第三話 アストレアの婚約
そんな穏やかな暮らしが破られたのは、ミュラーが十八歳、アストレアが十四歳のときだった。
「喜べ、ナデシュタ! 王太子殿下とアストレアの婚約が決まったぞ!」
喜び勇んでマイゼンハウアー一族の長たるナデシュタの執務室に入ってきたのは、ミュラーとアストレアの父、ギュンターであった。
「ほら見ろ! 婚約の書状だ! 陛下の直筆のサインと王家の印章も押されている!」
執務机に広げられた書面には、ヴァーセヒルダ王国の王太子オスカーとアストレアの名前、更にヴァーセヒルダ王国国王の記名と捺印までもがされていた。
ナデシュタは思わず頭を抱えた。
ナデシュタの政務を補佐する側近たちも同様だった。
「これでマイゼンハウアーの一族も安泰だろう! どうだ、ナデシュタ、ミュラー! 僕もたまには良い仕事をするだろう!」
得意げに言ったギュンターを、ミュラーは思い切り睨んだ。
「……ふざけないでいただきたい。アストレアの婚姻に口を出す権利など、貴方にはない」
怒れば怒るほど、ミュラーの眼光は鋭くなり、また口調も丁寧になる。
それを知っているギュンターは、ミュラーの怒りの理由がわからず、きょとんとした顔で、ミュラーを見た。
「どうしてだい? 僕はミュラーとアストレアの父親だよ?」
更に、首まで横に傾げた。
そんなギュンターの様子に、ミュラーは奥歯を噛み締めたが、声を荒げることなく丁寧に告げた。
「ええ。残念なことに、貴方が……いえ、ギュンター殿が、私とアストレアの血縁上の父であることは確かですね」
「ギュンター殿なんて、他人みたいな呼び方……」
「いっそ本当に他人になってしまえれば、日々心穏やかに過ごせることでしょうね」
わざとらしく、大仰にため息を吐いたミュラーに、ナデシュタの側近たちもうなずき、同意を示す。
今回ほどではないが、これまでにいくつもの騒動を起こしてきている。
すべて、マイゼンハウアーという、ある意味特殊な一族への理解不足から生じたものではあったが、今回はそれだけではない。
完全に、契約違反。
故に、父と子という枷を外して、ミュラーはあからさまに怒りを見せた。
ナデシュタは一言も発しない。
無言のまま、便箋と封筒を取り出し、何やら書き出していた。
「わかっていないようですから、申し上げましょう、ギュンター殿。貴方はこのマイゼンハウアーの一族の者ではありません。我が母にしてマイゼンハウアーの一族の長であるナデシュタ・ド・マイゼンハウアーの夫というだけです。婚姻に際しての契約もそうなっていたはずですが、お忘れですか? それとも初めからご理解もできなかったのでしょうか?」
ギュンターは元々、ヴァーセヒルダ王国のとある男爵家の三男でしかなかった。
血族結婚ばかり繰り返せば、血が濁る。
その考えのもと、ナデシュタが、外から血を入れるために娶っただけの婿であり、婚姻に際して、マイゼンハウアーの一族の神事、行政などにかかわる権利はギュンターにはないと、書面できっちりと明記もし、声に出して読み上げもした。
ナデシュタにとっての夫は、子を成せる能力があり、マイゼンハウアーの一族の神事や為政に口を出さずにいれば、誰でもよかった。
だから、候補の中から、一番顔の良いギュンターを選んだだけだった。
置物の夫であるのならば、見ていて美しいほうが良いからである。
「なのに、よりにもよって、ヴァーセヒルダ王国の王太子との婚姻を、母の承諾を得ることなく、貴方が勝手に結ぶとは……。越権行為も甚だしいと言うものです」
ミュラーに睨まれ、ギュンターは一歩後ずさった。
助けを求めるように、ナデシュタを見るが、そのナデシュタはギュンターなど無視し、書き物を続けている。
「ナデシュタぁ……、なんとか言っておくれよ……」
ギュンターが情けない声を出せば、ナデシュタは書き物も終わったのか、便箋を折り、封書に入れ、そこに捺印を押した。
ふう……、と息を吐いて、ナデシュタはギュンターを呼んだ。
「……そばに来てちょうだい、ギュンター」
「ナデシュタっ!」
まるで飼い主に呼ばれた犬のように、ギュンターはナデシュタの元へと駆け寄った。
「あのね、ギュンター。お願いがあるのよ」
ナデシュタは妖艶に笑い、ギュンターの手をそっと取った。
「うんうん、なんだい? 僕はナデシュタのお願いなら何でも聞くよ!」
「ありがとう、ギュンター」
微笑みながら、ナデシュタはギュンターの指からゆっくりと結婚指輪を引き抜いた。
「え? ナデシュタ……?」
そして、指輪の代わりだとばかりに、書き上げたばかりの手紙をギュンターに渡した。
