【48】
先に入った天里が声を掛けるとすぐにレストランのスタッフが奥の個室に案内してくれたので、響葵と共にその後について行きながら他の客に目を向ける。
幾何学模様にも似た豪奢な絨毯が敷かれたレストランでは、銀食器の音や料理の説明をするウェイターの声に紛れて、豪華な料理に舌鼓を打つ者からワイングラスを手に祝いの席や団欒の席を楽しむ者たちの談笑の声が響いていた。
天里がドレスコードの話をしていたので彩月には縁の無い格式高いレストランだと思っていたが、ほどほどにカジュアルな格好をした客も数人いるようだった。小さな子供も両親に促されてハンバーグらしき肉料理を口に運んでいたので、子供連れでも入れるお店なのだろう。マナーに厳しいお店だったらと緊張していたので、これにはそっと胸をなでおろしたのだった。
そうして通された個室で天里に椅子を引いてもらって腰掛けると、すぐに奥からウエイターらしき男性が用意されていたワイングラスに薄桃色のスパークリングワインを注いでくれる。
(これって、お酒だよね……)
よく磨かれたワイングラスを満たした薄桃色のスパークリングワインを前にして彩月の喉が鳴る。彩月の好きな淡い薄桃色に染まった液体から花に似たフルーティーな香りが立ち昇ると自然と頬が緩んでしまう。
両親がワインを飲まなかったこともあってワインの実物を見るのはこれが初めてだったが、ドラマで見るような血のように赤いワインや半透明の白いワインとは全然違うものだった。どちらかといえばワインと言うよりもジュースに近くて、何杯でも飲めそうな見た目をしていた。
そんなレストランのシャンデリア風の白い照明の下で輝く薄桃色のワインは一見して炭酸ジュースのように見えるが、泡のきめ細かさやウエイターからの簡単なワインの産地や味の説明が入るところはジュースとの違いを感じられた。
どこか近くて遠くにあった大人の世界に足を踏み入れたようで、身体がそわそわと落ち着かなくなってしまう。初めてアルコール飲料を口にするという彩月のためにしてくれた度数の説明でさえ、緊張からほとんど聞いていなかったのだった。
「度数は強くないから安心して。オレたちも元の身体の体質的にお酒は飲めないし、炭酸系もあまり得意じゃない。それに今日から解禁になったとはいえ、初めてのお酒で失敗はさせたくないからね」
しゅわしゅわと泡が絶え間なく弾けるワイングラスを無言で見つめていると、彩月の心配事を見抜いたかのように天里が教えてくれる。元の体質というのは、響葵たちの本来の姿であるうさぎ姿のことを指しているのだろうか。人の姿に変化できても、身体の内部までは人と同じというわけにはいかないのかもしれない。
そうして対面に座った二人のワイングラスにも同じスパークリングワインが注がれると天里はグラスを掲げたので、彩月は声を潜めて尋ねたのだった。
「こういったレストランでのマナーとか詳しくなくて、どうしたらいいの……?」
「今後は覚える必要があるけれども、今日は無礼講だよ。今夜は純粋にお祝いを楽しんで」
そう言って天里が色っぽい片目を瞑って新しい月の姫の誕生と彩月の誕生日を祝福して乾杯したので、二人を真似するように彩月もワイングラスを上げると口を付けたのだった。
芳醇な葡萄とベリー系の甘酸っぱい香りが鼻を通り抜けて、ほんの僅かなアルコールの苦味が果実の酸味に混ざって口の中に残る。炭酸飲料とは違って静かに強く弾ける炭酸に最初こそは戸惑ったものの、グラスが空になる頃にはすっかり慣れて彩月は初めてのワインを堪能したのだった。
空になったグラスが一度下げられると前菜から順に料理が運ばれてきたので、二人のマナーを見様見真似で真似しながらナイフとフォークを動かす。三ツ星評価のレストランだけあって、どの料理もその評価に相応しい出来栄えで彩月はうっとりと舌鼓を打った。
「味はどうだ? 量も合っているか?」
「どっちも大丈夫だよ。こんなに美味しい料理を食べたのは初めてかも」
「ふふふっ……ヒビ、負けていられないね。料理の腕を磨いて、いっちゃんの胃袋を掴まないと」
「ああ。これからは彩月を満足させる料理を作って、俺の料理が一番と思ってもらわないとな」
これが両親や爽月との食事だったら、失敗を恐れてじっくり味わえなかっただろう。少しでもテーブルマナーを間違えたのなら、きっとひどく叱責されて自信を失っていた。
一緒にいるのが彩月を尊重して他愛ない話をしてくれる二人だから、安心して味わえるのだとメインディッシュの肉料理を賞味しながら考える。
最後にコーヒーが運ばれてきたところで、口を付けた天里が話し出す。
「料理はどうだった?」
「どれも美味しかったよ。こんなに素敵なレストランに連れて来てくれてありがとう」
「そろそろ本題に入ってはどうだ。あまり長くなっては明日に響く」
「そうだね」
そう言って、二人が背筋を正したので彩月も自然と背中が伸びる。
天里が視線を送ると今まで部屋の隅に控えていたウエイターとスタッフたちが退室して、彩月たち三人だけになったのだった。
「改めて、オレの名前は天里で、こっちは響葵。月の民は姓を持たないから、地上では便宜上、久慈川天里と久慈川響葵という、久慈川姓を名乗らせてもらっている」
「久慈川って……ここのホテルの名前も久慈川だよね。もしかして……」
「そう、その久慈川。姫の命を受けて地上に降り立ったオレたちの後継人になってくれたのは、ここ久慈川グループの先代社長にして久慈川家の現当主。すでに会社経営からは身を引いているけれども、今でも財政界に影響を及ぼす大物だよ」
この国に住んでいる者なら、誰もが久慈川グループの名前を聞いたことがある。
由緒正しき華族の血を引く久慈川一族が母体となって経営する久慈川グループは、国内を問わず国外でも幅広い事業に進出しており、ホテル経営以外にも飲食業や広告業、人材業、教育関係などありとあらゆる業種で名前を耳にする。日本でも指折りの大企業であった。
特に教育面においては、国内で人気上位の私立学園である「久慈川学園」を創設した一族として知られており、国内外に優秀な人材を数多く輩出していることや、各界でも指折りの一族や歴史ある名家の子息子女、見目麗しい芸能人や人気インフルエンサーの進学先としても有名だった。




