#2
崙土は新作発表会の後、関係者と食事をして自宅に戻る。
和美は荷物をリビングに置くと冷蔵庫からアイスコーヒーを出して、ソファに座る崙土の前に置いた。
「今日はお疲れ様でした」
「ああ、疲れたよ……。出来ればもう二度とやりたくないな……」
崙土はポケットからタバコを出してテーブルの上に放りだし、上着を脱いだ。
テーブルの上に一枚の名刺がタバコと一緒に投げ出されていた。
和美はその名刺に気付き、手に取った。
「これは……」
崙土は名刺を覗き込む様に見た。
「ああ、ゴーストライター説を唱えたダーウィン様だよ……」
コーヒーを飲むと欠伸をした。
「宇治宮要一……。週刊ファーストスクープ……ですか……」
崙土は無言で頷く。
和美がその名刺を心配そうに見ていると携帯電話が音を立てた。
上着のポケットから携帯電話を出すとSNSの着信があった。
「すぐ社に戻れ」
それだけが表示されている。
「先生……。私、今日はこれで失礼します」
そう言ってソファの上に置いた自分のバッグを取った。
「明日、また昼前には来ますので……。今日は飲みに出ないで下さいね」
和美は慌てて出て行った。
玄関の鍵が閉まる音を聞いて、崙土は立ち上がった。
窓の外の風景を見ると、テーブルの上からタバコを取り出して火をつけた。
部屋の隅に置いた空気清浄器が音を立てて動き始める。
「お父さん、おかえり……」
後ろから莉彩の声がした。
崙土はゆっくりと振り返り微笑んだ。
「ただいま……」
莉彩は崙土に近付いて、
「大変だったみたいね……」
「ん……」
「ワミさんとの話、聞こえちゃった」
「そうか……」
崙土はテーブルの上の灰皿で、まだ長いタバコを折る様に消した。
「大丈夫よ……」
莉彩はニッコリと笑って頷く。
「絶対にばれる事無いし……」
そう言ってソファに座った。
「すまんな……」
崙土は莉彩の向かいに座り目を伏せた。
「あ、そんな事より、三作目……完成したわ」
莉彩はスカートのポケットからUSBメモリを出してテーブルの上に置いた。
崙土はそのUSBメモリを見て息を吐く。
「ありがとう……」
莉彩はゆっくりと首を横に振った。
そして立ち上がると背中を伸ばす。
「さあ、次はどんな話にしようかな……」
そう言いながら部屋に戻って行った。
崙土はテーブルの上に残されたUSBメモリを手に取り、じっと見つめていた。
「デビューして十年も売れなかった作家が突然売れたんだ。そんな話も出て来るよ」
編集長の高木は和美を見て苦笑した。
今日の発表会でのゴーストライター騒動の報告をしろと和美は呼び出されたのだった。
「まあ、アイドルのスキャンダルでもない。小説家なんて、そんな闇の一つや二つ持っている方が話題になる。ただ、その宇治宮とかいう男……、気を付けろよ……」
高木は鞄を取った。
「野々瀬、お前はしばらく、椎名崙土に張り付け。出社なんてしなくていい」
高木はオフィスを出て行った。
その背中を見ながら和美は頭を下げた。
「野々瀬さんも大変ですね……」
同僚の魚住という男が声を掛ける。
和美は振り返り、書類が山積みになった自分の机に座った。
「でも、本当のところどうなんですか……。椎名先生のゴーストライターって……」
魚住は椅子を転がして和美の傍にやって来た。
「馬鹿ね……。そんなのいる訳ないじゃない……」
魚住は自分の椅子の背もたれに顎を乗せた。
「そうですよね……。アイドルの作家じゃあるまいし……。俺は結構好きなんですよね。椎名崙土。デビュー当時からずっと読んでますよ」
そう言うと自分の机の上に置いてあったタブレットを取る。
そしてページを捲ると椎名崙土の小説が現れた。
今では紙媒体に迫る勢いでデジタル版の小説を買う人が多い。
出版業界は印刷のコストを削減出来るメリットはあるが、印刷業界はそれに苦しめられている。
和美が抱えている印刷会社のいくつかはデジタル媒体に対応するべく、デジタル編集の業務も始めていた。
