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#3





 崙土は殆ど眠れずにリビングのソファに座った。

 前回もそうだったが自分の小心さに情けなくなった。

 それに加え、宇治宮の書いた週刊誌の記事。

 それが腹立たしくで仕方なかった。


 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して飲む。

 口から溢れて喉を伝い、ダラダラとシャツを濡らすが、構わずに一気に飲み干した。

 そして荒い息を整えると、書斎に戻り椅子に座る。

 机の上に置いた最新の原稿を開いた。

 そしてその原稿を捲って行く。

 ふとあるページで手を止め、ページを戻しては進みを繰り返した。

 気が付くとその原稿の端を握りしめ、手を震わせている。

 崙土の目からは止めどなく涙が溢れ出していた。


「莉彩……」


 崙土はそう呟くと上を向いて涙がこぼれない様に鼻をすすった。







「魚住君、いないの……」


 和美はオフィスを見渡すが朝から魚住の姿を一度も見ていない。


 もう、椎名先生の原稿持ったままよね……。


 魚住の携帯電話を鳴らした。

 しかし何度コールしても電話は繋がらなかった。


「仕方ないわね……」


 編集長の高木が和美を呼んでいた。


「はい、ちょっと待って下さい」


 和美はそう答えて魚住にSNSのメッセージを送った。


「はい。なんでしょうか……」


「椎名先生の新刊の状況だよ。どうなっている」


 高木はパソコンのモニターを見つめたまま訊いた。


「今、集計してもらっているところです」


 和美はそう言って席に帰ろうとした。


「おい、野々瀬」


 高木に呼ばれて和美はまた戻ってくる。


「なんですか」


「椎名先生の本名は非公開なのか……」


「ええ、本人の達ての希望です」


「わかった……」


 高木は顔を上げて頷いた。


「おい、門脇」


 高木は大声で叫ぶように呼んだ。






 宇治宮はコンビニに並ぶ、自分の書いた記事が載る週刊誌を見つめていた。

 宇治宮自身も椎名崙土の新刊が発売される日にその記事をぶつけて、崙土の本の売れ行きをどうこうしようと言うのが目的ではなかった。

 逆に崙土の人気にあやかり、週刊ファーストスクープの発行部数を増やす事が目的だった。

 コンビニで買い物をする客がどんどんその雑誌をレジに持って行くのが面白くて仕方なかった。


 携帯電話がポケットの中でけたたましい音を上げた。

 宇治宮はコンビニの外に出て携帯電話を取った。


「魚住さん……。どうされましたか……」


 宇治宮はタバコを咥えてそう言った。


「宇治宮さん……。少し聞きたい事があるんだ……」


 魚住は暗い自分の部屋の壁に寄りかかり、ガリガリとピスタチオを殻ごと噛みながら電話している。


 宇治宮も少し様子がおかしく思い、電話を持ち直した。


「なんだよ……」


「美倉和瑠津というペンネーム。聞いた事ありませんか……」


「ミクラワルツ……。どんな字を書く……」


 宇治宮はポケットからメモとペンを出した。

 そして魚住が説明する文字を書き込んだ。


「高校生くらいの少女なんだ……」


「美倉和瑠津ね……。知らないな……」


 魚住はピスタチオを殻ごと噛み続ける。


「その少女が多分、椎名崙土のゴーストライターです……」


 宇治宮の動きが止まった。


「本当か……」


「うちにも昔、原稿を持ち込んだ事がある子なんです」


 宇治宮はタバコを足元に捨てて踏みつけた。


「わかった。こっちも調べてみる」


 宇治宮は電話を切った。

 そして人混みの中を逆らう様に歩き出した。






 崙土は書斎を出て、リビングのテーブルの上に置いたタバコを咥えた。

 晴れでもなく、曇りでもない様な空の光が、リビングの大きな窓から差し込んでいた。

 その光にタバコの煙が線を描く。


