【3】
(そうだ。キョウくん!)
お守り代わりに持ち歩いていた推しの存在を思い出すと、ビジネスバッグの奥底から大切に仕舞っていた掌サイズの男の子のマスコット人形を取り出す。
青と白を基調とした煌びやかなスーツ風のステージ衣装とどこか不機嫌そうに口を曲げて小人風にデフォルメされたキョウくんの顔を見ているうちに、少しだけ鬱屈していた心が晴れたような気がした。
(初心者向けの推し活のサイトにも書いてあったよね。『悲しいことがあったら推しに慰めてもらおう』って)
年季の入った橋まで来ると、写真映えしそうな場所を探して右往左往する。スマホと人形を手に何度も橋の上を行き来する姿に通行人たちが訝しげな視線を送るが、今の彩月は推しのことしか目に入っていなかった。
やがて夕陽が沈み始めた川の上を背景に撮影場所を決めると、キョウくんのマスコット人形を片手に丁度良い角度を探す。
どうしても入相の空に浮かぶ夕陽とオレンジ色にキラキラ輝く水面が反射してマスコット人形が影になってしまうが、良さそうな角度を見つけるとスマホのカメラで写真を数枚撮ったのだった。
(よし。後はこれをSNSに投稿して……っと)
橋の欄干に寄り掛かりながらアプリを起動させたところで、彩月の耳に甲高い声が入ってきたのだった。
「やめて! あっちいって! こわいよ、ママ~!」
頭を振って周囲を見渡しても、近くには彩月以外に人は誰もいなかった。しかし道路を挟んだ向かい側の欄干の辺りでは、子猫らしき茶色と白色の小さな猫が数羽のカラスに襲われていたのだった。
「なんだこいつ、あっちいけ! ここはおれたちのなわばりだぞっ!」
「こどもはさっさとママのもとでねんねしなっ! おれさまたちのえさばをあらすどろぼうネコめっ!」
「ぼくしらないよ! だれかたすけてっ! ううっ……ママっ!」
どう見ても野良猫がカラスの縄張りに侵入して攻撃されているようだが、気になるのは彼らが鳴く度にその声が人語になって入ってくることだった。
彩月はまたかと言うように自分の耳に触れる。
(また動物の声が日本語として耳の中に入ってくる。いったいどうしたんだろう。疲れているのかな……)
厳密に言えば、動物の声が聞こえるようになったのは昨年の晩冬からだが、今年の春先からはその頻度が増えたような気がした。
就活のストレスや疲労で幻聴が聞こえるようになったのだろうか。
正直に言って病院代も馬鹿にならないのであまり行きたくないのだが、この状態が続くようなら行かざるを得ない。どこかで就活に影響が出てしまうことも考えられる。
(そういえば、今日面接に行った会社で飼っている看板猫の声も日本語で聞こえたっけ。社長が自分の頭皮ばかり気にして餌代をケチり始めたとか言っていたような……)
看板猫の言う通り、確かに最終面接で顔を合わせた社長の頭頂部はつんつるてんの禿頭だったが、看板猫の餌代とは無関係な気がした。全て自分の妄想だろうか。
そんなことを考えながら手早く文字を打ってSNSのアプリに写真を添付すると、ようやく彩月は先程撮影したキョウくん人形の写真を投稿したのだった。
『誕生日なのに就活の最終面接で爆死。キョウくんに慰められ中』
泣いている顔文字まで付ければ、ようやく吹っ切れた気持ちになれる。やはり推しの存在は大きい。
大学に入るまでは勉強ばかりで娯楽を蔑ろにしていたことを損とさえ感じてしまう。
もっと早くキョウくんを知っていれば、直接会える機会もあったかもしれないのに――。
(今日の最終面接は失敗しちゃったけれど、明日からは気持ちを切り替えて別の会社を探そう。できれば実家から遠くて、社員寮があるといいな……)
自分の気持ちを奮い立たせたところで、先程の子猫とカラスの喧嘩が気になり始める。すっかり自分の世界に入り込んでいたが、あれからどうなったのだろうか。
そんなことを考えていると、夕暮れの街に響き渡るような叫声が近くから聞こえてきたのだった。
「お前たち何をしているのだ! こいつに乱暴するなっ!」