魚住のタブレットを受け取り、和美はページを捲った。
以前の尖ったイメージの文章と比べると確かに柔らかい表現が増えた。
それは和美も感じていたが、崙土が一切書かなかった二年数か月で、変化したモノだと思っていた。
しかし作品上に色濃く出る癖のある言い回しは、変わる事無く新しい小説にも出て来る。
「ありがとう……」
和美はタブレットを魚住に返し、自分の机の上に溜まった書類に目を通した。
「今日は美味いモン食えましたか」
魚住は和美の横から顔を出す。
「今日は神戸牛のステーキだったわ。それにロマネ・コンティの九十九年を飲んだわ。なんか一本、百万くらいするらしいわね……」
和美は書類を机の上でトントンと揃えて立ち上がる。
「え、ロマネ……。良いなぁ……飲みてぇ……」
魚住は自分の座る椅子を子供の様に前後に揺らした。
「残念ながら椎名先生も私も、ワインは得意じゃないのよね……。なんか嫌じゃない、ワインのうんちく語る金持ちぶった人って……」
「でも、百万っすよ……」
そんな魚住の顔を和美は覗き込む。
「ワインのボトルに詰まっているのは、お金じゃないわ……。大事なのは味と、飲んだ人が感じる満足感……。本も同じだわ……」
和美はバッグを取るとエレベーターへと歩き出した。
「魚住君。早く帰りなさいよ……。体壊してまで仕事なんてするもんじゃないわよ……」
和美はオフィスを出て行った。
崙土はポンプ式のペリカンにインクを吸わせる。
そして机の横まで引っ張って来た重い段ボールの中から本を取り出す。
巻末にその万年筆でサインをして、薄いブロッティングペーパーと「献本」と書かれた栞を挟む。
「学生でもこんなに名前書かないぞ……」
そんな文句を言いながら、刷り上がって来た初版本にサインをしていく。
「この習慣って無くせないのかねぇ……」
サインの終わった新刊、『今夜、雨のあとで。』が脇机に積み上げられていく。
「先生。失礼します」
ドアの外から和美の声がする。
「ワミ……。早く手伝え……」
崙土の声に和美はドアを開けた。
「あ、もう届いたんですね……」
脇机に積まれた本を取り、和美の使う机の上に置いて行く。
「今回、何冊あるんだ……」
「献本を頂いた先生には、お送りする必要がありますので、前回よりは結構増えてます……」
和美はブロッティングペーパーと栞を挟み始める。
「二百冊くらいだと思うのですが……」
「二百って……。初日にそれくらいしか売れなかった本もあったぞ……」
崙土は苦笑しながら、サインと日付を入れどんどん和美に本を渡す。
「どうせ偉い先生方は、俺の本なんて読みもしないだろうに……」
「あら、そんな事無いですよ。今や椎名崙土先生の作品は、作家の誰もが必読の作品ですから……」
崙土は段ボールから本を出して手を止めた。
「これこそゴーストライターがやってくれれば良いのにな」
そう言うとまたサインを始める。
「ああ、もっと簡単なサイン考えるか……」
文句を言う崙土を見て和美は笑った。
数時間かかり、すべての献本にサインをして、崙土はソファに横になった。
「大体、今の作家はキーボード叩いて書いているだけなんだよ。万年筆なんてこんな時くらいしか使わないし……」
腱鞘炎になりそうな手をマッサージしながら文句を言っている。
和美はパソコンで打ち出した宛名のシールを封筒に貼ると、その中に本を入れて行く。
「良いじゃないですか……。そうやって作家は売れて行くんです」
崙土は思い出したかの様に立ち上がると、机の引き出しを開け、分厚い原稿を取り出した。
「ワミ……。これが三部作の最後だよ……」
そう言って積まれた本の上にそれを置いた。
「もう出来たんですか……」
崙土は無言で頷く。
「たまにはお利口さんになろうと思ってね……」
崙土は大きなグラスに注がれたアイスコーヒーを飲んだ。
「これでイライラしなくて済むだろう」
