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第2話 猟犬

残酷な描写が含まれます

 無窓の部屋。壁の塗料は剥がれ、鉄錆と生臭さが混じった匂いが漂っている。裸電球が揺れると、床に固定された2つの鉄椅子が影を作り出す。椅子に縛りつけられた男女の片方は、もう動かない。もう片方は、生気を失った虚な瞳で床に落ちた歯と爪を見つめている。乾いた血の道。ズボンの裾から滴る黄色い液体が、床の錆と混ざる。


「猟犬」と呼ばれる男は、鼻歌を唄いながら机の上の器具を並べ直していた。彼の瞳は常に揺れ動き、部屋の空気を舐めるように頭を傾けては首を振る。まるで見えない何かを追いかけているかのように。


 大絶滅の前、優れた嗅覚で警察の追跡任務や狩猟に活躍した生物がいたという。

 その名前を二つ名として与えられたこの男は、反政府主義者の摘発により政府の統治に多大な貢献をしてきた。彼が持つのは類稀な直感力だった。それは匂いのように、空気のように、目に見えない真実を捉える。

 相手の嘘、恐怖、動揺、殺意。

 そして、彼にはもう一つ重要な才能があった。暴力への忌避感のなさ、残虐性は、市民に恐怖を植え付け、政府に従順にさせるための優秀な暴力装置だった。


「なあ、そういえば、この話知ってる? 月面開拓船のAIコアの容器がさあ、なんと空っぽだったんだとさ。そんでもって4年間も音沙汰も消息もなし。”大粛清”の時ついでに念入りに調べたんだけど……犯罪組織も金持ち連中も、クソッタレの月の女神を崇める教祖様も、反政府主義者も、腐敗した政府の役人も、だーれも知らねえの。完全に手がかりなし!」


 猟犬は話しながら、ゆっくりと椅子の周りを歩き回った。その動きは優雅で、まるで獲物の匂いを嗅ぎ分けようとする野生動物のようだ。時折、急に立ち止まっては首を傾け、何かを感じ取ろうとする仕草を見せる。


「ふーん。やっぱ知らねえか。ま、いつもダメ元で聞いてるんだよね」


 男は指で机を叩いた。規則的な音が静寂を切り裂く。

「闇市で密売してたってのは建前、隠れ蓑だろ?」


 まだ息のある女の方は、何も反応しない。


「なんでおたくらそんなに強情なの? 金持ちの御用聞きにしちゃ、態度がでかいなぁ。小悪党の胆力じゃねえなあ」


 血に染まった工具を一つ手に取り、明かりに翳しては眺めている。その瞳は常に揺れ動き、まるで見えない糸を追うように虚空を見つめては首を振る。


「反政府主義者の匂いがプンプンするぜ。でもそれだけじゃねえ。もっと濃い、もっと深い……何かがある」


「おっと、そうそう」男は意図的にゆっくりと話を続けた。「お前らには娘がいたな。確か……第三区立学校の生徒だったか」


 女が小さく息を呑む。猟犬の鼻孔が開く。恐怖と決意が混ざり合う独特の空気。まるで刃物のような鋭さを持つその決意に、男は興奮を覚えた。

「し……らない」

 声は落ち着いているように聞こえたが、男の感覚は嘘を感じ取った。空気中に漂う恐怖の匂い。

「本当に何も?」猟犬は女に身を寄せて囁く。「娘さんに聞いてみるか? ここで、ママの目の前で」


 女が繰り返し繰り返し、小声で何かを囁いている。

 猟犬はさらに耳を近づけた。

「ミカ……にげて……じか……んをすこしだけ……あげるね」

 女の咽喉から嗚咽と同時に漏れ出した何かが、男の感覚を刺激する。苦い、死の予感。男は瞬時に飛び退った。女の口角から黒い泡が、続いて眼球から黒い血が溢れ出す。奥歯に仕込んだ毒嚢だ。


「あぶねえ、もう少しで吸い込むところだったぜ」


 暗がりから3人の部下が現れた。最初の一人は巨漢だ。不釣り合いなほど巨大な右腕は全体が機械化されている。

「ハハッ。毒で自決だってよ? 海洋都市連合のエージェントじゃあるまいし、忍者かよ」


 第二の人物は、全身を黒いボディスーツに包んだネットランナーの女だ。銀色のバイザーの下から覗く目は完全な改造品だ。

「強い信念を感じるわね。娘の命よりも大事なものがある。ただの犯罪者や反政府主義者じゃないようね」


 最後の一人は、見た目は10代前半ほどの可愛らしい少年。しかし、その無邪気な笑顔の奥には狂気が潜んでいる。

「ねえ、ひょっとして金持ちのパトロンと犯罪組織と反政府主義者がみんなで結託して政府に楯突こうとしてるとか。あは、そんなわけないか」


 猟犬は思案する。こいつは大規模でやべえ陰謀の匂いがする。しかも、もう手遅れの可能性もある……なら、政府の犬はやめて新しい主人を探す時が来たか? いっそこいつらの組織に乗り換えるか、情報を餌に海洋都市連合に鞍替えするのも手か。いや──

「ふはははは、全部ぶっ潰してやる。2度目の大粛清の始まりだ」今度は一体どれだけ切り刻める?


「まずは娘を捕まえる。第三区立学校の——」


「ミカ・ランデル」ネットランナーが遮る。瞳孔が拡大縮小を繰り返しながら情報を読み取っている。

「14歳。親友はユーリ・ヴォスホートという孤児。ロシア系かしら……名前の由来は……”農民の宇宙船”? 随分適当な名前。偽名ぽいというか、何かを違和感を感じるわ」


「ふむ。じゃあ一応そっちの子供も確保しろ」


 巨漢が舌打ちする。「またガキかよ。あいつら体力なさすぎて1ブロックも走れねえし。ちっとも追い詰める楽しみがねえ。それにこないだ議員の子供を大量に処理しちまってからギャーギャーうるせえ連中がいるしな」


 少年が死体を蹴りながら、甘ったるい声で言う。

「そう? ボク、子供の悲鳴、聞きたいけどな。ねえ、これ鉢植えにしてもいい? ミカちゃんに見せてあげるんだ。お父さんとお母さんの鉢植え。ミカちゃんも一緒に植えてあげなきゃ。ねえ知ってる? 昔は観葉植物っていうのがいて……」


 猟犬を巻き添えにすることが叶わなかった毒の黒い泡、届かなかった母親の最後の願いが、ゆっくりと取調室の排水溝に流れて消えていった。死の匂いが部屋に満ちる中、猟犬の鼻は既に新しい獲物の痕跡を追っていた。若い女の、まだ見ぬ恐怖の香りを。

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