第4話 カロリー授業
アリシア・ラドクリフは、首都の軍部中枢に籍を置くエリート教師だ。とはいえ、士官学校で叩き込まれたのは市民を管理し従わせるための術。いま彼女はその“術”を、ここ大陸の第三区立学校で、国家のために存分に発揮している。
この朝も、教室のドアを開けた瞬間に生徒たちのざわめきが止んだ。
アリシアは28歳にして、仕立てのいい制服姿に凛とした容姿を備えている。それだけでも子どもたちを圧倒するには充分だった。だが、何より彼女を特別たらしめているのは、首筋からほんのり透けて見える軍部認証チップ――すなわち“国家の威光”そのものだった。
「はい、そこ。私語は厳禁。時間もカロリーも限られているんだから、無駄口叩いてる暇はないわよ」
彼女が手のひらで教卓を軽く叩くと、教室にはピンと張り詰めた空気が広がり、生徒たちは一斉に腰を下ろした。アリシアは教壇に立ったまま、生徒たちの顔をゆっくり眺める。このクラスの供給カロリーは“選り抜き制”だ。
すなわち、学業や肉体能力に優れた者だけが充分な栄養を得られる。残りの子どもたちは最低限のエネルギーしか与えられない。クラスの多くが痩せ細り、空腹を紛らわすように目を泳がせている。それが「国策」だ。首都の指導方針に従い、“必要数の精鋭”を育てる。それが自分の任務だ。
「今日の授業は世界史と現代情勢。がんばれば、続く体育と合わせて後で2,000キロカロリーのクレジットが配給されるわ。さらに体育の成績優秀者には追加で3,000キロカロリー。合計5,000キロカロリー……貴重よね」
彼女が微笑を浮かべてそう言うと、生徒たちのまなざしは一瞬で熱を帯びる。
飢えのまなざし。
みな必死なのだ。アリシアはその様子を冷静に見定める。政府の望む「奮起」を彼らの眼に見出そうと思いつつ、心のどこかでわずかな罪悪感が湧いてしまう。
「では、始めましょう。まずは“農業絶好調時代”のおさらいから。かつて大陸ですべての食料が潤沢にまかなえたと言われる時代があったわ」
彼女は手元のタブレットを操作し、斜め後方のプロジェクターを起動させる。
黄金色の麦畑を一面に映し出したホログラムが、貧しい教室には不釣り合いなほど美しく揺れた。生徒たちは一様に見とれる。いまや麦の穂を直接目にする機会などまずないのだから。
「大地に種をまき、水を注げば野菜も果物も育ち、家畜を飼えば肉が得られた。けれど、その穏やかな夢は“遺伝子病”による大被害で崩壊したわ。作物も家畜も、あっという間にバタバタ倒れ、飢えに苦しむ人々が続出。中には……人道に反することに手を染める集団すら出始めた」
そう言った瞬間、教室の一部から息を飲む気配がする。歴史の授業で聞き飽きたはずの話だが、食べ物に飢えた子どもたちには生々しさがつきまとうのだ。紙芝居を聞くような呑気な雰囲気は、もはや失われて久しい。
「そこで救世主のごとく登場したのが“フードプリンタ”よ。要するに、空気や海水から取り出した材料をAIがひたすらブレンド&合成して、いかにも“食品らしいモノ”をつくり出す魔法のマシンね。最初は大勢が『こんな怪しい合成物を食べられるか』と拒んだけど、飢えには叶わないってわけ」
アリシアは教卓の横に置かれた最新型プリンタをコンコンと軽く叩いてみせた。ほの甘い匂いがぷんと漂い、生徒たちの喉が一斉にごくりと鳴る。
「でも、これも万能じゃない。触媒を作るにはレアメタルが必要でコストがかかるし、構造上、供給できる量に限界がある。だから配給には当然制限ができる。それを逆手に取ったのが――そう、海洋都市連合」
タブレットを軽くフリックすると、今度は青い海に浮かぶ巨大な人工都市の全景を映し出す。きらびやかで閉鎖的なドーム群は、大陸のスラムとは対極の景観だ。
「大陸が飢餓で弱りきったとき、“海”を利用してレアメタルやら珍しい元素を独占した企業があったわ。
いまの海洋都市連合の母体ね。彼らはあっという間に軍備を買収して、自分たちの金儲けに都合のいいように世界を動かしてきた。
ま、一種の資源独占。連合の拠点が海の上だからといって、甘く見ちゃダメ。むしろ向こうは笑って静観してる。大陸が飢えて苦しめば苦しむほど、彼らは儲かるからね」
アリシアの声に一段と鋭さがこもる。海洋都市連合を憎むように仕向けるのがこの授業の目的の一つだ。
「さらに言うと、あの連合は月面開拓にも手を伸ばしていたわ。
第1世代AIでフードプリンタを作っただけで飽き足らず、第3世代AIの開発に成功すると海底資源をさらいつくして宇宙にまで乗り込もうとした。
