【10】
「ところでこのカバンは君のもので合ってる? 戻ってきたカラスが漁っていたみたいで、荷物が散らばっていたんだ。全部拾ったつもりだけど確認してくれるかな」
男性が手渡してくれたのはうさぎを助ける際に橋の上に置いた彩月のビジネスバッグであった。
報復とばかりにカラスが漁ったのか、全体的に引っ掻き傷だらけで、取っ手の合皮は表面が破れて千切れかかっていたのだった。
貴重品といえば財布とスマホくらいだが、その二つは特に問題なかった。強いて言えば細かい傷が付いているくらいで。どちらも壊れておらず、中身も揃っている。
面接で配布された資料や面接対策の本、その他の細々とした小物もほぼ無事だが、彩月にとって最も大切なものだけボロボロになっていた。
宝物である推しを模ったキョウくんのマスコット人形は表面の布地に指一本分くらいの大きさの穴が無数に開いており、首からは中に詰まっていた綿が外に飛び出していた。
キョウくんをイメージしたストレートの黒髪や煌びやかなステージ衣装は裂けてやや吊り上がっていた目は取れそうになり、ボールチェーンは千切れていたのだった。
「そのぬいぐるみだけ、何故か集中的にカラスが攻撃していたんだ。巣に持ち帰ろうとしていたから追いかけてどうにか取り返したんだけど……」
言葉を失うほどの見るも無惨な推しの状態に彩月が悲しそうに眉を下げていたからか、申し訳なさそうに男性が声を落としたので慌てて頭を振る。
「いいえ! それよりぬいぐるみ一つのために手間を掛けさせてしまって申し訳ないくらいです……」
「これくらいうちのうさぎを命懸けで救ってくれたことに比べたら足りないくらいだよ……君も好きなんだね、彼のこと」
サングラス越しでも男性が愛おしむようにキョウくん人形に目線を落としたのが見えたので、彩月ははにかみながらも小さく頷く。
滅多に会えない推しを知っている人に会えたからか、つい彩月は口を滑らせてしまう。
「私の推しなんです。辛い時に元気を貰って、生きる希望をくれて……今でも大好きなんです!」
「……果報者だね、お前」
「……うるさい」
男性の呟きに反応するように、今までずっと黙っていたうさぎが小声で悪態を吐く。
ただそれさえも男性にとっては予想の通りだったようで、意味深な微笑を浮かべながら「さて」と膝を払って立ち上がってしまう。
「あまり遅くなっても、君のご家族に申し訳ないから家まで送るよ。こうなった事情も説明しないといけないからね」
その言葉で爽月の存在を思い出してスマホに目を落とせば、案の定爽月と両親からメッセージが何十件も送られており、着信履歴はその倍もあった。
そんなに時間が経っていないと思っていたが、川で溺れて意識を失っている間に大分経ってしまったらしい。
顔を真っ青にしてすぐさま立ち上がると、「その必要はありませんっ!」と早口で男性に伝える。
「自宅はすぐそこなので送らなくても大丈夫です!」
「本当かい? それならせめて連絡先を教えてくれないかな。君が着ている洋服のクリーニング代とぬいぐるみの弁償代くらいは支払わせて……」
「自分が好きでやったことなので必要ありません。助けていただきありがとうございました。急いでいるのでこれで失礼しますっ!」
不満そうな男性に深々と頭を下げると、彩月は足早に土手を登っていく。生い茂る草木や細かな砂利がストッキングの足裏に刺さってむず痒いが、今は気にしている余裕が無い。
うさぎと男性から逃げるように、彩月は自宅に向かって小走りになったのだった。




