【16】
「ううっ……」
嗚咽を漏らしそうになってグッと堪える。
誕生日に薄暗い玄関で割れた花瓶の後片付けをさせられて、血の付いた指先をハンカチで止血する。
これでは教師に注意されて廊下に立たされる子供の方がまだマシだった。
両目から零れる落涙を堪えようと何度も手の甲で拭う。
「君……」
傍らの響葵が彩月にしか聞こえないような小声を掛けて小さな手で涙を拭いてくれようとするが、そんな響葵を安心させるように彩月は宵のような黒毛に覆われた小さな頭を繰り返し撫でる。
そして頬と頭の痛みを感じながら彩月は考えるのだった。
(もう何もかも嫌。爽月以下の自分も、先が見えない未来さえも。誰にも脅かされることなく静かに生きたい……死ぬまでこんな人生が続くなんて我慢できないっ……)
花瓶に入っていた花は外に捨てて、花瓶の欠片は玄関の隅にまとめておく。
零れた水は仕方なく止血に使っていたハンカチを雑巾代わりにして拭いていると、ようやく支度を終えたのか上着を纏った両親が姿を現わす。
外に出て行く両親の舌打ちを受けながら、邪魔にならないように玄関の端に避けて靴の先を見つめていると、「ねえ、彩月」と綺麗に磨かれた新品と思しきヒールを履いた爽月に声を掛けられる。
「まさかその格好で就活しているの? 恥ずかしい。ただの笑われ者じゃない。まあ、あんたのような役立たずなんてどこの会社も雇ってくれないでしょうけど。私に似てもう少し顔が良かったら、社長秘書という名の愛人くらいには収まったかもしれないけれどね」
自慢気に自分の艶やかな容姿を見せつけてくる双子の姉に憎悪が込み上げてくるが、それさえも爽月を刺激してますます喜ばせてしまう。
ここはただ唇を噛んで、今にも溢れそうな怒りを堪える。
「そうね……双子の妹が無職なんて可哀そうだから、私がパパとママにお願いしてあげようか。彩月をこの家の家政婦として雇ってくださいって。あはははっ!」
「……」
やがて何も答えない彩月に業を煮やしたのか、爽月が片足を伸ばして足蹴りをしてくる。
細いヒールが脛に刺さった彩月は苦悶の声を漏らしつつ、玄関で蹲ったのだった。
「事務所から私宛の荷物が届くからあんたが受け取るの。傷一つ付けることなく、部屋に運びなさい。大事な私のファンからの誕生日プレゼントなんだから」
「わざわざっ、私に受け取らせなくたって、明日受け取ったら……」
「口答えするんじゃないの。人間のゴミがっ! 明日受け取ったらバースデープレゼントじゃないでしょう!?」
蚊の鳴くような声を発する彩月を嘲笑いながら、爽月はドスの利いた声で返してくる。
「本当にあんたってどこまでいっても馬鹿なのね。ああ、そんな馬鹿だから好きなんだ。五十鈴響夜とかいう炎上逃げしたアイドルを」
「……っ! キョウくんは関係なっ……」
推しの名前を出されて油断した隙をついて肩を突き飛ばされると、よろめいている間に乱暴に玄関扉を開閉して爽月が外に出て行く。
そして車のエンジン音が聞こえたかと思えば、どこかに走り去ったのだった。
「キョウくんは関係ない……私を惨めな気持ちにさせたいからって、キョウくんを利用しないで……」
誰にともなく呟いてその場で声を上げて慟哭していた彩月だったが、しばらくして「すまなかった」という謝罪の声で我に返ったのだった。