「腹減ったな……」


 崙土は咥えタバコのままキッチンへ向かうと、片手鍋に水を入れてコンロに掛けた。

 今日は莉彩の顔を見ていない事に気付き、部屋の方を見た。


 莉彩……。


 ふと我に返り、キッチンの棚から買い置きしてあるインスタントラーメンの袋を出した。

 リビングのテーブルの上の灰皿でタバコを消すと、沸騰したお湯に鰹出汁を入れた。

 いつもの様にラーメンを作ると、その鍋を持ってダイニングテーブルに座った。


 どんな時でも腹は減るか……。


 崙土はそう考えるとおかしくなり、歯を見せて笑った。

 そしてラーメンを食べ始めた。


 食べ終えるとその鍋をシンクに置いて、書斎に入った。

 そして机の上のキーボードを叩き始めた。


 気が付くと窓の外は暗く、崙土は部屋の明かりをつけ、椅子に深く座った。


 リビングに置いたタバコを取り、その横に携帯電話を置いたままにしていたことに気付く。

 和美からの着信が数えきれない程に入っている。

 崙土はそれを見て苦笑すると和美に電話をかけた。


「先生」


 和美はすぐに電話に出た。


「すまんすまん。携帯をリビングに置いたままにしてた。携帯から煙出る程鳴らしやがって、どうしたって言うんだよ」


「先生……」


 和美は涙ぐんでいる様だった。


「初日、夕方の時点で十四万部売れました……一週間で初版二十万部は確実です」


 崙土は胸を撫で下ろす。

 しかしそれが和美にばれないように息を吐く。


「誰が書いたと思ってるんだよ。売れるに決まってるだろ……。さっさと増刷の手配しろ」


 崙土は笑いながら電話の向こうの和美に言った。


「もう、とっくにしましたよ」


 和美は泣きながら言う。


「ああ、そうか。だったら早く帰ってクソして寝ろ」


 崙土は電話を切った。

 そして俯くと目を閉じて微笑んだ。


 崙土は書斎に戻ると、クシャクシャになった机の上の原稿を持って莉彩の部屋の前に来た。

 そして部屋のドアをノックしようとすると、自分の後ろに莉彩が立っている事に気付く。


「何だ、そこに居たのか……」


「どうしたの……怖い顔して……」


 莉彩はいつもの笑顔で言う。


「ああ、今日だけで十四万部売れたそうだ」


「そう。良かったね」


 莉彩はそう言ってキッチンの方へと歩き出す。

 その後を崙土は着いて行った。

 そして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り、リビングのソファに座った。

 崙土はその莉彩の向かいに座る。


「これでちゃんとベストセラー作家の仲間入りだね」


 莉彩はミネラルウォーターのボトルをテーブルに置いて言った。


 崙土は何度か頷いて微笑んだ。






 魚住はフラフラとオフィスにやって来た。

 そして和美の横に立った。


「野々瀬さん……これ、ありがとうございました」


 そう言うと椎名崙土の原稿を渡した。

 和美は魚住をちらと見てパソコンのキーボードを叩く。


「魚住君……。朝まで仕事してたのかもしれないけど、昼間出てこない、連絡も取れないってのはまずいんじゃないかな……」


 そう言いながら魚住の顔を見る。


「すみません……」


 そう言うとオフィスを見渡した。


「どうでしたか、椎名先生の新刊」


「うん。今日だけで十四万部。五万部増刷したわ……」


 魚住は自分の椅子に座り力なく微笑んだ。


「それはすごいですね……。流石は椎名先生。いや……美倉和瑠津先生ですかね……」


 和美は振り返り、魚住を見た。


「美倉和瑠津……」


 魚住はニヤニヤと笑いながら、身を乗り出した。


「野々瀬さん、知らないんですか。美倉和瑠津は椎名崙土のゴーストライターですよ」


 そう言うと声を上げて大声で笑い始めた。

 周囲にいた者すべてが魚住を見ていた。






 崙土はクシャクシャになった原稿をテーブルの上に置いた。