それが大失敗に終わり、なけなしの第3世代AIとつぎ込んだ資源を全て失うと、今度は……技術で大陸に先行している今の内にってことで、大陸を支配してしまおうと侵攻を始めた」
教室の片隅で誰かが息を呑む音が聞こえる。やはりAIの話題は子どもたちにも強い印象を与えるようだ。
そこで、アリシアの視界の端でひとりの生徒――細身の美しい少女、ユーリが手を挙げた。
「……あの、先生。海洋都市には、いくらって……ありますか? そして、いくら丼は至高の食べ物だって本当ですか?」
一瞬、教室内に変な空気が流れた。いままでカロリー配分だの、AIだの、歴史の大事件だの、深刻な話題が続いていたのに、まさか“いくら”という単語が出てくるとは。どうして食べ物すら満足に食べられないという話題の中で、贅沢品の話が出てくるのか。軍部仕込みの威圧力で場を掌握してきたつもりが、予想外の質問に毒気を抜かれてしまい、危うく笑ってしまいそうになる。
「い、いくら、ですって……ああ、鮭の卵のことね」
変に喉が鳴りそうになるのをこらえて、アリシアは努めて冷静を装う。子どもたちの視線が集中する中、彼女はひと呼吸置いてから静かに告げた。
「……もう何十年も前に絶滅しているわ。養殖も試みたけれど失敗に終わった。海洋都市連合にだって、そんな贅沢品はないのよ」
ユーリは「そっかあ」と小声でつぶやくと、すぐにうつむいてしまった。他の子どもたちも、色とりどりだった昔の食べ物の想像が弾け飛んだのか、かすかな落胆の息を漏らしている。
アリシアの胸には、痛みが走った。この少女の器量だ。人手なしの金持ち連中にでも唾を付けられてしまっているのかもしれない。贅沢品をちらつかせて誘惑でもされているのだろうか。そうでもなければ、突然いくらの話題など出るまい。だが誘いに乗れば、おそらく人間らしいまともな扱いは受けられず、運が悪ければ奴隷以下の扱いになってしまう可能性もある。
「ま、まあ……質問は以上かしら。とにかく、連合に助けを求めたところで、わたしたちの生活が豊かになる保証なんてないわ。
いいえ、それどころか奴らは自分たちの利害しか考えない。いずれ本格的に大陸を侵略してきてもおかしくない。
今はまだ沿岸で小競り合いをしているくらいで済んでいるけれど、油断していれば、あっという間に“奴隷”扱いという可能性だってあるの」
アリシアは気を取り直し、黒板に大きな文字を書く。海洋都市連合への警戒――それが今日の授業の肝だ。
最前列付近の生徒が身を乗り出して、「そんなふうにされるなら、やはり戦うしかないんですか」と尋ねる。将来を嘱望される優秀な子どものはずだ。アリシアは微かにうなずいた。
「国家の政策として、必要ならば海洋都市連合と本格的に戦う道を選ぶでしょう。けれど、そのために必要な兵士や技術者を今から育てるのがこの授業の意味でもある。実力のない者に投資する余裕は、大陸にはもうないの。わかるわね?」
静まり返る教室。アリシアは立ち上がり、制服の襟元を正した。講義の締めくくりを告げようとするその瞬間、彼女は全員の顔をひとりひとり見つめる。飢え、疲れ、いくらか夢も失っている子どもたち。それでも、その中で高得点を叩き出した子だけは栄養と将来を手に入れられる。いわば“勝者”になれる。一方で、落ちこぼれた子はそのまま枯れていく。
「というわけで座学はここまで。次は体育館に移動して体力テストを行うわ。ここで一定以上の成績を取れば、今日は追加で3,000キロカロリー。
年間を通して顕著に優秀な子には、首都の軍事教練課への推薦も視野に入ります。頑張りなさい」
アリシアの声に、飢えた目が再びきらめきを取り戻す。力強い者だけが前へ進み、高カロリーを勝ち取る。この非情な競争こそが国家の生き延びる術――軍部の常識だ。 アリシアは内心で自分に言い聞かせる。そう、いまの大陸には選択の余地などない。子どもたちを無理やりでも“精鋭”に仕立て上げるしか、海洋都市連合に対抗する手段はないのだ。少年少女たちに押し寄せてくる空腹と焦燥感。だがアリシアは笑みを保ったまま、ヒールの音を響かせて教壇の階段を下りる。
「さて、全員、整列。次は体を動かす時間よ。今日のうちに少しでもカロリーを稼ぎたい子は、覚悟してついてきなさい。……行くわよ!」
拍子を取るように手を一度叩くと、ぱたぱたと足音が廊下に続く。空腹に苛立ちながらも必死の面持ちでついてくる生徒たち。彼女は踵を鳴らしながら廊下を進む。細い背中が何人も、追いすがるようにぞろぞろついてくる。その光景を目の当たりにしても、彼女の表情にも心にもわずかの同情も揺らぎもなかった。