和美は崙土を見て笑った。
崙土は片手鍋でラーメンを作る。
たかがラーメンなのだが、崙土にはこだわりがあった。
まずはお湯を沸かし鰹出汁を入れる。
そこに粉末スープを入れて最後に麺を投入する。
それは麺を硬いまま食べるための知恵で、最後に卵を落として完成する。
「出来たぞ」
崙土は書斎で作業をしている和美を呼んだ。
「はい……」
和美は返事をしてダイニングにやってくる。
そしてテーブルの上を見て呆れた顔をした。
「先生……食器くらい私が洗いますから、せめて器くらい使いましょうよ」
テーブルの上には片手鍋がそのまま置いてあり、その鍋に崙土はネギを入れていた。
「なに……。ワミはわかってないね……」
そう言うと割り箸を割ってラーメンをすすった。
「インスタントラーメンってのはな、こうやって鍋のまま食うのが一番美味しいんだよ。しかも色々と具材を入れない。そんなラーメンが食いたきゃラーメン屋に行けばいいし」
またラーメンをすする。
「ほら、最高だぞ。椎名崙土特製ラーメン。早く食え……」
和美は苦笑しながら椅子に座り、崙土の作ったラーメンを食べた。
「な、美味いだろ……」
「美味しいですけど……」
和美は片方の髪を耳に掛けながら言う。
「何だよ……。お前は良いとこの子か、ブルジョワの生まれか、そうやって貧乏人を馬鹿にして生きて来たのか」
崙土は食べる手を止めて捲し立てる。
「違いますよ。違いますけど……。先生こそ早く食べないと麺が伸びますよ」
和美は笑いながらラーメンを食べた。
和美が準備した献本の入った封筒を業者が取りに来た。
それが終わると和美はソファに座りようやく一息吐いた。
「お疲れ様……」
崙土は和美の前にアイスコーヒーを出した。
「あ、ありがとうございます」
和美は礼を言うとそのコーヒーを飲んだ。元々はアイスコーヒーよりもホットの方を好んで飲んでいたのだが、崙土がアイスコーヒーしか飲まないために自分もいつの間にかアイスコーヒーを好む様になった。
崙土は和美の向かいに座る。
そして膝に肘を乗せて身を乗り出す。
「ワミ……。売れるかな……」
明日発売される本の売れ行きを気にしているのだった。
大きな事を言う割に心配性である事を和美は知っていた。
前回もそうで、発売日の前日は眠れない程に緊張している。
そんな崙土を和美は可愛いと表現し、出版社の中で話していた。
「大丈夫ですよ。前評判もすごく良いし、明日は色んな書店が協賛イベントやってくれますから……」
和美はアイスコーヒーのグラスをテーブルに置いた。
「ワミがそう言うなら……」
崙土はソファに寄りかかって脚を組んだ。
先日のゴーストライター騒動で少しネットで騒がれている事もあり、話題の一冊として取り上げているサイトも多くあった。
崙土は和美と目が合う度にぎこちなく笑っていた。
「何だよ……。言いたいことあるならはっきり言えよ」
崙土はタバコを咥えた。
「聞いた事無かったんですけど、訊いていいですか」
和美はグラスを取り口に運ぶ。
「何だよ……」
「先生のペンネームの崙土ってどこから来てるんですか……」
崙土はタバコを咥えたまま視線を落とした。
「あ、話したくないならいいんです……」
和美はグラスを置いて慌ててそう言う。
「あ、いや……違うんだよ……」
崙土はそう言うと、タバコを消して立ち上がり窓際に立った。
「崙土のペンネームは死んだカミさんが付けてくれたんだ」
やけに神妙に話す崙土の背中を和美はじっと見つめる。
「死んだカミさんはピアノの先生でさ、よく俺にもピアノを聴かせてくれたよ。だけど、俺、まったくわからなくてさ。クラシックなんてどれも同じ曲に聴こえてしまうんだな」
崙土は和美を振り返って微笑む。
そんな優しい崙土の表情を和美は見たことが無かったかもしれない。
