第十話 婚約破棄宣言と、断罪
貴族学園の正面玄関ホール。その奥にある階段を上った二階で、エミリアは右へ左へとうろついていた。時折、時計を見ては、時間を確認する。
「ふふ……、あと少しで、授業が終わるわね……。それから、オスカー様がここを通って、お城に帰るのは……五分後くらい、かな」
時間を見計らって、エミリアは、足取りも軽く、ととと……と、階段を半分ほど降りた。
一応周囲を確認するが、まだ授業中ではあるので、一階の玄関ホールにも二階にも、人の姿はない。
「一番上から落っこちたら、本当に怪我、しちゃうからねー」
と、楽しそうに言った後、エミリアは息を吸ってから、大声を出した。
「そんな! やめて、アストレア様っ!」
そして、間を空けずに「きゃああああああああああああっ!」と、甲高い声で叫びつつ、その階段を一階まで転げ落ちて行った。
ホールに響く声に、何事が起ったのかと、生徒や教師たちが集まってきた。
彼らが見たのは、階段の下で倒れているエミリアのみ。
誰かが駆け寄って、エミリアを抱き起そうとする前に、声を聞きつけたのか、オスカーがきた。
「エ、エミリア! どうした、何があった⁉」
オスカーに抱き起されたエミリアは、ちらっと階段の上を見る。
オスカーも、そして集まってきた生徒や教師たちも、エミリアの視線につられて、階段の上を見るが、そこには、誰も、いない。
「エミリア!」
再度、オスカーが問えば、エミリアは弱々しく答えた。
「あ……、アストレア様に、階段から……」
「突き落とされたのか⁉」
エミリアは、答えはしなかったが、俯いた。
「あいつは逃げたのか⁉ クソ!」
追いかけようとするオスカーを、エミリアが止めた。
「オスカー様……、きっと偶然ぶつかってしまったのよ。それに、アストレア様のことですもの。逃げたのではなくて、助けを呼びに行ってくれたに違いないわ」
「エミリア……、お前は優しすぎる。突き落とした相手を庇うなんて……」
涙で潤んだ瞳で言ったエミリアに、オスカーは感動し、そして、周囲の生徒たちに訴えた。
「皆、聞いてくれっ 俺様はもう我慢できん! 嫉妬に駆られたアストレアの狼藉……、許しがたいとは思わんか!」
怒りの感情のままに叫ぶオスカー。
対して、周囲の反応は薄かった。
アストレアがエミリアを階段から突き飛ばしたと、エミリアは主張するが、そのアストレアの姿は二階にも一階にも見えない。逃げたのだとしても、廊下で幾人かの生徒とすれ違うことくらいはしただろう。だが、アストレアの姿も形も全くない。
生徒たちは、どこかおかしいと思いつつも、王太子の言に意見はできない。ただ遠巻きに、オスカーとエミリアを眺めるだけだった。
「あ、あたしが、悪いの……。アストレア様に階段から突き飛ばされるのも……、熱い紅茶をかけられるのも……教科書を池に放り投げられるのも……」
エミリアの声が震える。
その様子は庇護欲を誘う……だが。
「な、何だとっ! エミリアはアストレアからそんなひどい虐めを受けていたのかっ!」
「……ええ。昨日も足を引っかけられたの。一昨日は、せっかくオスカー様から頂いた髪飾りをまた取り上げられたわ……。三日前だって……」
「あの、悪女に、そんなことを……されていたとは……。辛かったなエミリア……」
オスカーがぎりっと、口を噛みしめる。
エミリアは俯いて、首を横に振った。
「いいの、悪いのはあたしなの。オスカー様にはアストレア様という婚約者がいらっしゃるのに……。あたしは、オスカー様を……愛してしまった。アストレア様があたしを目障りに思われるのは当然だわ……。ごめんなさい、オスカー様。でも、あたし……、オスカー様と離れるのだけは、嫌なの。アストレア様からの虐めは……大丈夫。いくらでも耐えられるわ……」
オスカーは思わずエミリアを抱きしめた。
「もう我慢しなくていい! アストレアとの婚約は破棄だ!」
出来の悪い演劇か、恋愛ごっこ。
そんなものをいきなり見せつけられた周囲の生徒たちは、皆一様に困惑した。
ただし、その中でもキース、ロルフ、ジョーの混乱は、他の生徒たちとは一線を画していた。
「エミリア……、王太子殿下とは親しい友人というだけではなかったのか……? 愛するって、どういうことだ……」
ぼそりと呟いたキース。ロルフとジョーも、はっと、キースの言葉を聞いた。
「エミリアは、俺に……、俺のことが、友達以上にトクベツだって言った……。だから、俺は、エミリアがオレの恋人になってくれたのかと思って……」
「待てよ、ジョー。エミリアの恋人はこの私だ」
「……だけど、あれじゃあ、エミリアは王太子殿下の恋人みたいじゃないか! それも、今、思いが通じ合ったのではなく、もっと前から……」
「それじゃ、何のために……」
ぼそぼそと、キースたちが呟いた、そのとき、オスカーは宣言した。
「俺様は真実愛するエミリアと婚約を結ぶ!」
「オスカー様……。エミリア、うれしい……っ!」
そして、そのオスカーの宣言に、エミリアは喜びをもって答えた。
今まで信じていたものが、崩れ落ちたような顔の三人。
そんなところへ、ルキウスを伴ったミュラーが現れた。
「……王太子殿下。今、我が妹との婚約を破棄するというお言葉が聞こえたのですが?」
「ああ、そうだ、ミュラー。酷い虐めを行うような悪女は、この俺様には不要! 王太子であるこの俺様にふさわしいのは、純真で儚げで可憐なエミリアだ!」
ミュラーは、あからさまにため息を吐いた。
「なるほど。我が妹が、そちらのご令嬢を苛めたと……そう王太子殿下はおっしゃるのですね?」
