18 失われた遺言
沈みゆく夕陽が、水城の荒々しい大地に長い影を落としていた。容赦なく吹き付ける風は崖っぷちを襲い、潮の香りとカモメの悲しげな鳴き声を運んできた。
彼らはずっと崖の捜索をしていたが、成果はなかった。秘密の道も、隠された通路も、クライミング用品の痕跡も見つからない。海斗がどのようにして恵子の家に辿り着いたのかという謎は解明されなかった。
「太郎」
愛莉は優しいながらも毅然とした声で言った。
「私たちは、海斗がどうやってあの夜恵子の家に辿り着いたのかを解明しようとしています。秘密の道、浜辺に下りる道、彼が痕跡を残さずに崖を登った理由を説明してくれるようなもの、そういったものはないでしょうか?」
太郎は肩を落として首を横に振った。
「そんな秘密の道なんて知りません、警部さん。私は何年も屋敷に住んでいますが、一度も見たことがありません」
「奥様は、秘密の道や、隠されたトンネル、浜辺に下りる道について何か話されていましたか? もしかしたら、秘密裏にあなたに話していたのかもしれませんが…」
愛莉は、わずかな手がかりでも掴めないかと期待を込めて尋ねた。
太郎の視線は窓の外、荒れた海へと向かった。嵐に翻弄される海は、彼の内面の混乱を映し出すかのように暗く荒れ狂っていた。
「母は非常に口が堅い人でした、警部さん。屋敷についてもほとんど話せませんでした。秘密の道の話なんて、一度も聞いたことがありません」
太郎との会話を終えた後、愛莉と優斗は別々に動くことを決めた。優斗はクライマーに協力を求めることになった。一方愛莉と太郎は、ドノバンと直接対峙することにした。
塩気混じりの風が愛莉と太郎を包み込み、ドノバンのそびえ立つガラスと鋼鉄の塔の前に立っていた。太陽は雲のベールに隠れて青白い円盤となり、駐車場に長い影を落としている。その陰鬱な景色とは対照的に、建物は明るく自信に満ちた外観を誇示していた。
「大丈夫か、愛莉?」
太郎の声は少し不安げだった。
「ドノバンは危険な男だ。簡単に引き下がるような奴じゃない」
「試してみるしかないわ、太郎」
愛莉は毅然とした声で、揺るぎない目を向けた。
「彼は全てを操っている。何とか彼の本性を暴かなければ」
「彼は土地の代金を払うと約束したはずだ、太郎」
愛莉は低い声で言った。
「それを利用しよう。お金を要求して、プレッシャーをかけるんだ」
太郎は厳しい決意を込めた顔で頷いた。彼は自分が何を背負っているのかわかっていた。母親の遺産、山田家の歴史、全てが天秤にかかっている。ドノバンに勝たせるわけにはいかない。
ドノバンは巨大なマホガニーのデスクの後ろに腰掛け、荒涼とした外の景色とは対照的な、鋭く獲物を狙うような笑みを浮かべて、二人が近づくのを見ていた。
「中村警部、山田 太郎」
ドノバンは滑らかでバリトン調の声で挨拶した。その声には軽い娯楽が含まれていた。
「なんて意外な光栄だ。今日は何の御用でしょうか?」
愛莉は彼の捜査をそらすような試みを無視した。
「ドノバン氏、山田家の土地の代金の件で来ました」
彼女は声色を強め、ドノバンをまっすぐ見据えた。
「あなたは太郎に500万ドルを支払うと約束しました。そのお金はどこにあるのですか?」
ドノバンの笑みは消えなかったが、顔つきにわずかな苛立ちが浮かんだ。
「私は約束を守る男ですよ、中村警部」
彼の声は滑らかで油断ならない。
「約束を守るつもりですが、少しばかり厄介な問題があるのです。山田 太郎はまだ正式に母親の遺産を相続していない。恵子の遺言によると、屋敷は町の孤児院に寄付されることになっていました」
太郎の顎が固くなり、怒りが表面下で煮えたぎっていた。
「母は決して孤児院に屋敷を寄付するなんて言ってなかった」
太郎は信じられないという声で言った。
「いつも遺言を通して自分に残すと話していた」
「腹を立てるのも無理はありませんね」
ドノバンの声は不気味なほど穏やかだった。
「しかし、恵子の意向は明らかです。孤児院は資金を必要としています。善意ある事業です。高潔な行為です。彼女の気持ちを尊重すべきでしょう」
「あなたは正直な人間じゃないことは知っています、ドノバン。危険な駆け引きをしているのです。いい加減芝居は止めませんか?」
愛莉は懐疑的な声で迫った。
「芝居などしていませんよ、中村警部」
ドノバンの声は滑らかで沈着した様子だった。
「ただ、少しばかり支払いに関して問題が生じただけです。恐らくですが、太郎はまだ正式に山田 恵子の遺産相続人となっていないようです。法的手続きが完了しておらず、土地の権利もまだ取得していない。そうなって初めて、私はお金を引き渡せるのです。それまでは、問題があり、公平とはいえません」
