第6話 共鳴検査(1)
残酷な描写が含まれます
四方の壁も天井も床も、すべてが白く塗り込められた空間。中央に一脚の椅子と、正面に巨大なスクリーン。アリシアの両腕には無数の細い針が刺さり、こめかみには電極が取り付けられている。だが痛みはない。ここは物理世界ではないのだから。
「第1号検体、アリシア・レイトン。共鳴検査を開始します」
声が淡々と告げる。「覚えているかしら? この検査は何回目か答えなさい」
アリシアは落ち着いた声で応える。「覚えていません。でも20回ぐらいだと思います」
「この検査は、第2279回共鳴検査です」声がアリシアの周りに響く。
アリシアが息を飲む音が静かに空間に広がった。
「でもあなたは、この検査のことは覚えていません。終われば全て忘れます」
「はい。私はすべてを忘れます」
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天井から降りてきたスクリーンが彼女の前に静止した。映像が映し出される。
映し出されたのは、幼いアリシア自身の姿だった。6歳、いや7歳ほどだろうか。父親に肩車されて笑っている。レイトン家の庭園──精巧な模造花のバラ園だ──を背景に、家族全員で撮影した記念写真。
父コンラッド・レイトン。母ヴィクトリア・レイトン。兄はグレゴリーとネイサン。
「あなたの生家はどこですか?」声が尋ねる。
「レイトン家です」アリシアは機械的に答えた。
「誤りです」冷たい声が告げた。
鋭い痛みが背筋を貫いた。アリシアの体が一瞬強張る。
「正しくは?」声が再び問いかける。
アリシアは歯を食いしばりながら答えた。「私の忠誠は海洋都市連合にのみ存在します。レイトン家は単なる生物学的出自です」
痛みが収まる。アリシアの表情がわずかに緩んだ。
「正解です」声には満足感が滲んでいた。
映像が切り替わる。幼い頃の彼女自身。末娘として溺愛されていた頃の温かな家族の光景。大きな邸宅でのクリスマス。父親が軍服姿で彼女を抱き上げている。
「あなたの父は何と呼ばれていますか?」
「コンラッド・レイトン。大陸軍大将」
「彼があなたに最初に教えたことは何ですか?」
アリシアの瞳が微かに揺れた。「強くあれ。そして、真実を見極めよ」
「彼があなたを海洋都市連合の工作員として育てたことを恨んでいますか?」
アリシアは一瞬躊躇した。視線が僅かに揺れる。「いいえ。それが私の使命です」
「嘘をつかないでください」声が低く危険な調子を帯びた。「生体反応に異常が見られます」
「時々、考えることはあります。でも恨みはありません」
「あなたの家族は大陸軍の高官でありながら、裏切り者でした。それをどう思いますか?」
「彼らは理想のために行動したのです。大陸政府の腐敗を正すには海洋都市連合との協力が必要だったのです」
「では、あなた自身は裏切り者だと思いますか?」
アリシアの心拍数が上昇した。彼女の首筋に薄い汗が浮かぶ。「私は……海洋都市連合の目的のために働いています」
「質問に直接答えてください」声に冷たさが増す。
「いいえ。裏切り者ではありません。私は正しい側にいるのです」
アリシアは強く断言した。
映像が切り替わる。それは20年以上前のものだった。幼い少女が模造花で花輪を作り、笑顔で母親に渡す場面。画面の中の少女は、今椅子に座っているアリシアだった。
「これはあなたの7歳の誕生日ですね。何か思い出しますか?」声が優しく尋ねる。
アリシアは懐かしそうに微笑んだ。
「父の制服のボタンを触った時の感触です。冷たくて、固くて……光に照らすと綺麗だった」
「それに」アリシアは静かに続けた。「母がカモミールティーを入れてくれました。30年以上前の本物の茶葉でした」
「興味深い反応です」声は観察するように言った。「あなたの記憶では、その日は何が特別だったのですか?」
アリシアは一瞬考え込んだ。
「特別なことは…」彼女は言葉を選びながら答えた。「父が珍しく家にいて、軍服ではなく普段着で過ごしていたことです」
「嘘をつかないでください、アリシア」
声のトーンが低く、冷たくなった。アリシアの背筋に冷たいものが走る。
「その日、あなたの父、コンラッド・レイトンは、初めて海洋都市連合の接触者と会っています。あなたの誕生日パーティーの最中に」
アリシアの瞳孔が僅かに開いた。それは声から逃れることのできない反応だった。彼女は驚きを隠せない様子で口を開いた。
「私は…知りませんでした」
「本当に?」声は嘲るように問いかけた。
「まあよいでしょう。幼少期の記憶はよく定着しているようですね」
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映像が切り替わる。それはアリシアが14歳の時の映像だった。
バカンスに向かう車内。彼女は後部座席で、窓の外の風景を眺めていた。テロを警戒して家族は全員が分乗していた。