「そうだ! この場にいる大勢の者も見ただろう! エミリアがアストレアに階段から突き飛ばされた瞬間を! 見たものは挙手を!」
だが、当然挙手などする者は一人としていなかった。
「居りませんねえ……」
白けた声で、ミュラーが答えた。
すると、エミリアがぽろぽろと涙を流し始めた。
「か、階段から突き飛ばされただけでなく、大事なものを取り上げられたこともあるの。……今までたくさん……ひどいことを……。そう、今、階段から突き落としただけでなく、アストレア様は、昨日だって、あたしに暴言を……。あ、あたしが平民だからって……。アストレア様は侯爵家の令嬢だから、たかが平民の小娘一人、殺しても罪にはならないって、嗤ってきて……あたし、こわくて……」
周囲の同情を買おうと、エミリアが震える声で訴える。
ミュラーは更に冷めた目でそのエミリアを見た。
「そうですか、先ほどもそのようなことを王太子殿下に訴えられていましたね。確か『昨日も足を引っかけられ、一昨日は髪飾りを取り上げられた』でしたか。そちらのご令嬢にお尋ねいたしますが、アストレアから行われたという虐めの内容と、日付には間違いは無いのでしょうね?」
エミリアは大きく頷いた。
「もちろんですっ! アストレア様には毎日毎日……」
ミュラーは片手を上げて、エミリアの言葉を遮った。
「ではもう一つあなたにお尋ねしましょう。我が妹アストレアは、昨日、何者かによって殺害されました。そのアストレアが、どうやってあなたに暴言を吐いたり、あなたを階段から突き落としたり、できるというのですか?」
「え?」
「は?」
オスカーとエミリアにはミュラーの言葉の意味が理解できないようだった。
周囲の者たちは、余りのことにざわめいた。
「え……? アストレア様が……?」
「殺害って……」
ミュラーは周囲の生徒たちのざわめきに対し、肯定の意味を持って軽く首を縦に振る。
「実行犯は既に取り押さえておりますが、その者たちに命令を下した者は……エミリア嬢とやら、もしやあなたなのですか?」
「し、知らないわよっ!」
エミリアは即座に否定した。
だが、それだけで、はいそうですかと引き下がるミュラーではない。
「そうですか? 死んだアストレアに階段から突き落とされたなど嘘を言うのは、てっきり、殺害を命じたことを誤魔化すため……と思ったのですが?」
「し、知らない、知らない! 殺すなんて、そんなことあたしはしない!」
知らないというのは嘘ではない。
アストレアに『悪役令嬢』として虐めてもらい、エミリアは『可憐でけなげなヒロイン』になければならないのだ。そうして、オスカーの同情と愛情によって王太子妃、そして王妃とまでなる……。それがエミリアの考えだった。
故に、アストレアに死んでもらっては逆に困るのだ。
「そうですか。では、そちらのエミリア嬢と婚約を結ぶにあたって、邪魔になるアストレアを殺害しろと指示したのは……王太子殿下、あなたでしょうか?」
ミュラーはじろりとオスカーを睨んだ。
が、そのオスカーも戸惑うばかりだ。
「お、俺様が⁉ まさか!」
「アストレアを襲った暴漢たちは白状しましたよ。自分たちは金銭で雇われただけだと。強盗などではない。指示されたから実行しただけだと」
「そ、そんなこと俺様には無関係だ!」
「いいえ。アストレアは王都に来て日が浅い。屋敷と学園と往復し、時折街を散策する程度の生活。ごろつきを雇ってまで、脅すほど関係のある人間はそう多くないのですよ。王太子殿下、あなたやそちらのご令嬢以外に、誰がアストレアをそれほどまでに強く恨みますか?」
その恨みも、逆恨みのようなものでしょうが……と、ミュラーは告げつつ、周囲の生徒や教師たちをぐるりと見回した。
「この学園で、アストレアと懇意にしてくださった方々も、少なからずいらっしゃるでしょうが……、殺害を示唆するほどの付き合いまではしていないでしょう。級友程度の付き合い。その者たちが、わざわざごろつきを雇ってまで、アストレアに深い気持ちを抱くとは到底思えません」
ミュラーは、わざと、ゆっくりと、周囲に向かって告げた。
「それとも……、この中にいるのでしょうか? 我が妹、アストレアを、ごろつきを雇ってまで排したい……。そう考える者たちが……」
たいていの者たちは、まさか、という表情を浮かべていた。
アストレアが、遠いマイゼンハウアーの地からこの学園に編入してきたということや、王太子であるオスカーの婚約者であるということをたいていの生徒は知っていたし、また、挨拶程度は交わすこともあった。
が、個人的にアストレアと親しく付き合ったことなどは、ほとんどない。
アストレアにしても、婚約などなくしてマイゼンハウアーの地へと帰るつもりであったのだから、広く浅く、大勢と交流はすれども、親友を作るなど、深い付き合いはしていない。
オスカーやエミリアなど些事中の些事。
どうでもよかったのだ。
学園に、アストレアを殺害したいと思うほど深く思い詰める者など、皆無であるはず。
だが、学園の外に、それほどの思いを詰める者も、考えはつかなかった。
故に、ミュラーのこの言葉は、鎌をかける、そういう意味であったのだ。
ミュラーが周囲に向かって、語り掛けている間、ルキウスはその陰で、周囲の人間を窺った。
そして、周囲の生徒たちとは反応の異なる三人を見つけた。
キース、ロルフ、ジョー。
その三人をルキウスは蹴り飛ばした。
「ミュラー様、挙動不審者三名、発見です」
お読みいただきまして、ありがとうございます




