【59】
「ひっ……はぁはぁ……っ!」
繰り返す速く浅い荒い息と引き攣ったような声に、早鐘を打つ激しい胸の鼓動。お腹を押されたかのように喉元へと迫ってくる吐き気は治らず、次第にこのまま治らないのではと焦りが募り出す。
どうにかして天里に助けを求めようとスマホを操作するが、指先が震えて安定しないことに加えて、涙で滲んで揺れる視界と乱れる呼吸で画面を操作できずにいた。吐き気を堪えて反対の掌で口を押さえているので言葉も発せられず、音声認識も使用できない。
パニック陥った頭では他の方法は思いつかず、なす術も無いままにその場で膝を抱えると、顔を埋めて荒い息を繰り返したのだった。
(どうしよう……こんなこと今まで無かったのに……息がっ、苦しい……っ!)
しばらく肩を上下させて息遣いをしていたが、やがて限界に達したのか意識が朦朧として手からはスマホがするりと滑り落ちる。とにかく拾い上げようと視界が黒く染まっていく中で闇雲に手を動かすが、焦りと眩暈から何度も取り落としてますます彩月から遠ざかってしまう。
そうしているうちに呼吸はより速くますます激しくなって、頭もクラクラとして焦点も定まらなくなってきたのだった。
(誰か……助けて……響葵くん……天里くん……!)
繰り返される校内放送と避難する学生の声や足音が遠のいていき、朦朧とした中で荒い息を繰り返す。長いような短いようにも感じられる時間の中、意識を手放しそうになった彩月の耳に入ったのは、自分の名を呼ぶ愛おしい推しの低声だった。
「彩月……彩月っ! しっかりしろっ! 彩月っ!!」
柔らかな黒い毛に覆われた小さなうさぎの手で彩月の身体を揺さぶろうとしているのは、今朝別れたばかりの響葵だった。
ゆるゆると頭を上げながら、「ひっ、ひびき、くん……」と消え入りそうな掠れ声で呟く。
「一体何があったのだ!? どうしてこんな……」
「わかっ、んなっ。まど……われっ、ガラっ……とんっ……」
息も絶え絶えに涙交じりに事情を説明しようとするが、太腿にしがみつく響葵に止められる。
「無理に話すな。ゆっくり息を吸って吐き出せ」
「さっきから、できなっ、とまらなっ……どうし……よっ……」
「大丈夫だ、俺がついている。まずは楽な姿勢になれ。それから俺の声に合わせて、ゆっくり息を吸って吐いて……」
肩から力を抜いて伸ばした足から器用によじ登ってきた響葵の手を掴みながら、彩月は言われた通りに深呼吸を繰り返す。息が整ってくると乱れていた心まで落ち着いていき、先程までパニックに陥っていた心は徐々に平常心を取り戻していったのだった。
やがて激しい運動をした直後のような速い息が治まって元の状態に戻ると、彩月は「もう大丈夫」と力なく微笑みながら響葵を抱き上げたのだった。
「ありがとう、だいぶ落ち着いたよ……これも響葵くんのおかげだね」
「礼は不要だ。俺は側に居て、ただ言葉を掛けただけに過ぎない」
響葵は何とも無いように話しているが、彩月が落ち着くまで黒い毛に覆われた小さな手を伸ばして身体をさすってくれた。草木が身体に触れるようなほんの小さな感触ではあったものの、それだけで彩月の逸る心は随分と落ち着いたものだった。
「それより何があった? ネットで話題になっていると聞いて心配で様子を見に来れば、大学内は騒然としていて天里が送ったメッセージには返信しない。校門前で待っていれば、パトカーや救急車が入ってくる」
「響葵くんも知っていたんだ。昨日三人でホテルから天里くんのマンションに行ったことがネットニュースに書かれていて、響葵くんと天里くんが私を連れ込んだじゃないかって。同じクラスの人にも好き勝手に言われて、それで怒ったら窓ガラスが割れちゃって……」
「俺たちと関わったことで、急速に月の民としての力が目覚めてしまったのだな。君の心身が追いついていないから、力がコントロールできなかったのだろう。すまなかった。俺たちがネットニュースに気付いて対処していれば、こんなことにはならなかっただろうに」
「響葵くんたちは悪くないよ。それよりも天里くんに連絡をしないと。メッセージもまだ見てないし、心配しているよね」
「天里なら問題ない。ほら、そこにいる」
いつからそこに居たのか、彩月たちから少し離れたところに天里が立っていた。落とした彩月のスマホを拾い上げてポケットにしまうと、彩月の側で片膝をついたのだった。