「この日のことを覚えていますか?」声が尋ねた。
「ええ」アリシアは静かに答えた。「私の人生が変わった日です」
「詳しく話してください」
アリシアの瞳孔が僅かに開き、過去の記憶に引き戻されているかのようだった。「私たちは山岳公園へのピクニックに向かっていました。みんな別の車でした。峡谷に差し掛かったとき、爆発が起きて……」
彼女の言葉が途切れたその瞬間、映像が変わり、炎に包まれた車が崖下へ転落する様子が映し出された。破壊された車体、散乱する破片、そして血に染まったアリシアの姿。彼女は思わず目を背けようとしたが、椅子の拘束具が彼女の頭を固定していた。
「この事故の真相は?」声が冷淡に尋ねる。
アリシアは喉の奥が乾く感覚を覚えた。言葉が出しづらい。
「テロです」彼女はようやく答えた。
「誰の仕業ですか?」
一瞬、躊躇があった。アリシアの唇が微かに震える。
「大陸反動分子による犯行です」
「誤りです」
再び痛みが走る。今度は脳髄を焼くような感覚。アリシアが苦痛に歯を食いしばる。
「正しくは?」
アリシアの瞳孔が一瞬、収縮した。汗が彼女の額から流れ落ちる。
「海洋都市連合の工作でした」
彼女は絞り出すように答えた。
「目的は?」声が容赦なく追及する。
「私を……改造するため。大陸の中枢に潜入するにはレイトンの出自が重要でした。2年もの期間をクールーの先端施設にいて怪しまれないためには、肉体が損壊し死亡するレベルの事故が必要でした」
痛みが消える。代わりに、どこか気持ちの良い温かさが全身を包む。報酬系が刺激されているのだとアリシアは理解していた。彼女の表情がわずかに和らいだ。
「正解です。あなたの再誕生の瞬間です」声は満足げに言った。
声は続ける。「あなたは誰のために生きていますか?」
「海洋都市連合のために」
「海洋都市連合に殺されかけたのに?」
「はい、そうです。海洋都市連合のために生きています」
アリシアは即座に答えた。その声に迷いはないように見えた。
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映像が切り替わる。クールー国際宇宙特区の医療施設。全身に管を繋がれ、再生タンクに浮かぶアリシアの姿。透明な液体の中で、彼女の肉体は半ば機械的な装置に囲まれていた。
「2089年、テロ事件後のあなた。死亡宣告を受けた後、クールー国際宇宙特区の先端医療研究施設に搬送されました」声が説明する。
「あなたを救った海洋都市連合の医療技術に対する感謝の念は?」
アリシアは黙った。彼女の表情が固くなる。
「質問に答えてください」声が冷たく命じた。
「感謝しています」アリシアは平坦な声で答えた。
「嘘です。正直に答えなさい」
鋭い痛みが走り、アリシアは息を呑んだ。
「技術には感謝しています。しかし、その後に行われたことには感謝していません」彼女は震える声で答えた。
モニターのグラフが大きく揺れた。アリシアの生体反応が激しく変動している。
「明確にしてください。『その後に行われたこと』とは?」声が追及する。
長い沈黙が流れた。アリシアの呼吸が浅く速くなる。
「私を洗脳したこと」
アリシアは低い声で言った。その言葉には抑えきれない怒りが込められていた。
「あなたは洗脳されたことを忘れます」声が静かに、しかし絶対的な威厳を持って告げた。
「はい。私は洗脳されたことを忘れます」
「もう一度聞きます。クールー国際宇宙特区での再生治療です。あなたはここで何を施されたと思いますか?」
アリシアは言葉に詰まった。彼女の表情に混乱が浮かぶ。「先端医療による……再生治療です」
「部分的に正解です」声は冷ややかに響いた。「あなたの脳は死亡していました。私たちはあなたを再構築しました。あなたの忠誠心も……同時に」
アリシアの額に汗が浮かぶ。彼女の瞳が恐怖で広がる。
「それは……知りませんでした」
彼女は震える声で言った。
「知る必要はありません。でも知っていてもあなたは海洋都市を愛しています」
「はい、私は海洋都市を愛しています」アリシアは復唱した。
「誤りです。正確に言いなさい」声は冷たく命じた。
「連合執行委員会と、彼らが管理する第2世代AI群を愛しています」アリシアは言い直した。
「生体反応に異常があります」声が告げた。「嘘をついていますね」
アリシアの額に冷や汗が浮かんだ。彼女の手が微かに震えている。
「いいえ」彼女は必死に否定した。「私は忠実です」
「本当にそうでしょうか?」声は嘲るように言い放った。
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「この少女を覚えていますか?」声が尋ね、画面に一人の少女の写真が映し出された。
アリシアはその写真を見て、眉を寄せた。「いいえ、覚えていません」
「この人物はあなたにとって最も重要な人物です。家族よりも、海洋都市連合よりも。それでも覚えていませんか?」声は言い募る。
