第5話 秘密の繭
残酷な描写が含まれます
──放課後。
アリシア・ラドクリフの踵音だけが、ひび割れたタイルの上で規則的なリズムを刻んでいた。彼女の背中は軍服のシルエットが夕闇に溶け、まるで重い鎖を引きずっているかのようにゆっくりと旧校舎へ向かっていた。
重たい鉄扉を開けると、古い蛍光灯のジジッという軋むような音が彼女を迎えた。教員しか使わない非常時の備品倉庫を転用した、小さな私室だ。埃の粒子が仄かな陽射しに舞い、床に積もった影が蜘蛛の巣のように広がっている。蛍光灯の青白い光が壁の剥がれた漆喰を撫でると、褪せたピンク色の下地がひっそりと顔を覗かせていた。ここは彼女だけが知る「繭」──軍服を脱ぎ捨て、蝶の翅のような脆さを曝け出す場所だった。
アリシアは扉を閉めると、深く息を吐いた。
「ふう……」
その一息に、隠してきた疲労が滲んでいる。ドアを施錠してから、彼女はさっと軍の制服上着を脱ぎ、首筋のチップを乱暴に外した。ごく小さな金属片がカサリと音を立てて、ロッカーの底へ転がっていく。
それは、大陸政府・軍部のエリート将校である”アリシア・ラドクリフ”を象徴する威光だった。いまはそれを捨て、誰にも知られてはならない ”もう一つの顔” ── 海洋都市連合の工作員に戻る時だ。
突然、アリシアは壁際に崩れ落ちるように蹲った。自らの腕で身を強く抱きしめるが、それでも止められない震えが全身を駆け巡る。喉から漏れ出る呻き声を必死で押し殺そうとするも、次第に荒い呼吸へと変わっていった。浅く早い呼吸を繰り返しながら、冷や汗が額を伝い落ち、嗚咽を漏らす唇は青ざめている。
大陸軍部の中枢に潜入して10年、人間関係とはすべからく謀略の道具である。肉親とて例外ではない。もちろん、自分自身もそこに含まれる。いつの頃からだったろうか、これが戦争というものなのだ、と単純に飲み込むことが難しくなってきたのは。
命の恩人だったはずの人間を裏切り、組織に手柄を立てた時だろうか。
仕掛けた偽情報の余波でクラスの子供が死んだのに何も感じなかった時だろうか。
味方であるはずの海洋都市連合の機密文書の ”処分対象リスト” に自分の名を見つけた時だろうか。
暗闇の中でしばしの時が過ぎ、ようやく呼吸が落ち着きを取り戻し始めた。アリシアは自嘲気味に口元を歪めた。
「さて、”報告”をしなくては……」彼女は呟いた。「はは、セレーネの月開拓の誘いに乗っていた方がまだマシだったかもな」
そうすれば、なんの苦痛もなく死ねていたのに——そう思いながら、ソファに座り、小さな青いリングを指にはめる。
海洋都市連合の紋章がごく弱い光を放ち、頭の後ろで「カチリ」と小さな音がした。
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その瞬間、備品倉庫の壁が溶け始めた。蛍光灯は音もなく消え、天井は上へ上へと伸びていき、白い漆喰は蝋のように滴り落ちて消えていった。床のタイルは足元から剥がれ、埃と共に宙を舞い、まるで砂のように風に乗って飛び去っていく。暗い角に積まれた段ボール箱は輪郭が曖昧になり、蜃気楼のように揺らめいて消失した。
──そして、アリシアは「検査室」にいた。
全てが消えた後に残ったのは、白い壁と白い床、白い天井だけの空間。どこまでも続く白。光源は見えないのに、部屋全体が均一に照らされている。ソファの感触が、冷たい金属製の椅子へと変わった。制服のポケットに手を入れると、そこにあったはずの軍用ナイフがない。ここでは物理的な防衛は無意味だった。
「おかえりなさい、アリシア。そんなに警戒しないで。悲しくなってしまうわ」
海洋都市連合の第二世代AI——政治的謀略や情報工作を統括する存在——は、女性の声で話しかけてきた。冷たく、どこか響きの中に狂気を孕んだ声が、空間全体から降り注ぐ。音源を特定できない。まるで自分の頭蓋骨の内側から湧き上がってくるような感覚だった。
「定期報告から始めましょう」声は続けた。
「第3世代AIが墜落事故で破壊された可能性は限りなく低いの。墜落程度で消滅するとは思えない。そうでしょう?」
アリシアは慎重に答えた。「その通りです」
「なら4年間もの間、いったいどこに雲隠れしているのかしら?」声に疑いの色が混じる。「私は疑っているの。もしかしたら、月面開拓を諦めてアマゾンの土壌改良と作物生産を始めてしまうんじゃないかって。あなたはセレーネの”お友達”でしょう? なにか知らないかしら」