「この手紙をね、ヴァーセヒルダ王国の国王陛下に直接手渡してほしいの」
「う、うん、それはいいけど、あの、僕の結婚指輪は……」
「それで、ね。伝言もあるの」
「伝言?」
ナデシュタは笑みを深くした。口角が上がる。美しい顔だ。
「そう。陛下にね。『このお手紙を受け取っていただければ幸いです。要件は二つあります。どちらも受理していただければよろしいのですが、無理であれば、どちらか片方は必ず受理してくださいませ。どちらも不可というのであれば、爵位を返上し、ヴァーセヒルダ王国とのご縁をなくすこととします』とね。一言一句、違うことなく正確に伝えてちょうだい」
「え、え、えっ!」
伝言の内容に、慌てるギュンダーに、ナデシュタは更ににっこりと笑って、トンとその肩を押した。
「さあ、急いで行ってちょうだい、ギュンター。この時期だから、川を船で行けば、王都まで五日もかからないでしょう? そこから謁見願を出して、陛下にギュンターがお会いして……。そうね、二週間もあれば、処理が可能かしら? もう少しかかるかしら? でも、なるべく迅速にお願いね?」
「え、え、え? あの、指輪……は……」
返事はせずに、ナデシュタは側近たちを振り向いた。
「そういうことで、ギュンターを王城に送るよう、手配をお願いね」
側近たちは「はい」と答え、ナデシュタに一礼するやいなや、ギュンターの両腕を掴み、引きずるようにして、執務室から出て行った。
執務室に残されたのは、ナデシュタとミュラーだけ。
「……母上、陛下への手紙には何を書かれたのですか?」
「あら、ミュラーなら予測はつくのではなくて?」
「アストレアと王太子殿下との婚約など無効だとする書状でしょう」
「正解」
「ですが、母上。陛下が婚約無効を受け入れてくれるとは到底思えません」
ナデシュタはあっさりと頷いた。
「それはそうよね。伝承を半ば忘れ、単なる伝説だと思い。そして、我らマイゼンハウアーの豊かな自然を持つ土地を、ヴァーセヒルダ王国の近年の国王たちは、自分たちで所有したいと虎視眈々と狙っているのだもの。あたくしの婚姻しかり、アストレアの婚姻しかり……ね」
「では、もう一つの要件とは……」
「アストレアと王太子殿下の婚姻を無効にしないというのならば、代わりにあたくしとギュンターの離婚を認めろ。そう書いてやったわ」
「母上……」
「あたくしにミュラーとアストレアを授けてくれたのだから、一生飼ってあげてもよかったのよ。たとえヴァーセヒルダ王国の印のついている犬でもね。だけど……あたくしに無断でアストレアの婚約を結ぶとは……。これ以上は害にしかならないわ」
ミュラーは頷いた。
「……ギュンター殿のご実家やヴァーセヒルダ王国の陛下から、あれこれと言われ、その気になって、勝手に婚約を結んだのでしょうが……」
「まあ……ね。アストレアの婚約は……、結婚までに猶予がある。無効だと主張することは忘れないけど、アストレアが願うのなら、ヴァーセヒルダ王国の王妃にしてあげるのも一興よ」
「……アストレアが王妃という未来を選ぶとは思えませんが」
「でも、好奇心の強い子だから。『せっかくだから、王太子殿下とやらのお顔を拝見するのも面白いかもしれないわ』って程度なら、言うかもしれないじゃない」
ミュラーは少し考えた。
ありえる。
「……アストレアが、自分で、未来を選ぶ……のであれば」
それを支持するのも兄としては吝かではないのだが。
ヴァーセヒルダ王国の王太子。あまり良い噂を聞いたことがない。
ミュラーの眉根が顰められた。
「アストレアが嫌なら、婚約をなんとかする手段もないことはないわ。ただ……、マイゼンハウアー以外の世界を見て、そこで生きたいというのなら、それをあたくしは支持するつもりよ。ミュラーはあたくしの跡取りだから、選ばせてあげられなくて悪いけど……」
ミュラーは、ようやく硬い顔をふっと綻ばせた。
「いいえ、母上。私は、このマイゼンハウアーの地のために生きることを、最上のものと考えております」
「そう……。ありがとう、ミュラー」
先ほどギュンターに向けたのとは種類の異なる、柔らかな笑みをナデシュタは浮かべた。
「アストレアの未来がしあわせであれば。私もアストレアがどのような未来を選択しても構わないと思っておりますから」
このとき、ミュラーは本音で母親と話していた。
アストレアの未来が、しあわせなら、どのような選択でも……と。
だが、そう遠くない未来で、ミュラーとナデシュタはヴァーセヒルダ王国の王都にアストレアを連れて行ったことを後悔することになる。
なぜならば……、アストレアは、他でもない、その王都で、殺害されたのだから。