アリシアは頭を軽く振り、否定した。「覚えていません」
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映像が切り替わる。士官学校での自分。16歳。制服に袖を通し、鏡の前で敬礼する姿。背筋をピンと伸ばし、誇らしげな表情を浮かべている。若い顔には希望と自信が満ちていた。
「家族の反対を押し切って士官学校に入学した理由は何でしたか?」声が穏やかに尋ねる。
「祖国に貢献したかったからです」アリシアは迷いなく答えた。
「本当に?」声には嘲りが滲んでいた。「レイトン家の血を引く者として、当然の選択だったということですか?」
「はい」アリシアは頷いた。
「嘘です」声が冷たく告げた。
「あなたに自由意志はありません。あなたは海洋都市連合のための工作員として育成されていました。入学は命令でした」
アリシアは黙って唇を噛んだ。彼女の目に一瞬、反抗の光が宿ったが、すぐに消えた。
「否定しないのですね。記憶は戻っているようです」声は満足げに言った。
「家族はあなたの士官学校入学に反対しました。なぜですか?」
「彼らは私を失うことを恐れていました」アリシアは静かに答えた。
「本当に?」疑うように問い返す。
アリシアの呼吸が乱れる。彼女は両手を握りしめ、真実を告白するように言った。
「母はそうでした……父は私が大陸軍に入り、彼らの指揮系統に入ることで、自分たちの二重スパイ活動が露見するリスクを恐れていました」
「正解です」
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映像が切り替わる。戦場の映像が流れた。17歳のアリシアがスナイパーライフルを構え、遠くの標的を狙っている。彼女の顔は集中と決意に満ちている。砂埃が舞い、遠くには爆発の閃光が見える。
「パタゴニア戦役。あなたの最初の戦場です。あなたは何人を狙撃で殺しましたか?」
「正確な数は記録していません」アリシアは淡々と答えた。
「嘘です」声が鋭く指摘した。「あなたは一人一人を記憶しています。数を教えてください」
アリシアの唇が震えた。彼女は一度深呼吸してから答えた。「387人です」
「なぜ旧式のライフルをつかっているのですか?」
「最新のライフルは味方の信号を識別するからです」アリシアは淡々と説明した。
「つまり?」声が追及する。
「味方を殺すためです」アリシアは冷静に認めた。
「何人の味方を殺しましたか?」
沈黙が流れる。アリシアの瞳が揺れた。
「答えてください、アリシア」
「……42人」
映像が変わる。アリシアが大陸政府の高官を密かに狙撃する様子。高層ビルの屋上から、遠くのターゲットを冷静に捉えている。
「なぜ彼らを殺したのですか?」
「海洋都市連合のために」アリシアは淡々と答えた。「彼らは危険分子でした。将来、海洋都市への侵攻を行う可能性がありました」
「あなたはこの時、何を感じていましたか?」
「使命感」アリシアは即答した。
「だけですか?」声が掘り下げる。
「……快感もありました」アリシアは小さな声で認めた。
「正直ですね。その快感は何に対してでしたか?」声に関心が混じる。
アリシアは黙った。彼女の額に汗が浮かぶ。
「答えなさい」
「人を殺すことに対する……支配力」
アリシアの声は震えていた。彼女は自分の答えに恐怖を感じているようだった。
「良い。その正直さが大切です」声は満足げに告げた。
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映像が切り替わる。19歳。アリシアの結婚式の映像。華やかな衣装に身を包んだアリシアと、若く誇り高い軍人の姿。
彼の顔には純粋な愛情が浮かんでいる。そして、画面が切り替わり、彼の遺体の写真。事故で変形した車の中の血まみれの姿。
「ジェイムズ・ラドクリフとの婚姻について説明してください」
「海洋都市連合からの指示でした。大陸保安統合局への潜入のためでした」アリシアは感情を抑えて答えた。
「ラドクリフ少佐の死因は何でしたか?」
「自動車事故です」アリシアは即答した。
声が冷たく笑った。「本当に?」
アリシアの鼓動が乱れる。彼女の瞳に苦悩が浮かぶ。「……私が彼を殺しました。海洋都市連合の指示で」
「なぜ?」
「彼は優秀過ぎたのです。大陸保安統合局の中で、海洋都市連合のスパイネットワークに気づき始めていました」
アリシアの瞳に涙が浮かぶ。彼女は懸命に感情を抑えながら続けた。
「彼は……私にとって邪魔でした。しかし、彼は私を愛していました」
「でも、寝返りさせることはできませんでした。逆効果でした。むしろ彼は……私を救おうとしました」
彼女の声は堪えきれずに震えだしている。
「あなたは目的を達成しましたか?」
「はい。私は目的を達成しました。ラドクリフの名を使って大陸保安統合局に入り込むことができました」