が彩月ちゃんを付け回して、面白おかしく世間に晒すのも時間の問題だぞ」
「引退の理由なんて、あの動画配信がきっかけで責任を感じたとしか説明のしようがないぞ。月や俺たち玉兎族に関することを除いて説明するとしたら……」
「……あの動画配信と炎上した責任の一端はオレにもあるから責めるつもりは無いよ。ただ逃げるように芸能界から去ったところだけは許すことはできない。その結果がこれだ」
小声ながらも天里は語気を荒げたので、これには彩月も心臓が飛び出しそうになる。声を上げそうになったが、どうにか両手で口を押さえて堪えたのだった。
「ようやく見つけたオレたちの姫は世間の好奇な目に晒されて傷付けられている。そうなった元凶であるお前が、彼女を愛しているだの、守るだの語れるのか? 月の姫を守るはずのお前が月の姫を傷付けて不幸にしている。“五十鈴響夜”という偶像を心の拠り所としてきた彼女の気持ちを利用して偽りの愛を囁き、幸せにすると嘯く。彼女の存在が無ければ、人の姿にも満足になれないお前が!」
「だったらどうすれば良かったんだ! 気付いた時には全て失った後だったんだぞ……それまで築いた功績や能力さえも。炎上という言葉の通り、燃やし尽くされた後の焼け野原のように何も残っていなかった……ただの愛玩動物に成り果てていたんだ、俺は」
見るに忍びない悲愴的な響葵の姿。当の響葵自身もずっと気にしていたのだろう。中途半端に放り投げた形となった芸能界のこと、うさぎとして生きるしかなくなった自分のこと。
その時、響葵の身体を白い霧が取り巻いて包み込んだかと思うと、空気が抜けるような間の抜けた音が聞こえてくる。
やがて白い霧が晴れると、うさぎ姿に戻った響葵が俯くように立っていたのだった。
「お前なら上手くやれただろうさ。昔から天里は要領が良かったから。ただ俺は不器用だから……地道に努力を重ねるやり方しか知らない。それを否定されてしまったら何も残っていない。彩月には伝えたい言葉も想いもある。だがこんな響葵では彼女の迷惑でしかない。彼女が好いているのは“五十鈴響夜”という作り物の俺。そんなことは俺にだって分かっているつもりだ」
「彼女のために彼女が愛する“五十鈴響夜”を演じ続けるつもりか、お前は」
ゆるゆると響葵は頭を振る。
「いつまでも演じられる訳が無い。いずれは“五十鈴響夜”に蹴りを付けなければならないことも理解しているつもりだ。その結果、応援してくれた彩月を裏切り、全てのファンに恨まれて、行くとし生ける全ての生き物から嫌われてしまったとしても……俺は責任を取らなければならない。その結果人の姿と《超常力》を失って、一匹の愛玩動物として生きることになるとしても」
その場で固まってしまったうさぎの響葵を天里がそっと抱き上げる。縋るように身を寄せた響葵を天里が愛撫したのだった。




