【29】
「きっかけなのかは分かりませんが、とても辛いことがあった時に自分の中で何かが切れて溢れてきたんです。我慢の限界に達しただけだと、思っていましたが……」
思えば、その日から動物の声が聞こえるようになった。他の人には聞こえない動物の話し声に自分の耳がおかしくなったのかと疑っていたが、それが月の民として目覚めた証だったのだろう。
「それが月の民としての覚醒の合図です。そして彩月さまはわたくしが地上に送る力――『月の加護』と相性が良いのでしょう。『月の加護』と相性の良い者が次の月の姫に選ばれます。響葵はそれを感じ取り、貴女さまを月の姫だと思って連れてきた。わたくしも感じています。彩月さまの中に眠る『月の加護』を……」
「『月の加護』……?」
「月の姫だけが持つ力です。月の民が持つ神秘的な術の力の源にして、地上に暮らす人々に安らぎと眠りを与えます。わたくしたちが夜に眠るのは『月の加護』の影響だと言われております。眠ることで『月の加護』を吸収していると。そして月の民には特別な力を分け与えます」
「具体的にはどんな力なんですか?」
「多いのは怪我の回復や自然を操る超常的な力、そして変化でしょうか。響葵が人間の姿になれるのも、『月の加護』のおかげなのです」
月祈乃の言葉でそうなのかと響葵を振り返れば、響葵は深く頷く。
「生まれながらに人の姿をした者を月の民、そして俺のように動物や幻獣の姿をした者を月の生物と呼ぶ。そして俺はうさぎの姿をした月の生物――玉兎族と呼ばれる種族で、君と出会った時のうさぎ姿こそ本来の姿だった」
しっかりと彩月の目を捉えた響葵が口角を緩めて朗らかな笑みを浮かべる。
「ある時から人の姿に転じられなくなってうさぎのまま暮らしていたが、君が持つ『月の加護』のおかげでまた人になれた。感謝する」
「私は何もしてないよ。やっぱり自分が月の姫なんて信じられないし、私なんて爽月に比べたら全然良いところもない……他の人の方が絶対良いって……!」
「それは……」
いくら説明されようとも、頭のどこかでは出来損ないの彩月には月の姫なんて大役は務まらないという声が聞こえてくる。それは爽月の言葉であり、両親の声でもあり、彩月を縛る鎖でもあった。
大学でさえ不合格だった自分に月の都と地上を守る大切な役目を果たせるわけが無い。失敗を恐れて及び腰になってしまう。
月祈乃や眉見に呆れられるだけならいいが、「大好きなキョウくん」こと響葵にまで嫌われてしまったのなら、彩月はこれからどう生きていけばいいのだろう。
あの雑踏の中で響葵と出会ってからというもの、彩月は響葵を「推す」ことだけを目的に生きてきた。
そんな彩月の生き甲斐である響葵自身から突き放されてしまったら、彩月には心の拠り所が無くなってしまう。
目的を失って本当に独りぼっちになった時、果たして彩月は生きていけるのだろうか。生きていることを後悔しないだろうか。
自分を卑下する彩月の葛藤や言葉の真意を慮るように響葵たちは静かに彩月を見守っていたが、やがて小さく息を吐き出して月祈乃が命じたのだった。
「響葵、少しだけ彩月さまと二人きりにしてもらえませんか。眉見はあれを用意してください」
「……畏まりました」
一礼して響葵が出て行くと、眉見は会釈と共に引き戸を閉めていなくなってしまう。そうして部屋には彩月と月祈乃だけが残されたのだった。
これだけ親切にされながら頼みを断ったので、責められると彩月が覚悟して両手を握り締めていると、月祈乃は柔和な笑みを崩さずにゆっくりと話し始める。
「混乱させてしまいましたね。わたくしもそうでした。月の民や月の姫と言われても現実味が無くて、月に都があるなんて伝説だと思っていました。月の姫として覚醒するために日本から月の都に連れて来られて、見知らぬ月の民と結婚させられて。何もかもが分からないままでした」
「月祈乃さんも日本で暮らしていたんですね」
「わたくしも元はただの女学生。華族の令嬢として父母が決めた殿方と結婚して子供を儲けて、どこにでもあるような人生を歩むと思っていました。それがある日急に月の姫だと言われて、月の民を守って欲しいと頼まれて……本当に導けていたのか今でも自信はありません。夫となった月の民も早くに亡くなり、子供にも恵まれませんでした。そしてわたくしにも……そろそろ刻限が迫っています」
そうして月祈乃は「お願いがあります」と彩月の目をじっと見つめる。
「どうかわたくしの跡を継いで月の姫になってくださいませんか。勿論、今すぐにとは言いません。わたくしももう少し耐えるつもりです。ですが今のところ彩月さま以外に月の姫に相応しい者は見つかっておりません。貴女さまだけが頼りなのです」
「でも、私は何をしたらいいのか分かっていません。月祈乃さんの代わりに月の民の頂点に立つ自信もありません……」
「響葵と天里に限らず、地上にも多くの月の民の子孫や協力者がいます。その者たちと協力してください。そしてご自身が持つ『月の加護』を扱えるようになってください。そうすれば月の姫として覚醒できるでしょう。あとは……これも彩月さまに預けます」
いつの間にか戻っていた眉見が桐箱を彩月たちの前に置くと蓋を開ける。
木綿のような白い布地に包まれて中に入っていたのは、大きな満月と平安時代に登場するような十二単姿の女性の絵が描かれた木製の扇とショールのような薄手の布であった。