「気に入らなかった……」


 莉彩は首を傾げて言う。

 崙土は首を横にゆっくりと振った。


「いや……すごく良かったよ……。面白かった」


「そう……。良かったわ……」


 崙土は頷くと、


「やっぱりお前はお父さんに似たんだな……。文才がある」


「あら、お母さんにも似てるのよ。ピアノだって上手いし……」


 莉彩は笑った。


「二人の良い所を取ったのね」


「そうだな……」


 崙土がそう言うと、誇らしげに莉彩は頷いた。


「だけどな……。この原稿は別のモノに差し替えようと思うんだ……」


 崙土はテーブルの上の原稿をトントンと叩く。

 一瞬、莉彩の表情は曇ったが、すぐに笑顔になる。


「うん。お父さんがそうしたいなら、良いよ」


「うん……」


 崙土は莉彩の前にあったミネラルウォーターのペットボトルを取り飲んだ。


「そうしたい……。だから今、雨三部作の最後の作品を書いてる」


「そっか。書く気になったんだね」


 莉彩は嬉しそうに身を乗り出した。


「うん。ようやく書ける気がしてきたよ……」


「良かった……。これで私も肩の荷が下りるわ」


 崙土は苦笑した。


「今まですまなかったな……」


「ううん。私も楽しかったし」


 崙土は嬉しそうに微笑んだ。

 そして暮れた窓の外を見て深く息を吐いた。


「なあ、莉彩……」


 崙土は莉彩をじっと見つめる。

 そしてテーブルの上の原稿に手を添えた。


「ここに書いてある事が真相なのか……」


 崙土は微笑みながら莉彩を見つめた。






 宇治宮は電話に出ない魚住に苛立ち、編集部を飛び出すと必死に走り出した。

 魚住の出版社まではそう遠い距離ではなかったが、運動不足がたたり、思う様に足が動かなかった。


「違う……。ゴーストライターは美倉和瑠津じゃない」


 そう何度も呟きながら宇治宮は走った。

 そして交差点に差し掛かった時、走って来たトラックが宇治宮を宙に舞わせた。


「ちがうんだ……」


 宇治宮はその瞬間、体が軽くなり本当に空が飛べるようになった気がした。

 一瞬の出来事だったが、宇治宮は何時間も空を飛んでいた気分だった。


 鈍い音と共に宇治宮はアスファルトの上に落ちた。

 そして体を痙攣させると全身の力を冷たいアスファルトに吸い込まれて行った。







「美倉和瑠津が椎名崙土のゴーストライターなんだ……」


 魚住は虚ろな目で何度も繰り返していた。


 その魚住を、腕を組んでじっと和美と編集長の高木は見ていた。

 言動のおかしい魚住を和美と高木は使っていない会議室に連れて行った。


「こいつ、大丈夫なのか……」


 高木は心配そうに和美に訊いた。


「少し興奮しているだけだと思うんですけど……」


「救急車呼ぶか……」


 高木はそう言って会議室を出て行った。


「美倉和瑠津がゴーストライターだ……」


 魚住はブツブツとそれを繰り返す。


「違うわ……。その子はゴーストライターじゃないのよ……」


 和美は魚住の虚ろな目を見た。


「俺は知っているんだ……。椎名崙土のゴーストライターは美倉和瑠津だ……」


 魚住の口からは涎が流れ出した。


 和美は魚住の肩に手を添えた。

 そして魚住の耳元で囁く様に何かを言った。






 莉彩は何も答えなかった。


「ねえ、お父さん……」


 崙土はソファに寄りかかった。


「何だ……」


「海……」


「海」


 莉彩は頷く。


「うん。ほら、お母さんと一緒に行った、冬の海……白い波が押し寄せて来て……すごく寒かった、あの海……」


「ああ……」


 崙土は妻の最後の願いを聞いて、冬の日本海を見に行った事があった。

 日本海の海は荒れていて、大きな白波が何度も何度もその浜辺に押し寄せて来ていた。

 妻が、「私があの波くらい強かったら……」そう言っていたのを思い出した。


「海がどうした……」


 莉彩は首を横に振った。


