【6】
「きゃああああっ……!」
空気を切り裂くような悲鳴を上げながら、ドボンと大きな水音を立てて冷たい川に飛び込む。
「んぐっ……!」
無数の泡と油分を含んだ粘着質な汚い水が視界を埋め尽くして彩月の身体を刺す。鼻をつく魚の生臭さと泥の悪臭に吐き気が込み上げてくる。足を動かせば流れ着いたゴミや枯れた草木が身体に纏わりついてきて気持ちが悪かった。
(苦しいっ……息がっ、できなっ……っ)
藻掻いた分だけ泥や細かい砂が鼻や目に入ってきて開けられない。更に水を吸ったスーツが徐々に重みを増してきて、水面に向かって水を蹴ってもなかなか前に進まなかった。
このままではうさぎ共々溺死してしまう。
(あのうさぎさんは……っ!?)
せめてうさぎだけでも助けようとしたが、いつの間に彩月の腕からすり抜けたのかうさぎの姿が見当たらない。手探りで水を掻いてうさぎの姿を探していると、彩月のブラウスの袖を咥える黒いうさぎの姿があった。
彩月を助けようとしているのか、袖口を小さな口で咥えて後ろ足をバタバタと動かしているが何の意味も成していなかった。
そんなうさぎの姿に彩月は顔を歪ませると、ゆるゆると首を振る。
(無理だよ。そんなことをしたらあなただって助からない)
彩月は手を振ってうさぎを追い払いつつ、湖面に向けてその小さな身体を押し上げる。
その反動で自分の身体はますます沈んでしまったが、もう自分のことは諦めていた。うさぎが何か言っていたが、気泡の音で何も聞こえない。
(まさか誕生日が命日になるなんて……)
でもこれで自分を苦しめる家族から解放されて、祝われもしない誕生日を考えなくて済む。
終わりが見えない就活のストレスや将来の不安からも解き放たれて清々しいくらいである。
(でもせめてキョウくんには一目会いたかったかも……)
彩月が愛してやまない推しの顔が思い浮かぶ。こんな絶望した世界で生きなければならない彩月に糧を与えてくれた青年。
二年前の晩冬に爽月と決定的な差をつけられて、生きる意味を見失った彩月を救ってくれた大切な人。
訳あって表舞台から引退してしまったが、いずれ帰ってきてくれると信じて待ち続けていた。
そんな彩月がまさか推しの帰還よりも先にこの世界から去ることになんて。
(キョウくん……)
両目から流れた涙がドブ水と混ざり合い、やがて溶け合う。
二十歳を迎えた日にこんな汚い川で溺れて死ぬことよりも、生きている内に推しと会えなかったことを後悔するとは思わなかった。
水底に沈下しながら彩月が意識を失いかけた時、天上で小さな光が瞬くと若い男性の言葉が耳に入ってきたのだった。
「君、こっちだ! 早く手を伸ばして、こっちに泳いでこいっ!」
その言葉で目覚めたように彩月の思考回路が回り始めると、閉じかけていた両目を開ける。
(だ、誰っ!?)
いつの間に現れたのか、彩月の頭上には一人の人影が姿を現していた。
逆光で顔ははっきり見えなかったが、成人男性のように引き締まった大きな人影はやがて両手で水を掻き分けながら彩月に向かってくると、腕に抱えてくれる。
冷えた身体を温めてくれるように身体を密着させた男性に身を預けるが、息が限界に達していた彩月はまたしても意識を失いかけてしまう。
すると男性は彩月の口に自分の口を当てがうと、息を分けてくれたのだった。
「んんっ……!」
人生初のファーストキスを汚水の中でと考える間もなく彩月が息を吹き返せるようになると、即座に男性は水上に向かって泳ぎ出す。
暗い水底から光差す水面に近づくにつれて男性の輪郭や目鼻立ちがはっきりと見えるようになり、やがて自分を助けてくれた男性の横顔を見た彩月ははっとしたように息を呑んだのだった。
(えっ!? キョウくん!?)
濁った黒茶色の水の中でもひと際輝きを放つ白皙の肌、全体のバランスが取れた眉目秀麗な顔立ち。そして艶のある黒髪のツーブロックの髪型はまさに彩月が肌身離さず持ち歩いていた推しのマスコット人形と同じ。
愛しのキョウくんが彩月を片腕で抱いて緩流の汚い川を上に向かって泳いでいく。
(キョウくんがどうして……)
キョウくんがこんなところにいるはずが無いと口を小さく開けてしまったことで、またしても息苦しくなってしまう。キョウくんのたくましい身体に身を預けると、あと少しで川から出られるというところで気を失ってしまったのだった。
◆◆◆