「どういう意味だ?」
太郎は怒りと不信が入り混じった声で言った。彼は愛莉の後ろで拳を握りしめ、怒りで顔を真っ赤にしていた。
「俺は恵子の息子だ。正当な相続人だぞ」
「確かにそうですが、遺言はまだ確定していないのです」
ドノバンの声は穏やかだったように聞こえたが、その目は悪意を秘め、もっと奥深い駆け引きを匂わせていた。
「法的手続きがまだ進められていない。あなたはまだ土地の権利を取得していないのです」
「言っただろ、恵子の家の捜索でも遺言は見つからなかった。もしかしたら彼女は作ってなかったのかもしれない」
太郎は苛立ちと怒りで声が張り詰めていた。彼は不確実性の罠、疑念の迷宮に囚われており、ドノバンがそれを利用していることを薄々感じていた。
「書かなかったかもしれないし、書いたのかもしれませんね」
ドノバンは太郎を見つめ、不気味なほど冷たい笑みを浮かべた。
「ですから、確信が得られるまで、正当な相続人が誰かわかるまで、お金は振り込むことができません」
巧みな操り手であるドノバンは、遺言がないことと太郎の相続権の不確実さを利用し、危険な駆け引きをしていた。彼は時間を稼ぎ、状況を悪化させ、土地の支配権を確固たるものにしようとしていた。
「あなたこそゲームをしているんでしょう、ドノバン」
愛莉は鋭く権威のある声で言った。
「あなたは太郎が恵子の息子だと知っています。最初から知っていたはずです。なぜ彼を操ろうとするのですか? 利用しようとするのですか?」
「中村警部、私はビジネスマンです」
ドノバンの声は滑らかで落ち着いていたが、目は冷酷で計算しげな光を放っていた。
「魔法使いではありませんので、法的正当性もなくお金をただ渡すことはできないのです」
「その遺言の話はどういうことですか、ドノバン?」
愛莉は低い声で唸り、目を細めた。
「前回の会話では遺言のことは一切話していませんでしたよね。契約書があり、恵子がサインしていて、50万ドルはすでに支払われ、残りの支払いはプロジェクト完了後であると主張していたはずです。今更なぜ遺言を持ち出してきたのですか?」
「ええ、おっしゃる通りです、中村警部」
ドノバンは滑らかで落ち着きのあるバリトンで答えた。
「常に、いくつかの詳細や予期せぬ事態が付き物なのです。きっとお分かりでしょう。遺言は今現在、利用できない状況になっています。どうやら恵子さんの死の混乱の中で紛失してしまったようです。誠に悲劇的です、本当に。しかし朗報もあります。孤児院の弁護士が遺言の写しを持っていて、私たちは現在その真偽を確認しているところです」
「写しだと? 原本を見る必要があります」
愛莉は鋼のような声で言った。
「ドノバン、私たちは馬鹿ではありません。あなたのやっていることはわかっています。あなたは状況を操作しようとしています。偽の遺言を使って、土地を支配しようとしているのです」
「お約束します、中村警部」
ドノバンの声は滑らかで、そこにわずかな脅威が忍び寄っていた。
「隠すことは何もありません。ただ、恵子さんの意思を尊重しようとしているだけです」
怒りに震える太郎は、拳をテーブルに叩きつけた。
「嘘つきだ、ドノバン! 母さんは決して土地を孤児院に寄付しなかっただろう! 息子である俺に残したはずだ! これは詐欺だ!」
ドノバンは椅子に寄りかかり、笑みを消した。
「法律が判断してくれるでしょう、太郎。辛抱強く待つしかありません」
「辛抱?」
太郎は顔を真っ赤にして叫んだ。「あなたは全てを盗もうとしている! 真実を明らかにする必要がある! 恵子の遺言を見つけなければならない! 盗賊だ! 詐欺師だ! 母さんを殺したのはお前だ!」
「落ち着きなさい、太郎」
ドノバンは穏やかな声で言った。
「あなたの怒りはわかりますが、あなたの訴えは根拠のないものです。隠すことは何もありません。ただ、恵子さんの意思が尊重されるようにしているだけです」
愛莉はドノバンと視線を合わせ、背筋が寒くなるのを感じた。彼は危険な駆け引きをしていて、しかも上手だった。紛失した遺言、偽造された契約書、行方不明の資金 – それは欺瞞の罠、巧妙に構築された幻影だった。
「ドノバン、遺言の真偽が確認されるまで山田家領地での開発を中止しなさい」
愛莉は毅然とした声で言った。
「そして太郎に金を解放しなさい。それは彼の遺産であり、彼の権利です」
「あなたはそんな要求をする法的根拠を持っていません」
ドノバンの声は冷たく、計算された唸り声だった。
「これは裁判所の問題です。法が正当な相続人を決めるでしょう」
「私たちはあなたを見張っています、ドノバン」
愛莉はかすかな声で言った。
「そして必ず戻ってきます。真実は必ず明らかになるのです」