「あの海、もう一回見たいなって思って……」


 崙土は頷き、


「今度また連れてってやるよ……」


 そう言った。


 崙土にはその莉彩の思い出とは別に、冬の海の記憶があった。

 それは悲しく、冬の海の様に冷たい記憶だった。


「行けるかな……」


「行けるさ……」


 そう言うと二人で笑った。


 崙土はゆっくりと体を起こした。


「なあ、莉彩……」


 莉彩の名前を呼ぶと、熱い涙が溢れてくるのを感じた。


「何……」


 莉彩は崙土を覗き込む様に見る。


「お前さ……」


 崙土は鼻の奥の涙を飲み込んだ。


「どうして生きててくれなかったんだよ……」


 そう言い終えると、崙土の瞳から一気に涙が溢れ出た。






 会議室に入って来た救急隊員は暴れる魚住を拘束しようと押さえつけた。

 しかし魚住は暴れて救急隊員たちを殴り付け、会議室の外に走り出た。


「魚住君」


 和美の声など既に聞こえていない。

 魚住はオフィスを出て長い廊下を走って行く。

 その後を救急隊員と和美が追った。


「違うんだ、俺じゃない、俺じゃない」


 魚住はそう言って足を滑らせながら走る。

 そして行き止まりの非常階段のドアを開けた。


「魚住君、ダメ」


 和美が叫ぶと、魚住は笑っていた。

 そしてそのまま非常階段に出た。

 それに続いて救急隊員もその非常階段の踊り場に出た。


 魚住は非常階段の踊り場から身を投げた。

 和美はその瞬間を見た。

 手を伸ばしたが、魚住に届く筈もなく、宙を泳ぐ様に魚住の体は落ちて行った。


 和美は目を閉じて顔を背けた。






 崙土は一人、ソファに座っていた。

 もう何時間座っていたのかもわからない程だった。

 手には温くなったミネラルウォーターのボトルを握っていた。


 ふと我に返ると、その水を飲み、テーブルの上に置いたクシャクシャの原稿に目をやった。


「莉彩……」


 崙土はそう呟くと、その原稿を手に書斎へと入る。

 そして椅子に座るとキーボードを叩き始める。


 ドアの鍵が開く音がした。


 崙土は立ち上がって玄関へ行くと、そこには和美が立っていた。


「ワミ……。どうしたんだ、こんな時間に……」


 和美は目を真っ赤にしてじっと立っていた。


「どうした……」


 崙土がそう訊くと、和美が胸に飛び込んできた。

 その和美を受け止めて崙土は優しく和美の細い体に腕を回した。


「先生……」


 和美の涙が崙土のシャツを湿らせる。


 和美はゆっくりと顔を上げて、崙土を見上げた。

 そして二人はお互いを慰め合うような長いキスをした。






 窓から差し込む強い日差しで目が覚めると、崙土の横には和美が眠っていた。

 その白い肌を朝日が刺す様に照らしている。


 崙土は和美をベッドに残して服を着た。

 そして書斎に入り、つけっぱなしのパソコンの前に座った。

 ふと、机の上にある原稿に気付き、それを手に書斎を出た。


 何年も入っていない莉彩の部屋の前に立ち、ドアを開けた。


 部屋は、莉彩が冬の海に身を投げたあの日のまま、残してあった。


 莉彩の机の上には、小説の原稿が置いてあり、


『十一月の雨 美倉和瑠津』


 表紙にはそう書いてあった。


 それに微笑むと、その原稿の上に莉彩が崙土のために書いた原稿を乗せた。


『ノウベンバー・レイン 椎名崙土』


 莉彩の部屋を出てドアを閉めた。


 そこには和美が微笑みながら立っていた。


 崙土は和美に微笑んで、


「ワミ、腹が減った。何か作ってくれ」


 そう言って肩を叩くと書斎に入った。







「先生、三作目が記録更新ですよ。初日に二十五万部超えました。増刷決定です。先生、何処ですか……」


 和美の声が部屋に響く。


 崙土は書斎の椅子に座ったまま、眠っているようだった。








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