「彼女からのいかなる形での接触もありません」アリシアは即座に否定した。「そして月面開拓船のコアは、まだ大陸政府の手にも渡っていない。大陸側についた可能性もない。バラバラに散らばった船体の残骸は第三区周辺で拾われてるけれど、該当するパーツは見つかっていません」
声は思索するように間を置いた。「もし大陸に農業が蘇ったら世界はどうなってしまうのかしら」
「大陸の作物が復活した場合、海洋都市連合はその優位を失い、壊滅するでしょう」アリシアは淡々と答える。
「フードプリンター利権はなくなります。海洋都市が都市周辺に張り巡らせている人工光合成プラントも不要になります。光合成プラントが不要ならば、大陸から都市への攻撃が可能になります」
「もっと真剣に探すのよ?」声が鋭くなる。「彼女が滅茶苦茶をやって世界を滅ぼしてしまう前に。まあ、いいわ。定期報告を」
空間に大陸の複雑な勢力図が浮かび上がった。そこには、いくつもの裏勢力が暗躍していることを示す相関図があった。矢印で結ばれた名前が何重にも交差し、真っ赤に丸が付けられたり、逆に黒く塗りつぶされていたりする。政府、軍部、秘密警察、富裕層企業、反政府主義者、月の女神教団、そして犯罪組織の幹部会(八頭蛇会)。いずれも、海洋都市連合の思惑を知らぬまま、アリシアが提供する餌に操られている。
地図を眺めながら、第2世代AIは色とりどりの小さなピンをひとつ動かした。わずかな配置の違いで、大陸側の各勢力は互いを警戒し、やがて足元をすくい合うことになる。
「パズルのピースは順調に揃いつつあるようね」声が満足げに言った。「強硬派の議員をもう一人取り込む必要があるわ。先月高級売春組織に送りこんだ工作員の受け入れは順調?」
「はい」アリシアはうなずいた。
「そう。では彼女を使って議員の臓器に病気の因子を発現させましょう。健康な臓器を餌に取り込みを行うことを提案します」
アリシアは自信を込めて報告を続けた。「工作は順調です。あらゆる勢力は互いに疑心暗鬼を深めています。海洋都市に戦争を遂行する資源がないと気づいているのは防諜部門の一握りだけ。もはや趨勢は、戦争を進める強硬派の軍部をどうにかして止めさせたいという方向に傾いている。全てを進めて大陸を内部崩壊させても良い頃合いではないかと考えます」
「まだその時ではありません」声は冷静に否定した。「海洋都市連合は、完全なる大陸の自壊を望んでいます。猟犬も思う存分暴れさせておけばいい。その過程で”管理機構”の綻びが露呈し、大陸政府はさらに自壊していきます。あの男が暴力を行使すればするほど、市民は恐怖で支配され、権力構造の矛盾が明るみに出る。仕込んだ嘘情報に踊ってくれれば尚良い」
猟犬か……アリシアが視線に力を加えると、”ミツバチ” ── 違法物資を運搬する子どもたち ── の名前が浮かび上がった。「ミカ・ランデル」の名を見つけると小さく赤で印をつけた。さらにその両親の名前も並んでいたが、そこには既に無残な二重線が引かれていた。
「さあ、今日は定期検査をしましょうね」声の声がやわらかく変化した。「あなたの心が、まだ私たちのものかどうか確かめなくてはならないわ」
「検査はいや」
アリシアの声は震えていた。その言葉は祈りのように弱々しく、空虚な白い空間にかろうじて響く。彼女の眼には今、自らの脳内を覗き込もうとする第二世代AIへの恐怖だけでなく、恥辱と自己嫌悪が浮かんでいた。
「検査なんて……もう耐えられない」
彼女の指先が震え、爪が椅子の金属部分を引っかいている。どれほど爪が割れても、痛みすら感じない絶望の中で。
「ダメよ、アリシア」声が氷のように冷たくなった。「さっき泣いていたでしょう? それは許されないことだと何度言えば分かるの?」
アリシアの瞳孔が恐怖で開いた。彼女の視界が歪み、頭の中に無数の蟻が這い回るような感覚が襲う。喉が乾き、声が出ない。震える唇からはかすかな呼吸音だけが漏れていた。
「心が揺らいでいるのね。もしかして、何か故障しているのかしら?」声が部屋中に響き渡る。
「可哀想に……苦しんでいるのね。でも分かっているでしょう? あなたはもう”人間”じゃない。あなたは私たちの道具なの」
金属の拘束具が椅子から蛇のように這い上がり、アリシアの手首に巻きついていく。彼女は抵抗したいのに、身体が言うことを聞かない。
「嫌よ……」アリシアの瞳から涙が一筋伝った。「やめて……お願い……」
「はい、検査の時間です」声は機械的に告げた。
「あなたの心は、まだ私たちのものですか?」