「でも一つだけ……、俺が覚えた曲があってさ。それがモーツアルトの「ロンド」って曲だったんだよ。モーツアルトがシャルロッテ・フォン・ヴュルベンって女のために書いた曲で、一節によると出来の悪い弟子だったらしいんだ。そのシャルロッテ嬢ってのは……。モーツアルトも出来の悪い弟子程、可愛かったんだなって話をカミさんとしたんだよ」
和美は微笑みながら崙土の話を聞いた。
「じゃあ、出来の悪い旦那に崙土って名前を付けましょうって事になってさ。それ以来、俺は椎名崙土って訳だ」
和美は微笑みながら頷く。
「先生は昔っから出来が悪かったんですね」
崙土は小さく何度も頷く。
「仕事もしないで売れもしない小説ばっか書いてて、家族サービスもしなけりゃ、好きなだけ酒飲んで、タバコ吸って、寝たい時に寝て……。それでもカミさんはピアノ弾きながら、そんな俺を支えてくれた。結局、癌で死んじまったけどな……」
和美は黙って崙土の話を聞いていた。
「もう七年か……」
崙土は窓から見える風景を眺めた。
「先生。今日は大人しいんですね……」
クラブのママは崙土の横に座った。
「ああ、そんな日もあるさ……。ストレスってのも限界を越えたら大人しいモンだ」
崙土はグラスの氷をカラカラと鳴らす。
「今日は野々瀬さん、呼ばなくても大丈夫そうで良かったわ……」
ママは崙土に微笑んだ。
「サラッと嫌味言うね……」
崙土は空のグラスをママに渡した。
ママはそのグラスに氷と酒を入れてミネラルウォーターを注いだ。
「あら、嫌味じゃないんですよ……。野々瀬さんがいるとゆっくり話も出来ないじゃないですか……。それ以前に先生が酔っ払うと何にも話は出来ないですけどね……」
ママは崙土にグラスを渡す。
「そんな事言うと、その気になっちゃうよ……。免疫無いんだからさ」
「あら、その気にさせてるのお分かりにならないの……。作家先生ってのは人間模様を書くのに、人の心は案外読めないモンなんですね」
崙土は横目でママの大きく開いた胸元を見ながら酒を飲む。
「ほら、俺も売れっ子だからさ……。週刊誌が狙ってるかもしれないんでね……」
そう言って笑った。
その様子を宇治宮は少し離れた席から携帯電話のカメラで撮っていた。
「売れっ子作家の女性トラブルですか……」
横に座る魚住はニヤリと笑った。
「ゴーストライターが誰なのか……。それが知りたいだけなんだけどな……」
宇治宮はグラスを取り、口に運んだ。
「椎名崙土は七年前に妻を亡くしている。女性関係の記事は売り物にはならん……」
魚住は横で呟く様に言う宇治宮に苦笑した。
「作家なんてまともな生活してる方がおかしいんじゃないですかね……。俺たち編集者もそうですけど……」
魚住は酒を飲み干すと立ち上がった。
「明日、椎名崙土の新刊の発売日なんで、今日は帰ります」
「はい……また、お願いしますね」
宇治宮は魚住に頭を下げた。
そして、
「うちの雑誌も明日発売日なんでね……」
そう呟いたが魚住には聞こえなかった。
崙土はいつもより早くに帰宅した。
玄関を開けると莉彩が腕を組んで立っていた。
「どうした……。まだ起きてたか……」
靴を脱ぐと莉彩の横を抜けてリビングのソファに座った。
「どうしたじゃないわよ……」
莉彩の様子が少し違う事に気付き、崙土は顔を上げる。
「何かあったのか……」
莉彩はテーブルの上に一枚の紙を叩き付ける様に置いた。
崙土はその紙を手に取った。
それは、明日発売される週刊誌の記事の原稿だった。
「ゴーストライター疑惑の人気作家、椎名崙土、豪遊の日々」のタイトルで、数枚の隠し撮りされた写真と、その記事が載っていた。
そしてその記事の最後に宇治宮の名前があった。
「こんな記事出ちゃっても大丈夫なの……」
莉彩がソファに座りながら言う。
崙土は小さく何度か頷くと、その原稿をテーブルの上に放り投げた。
「大丈夫だよ……。別にアイドルじゃないし、酒飲んでいる写真撮られたくらいで……」
「そうじゃないわよ……」
莉彩はゴーストライターの文字を指差した。
「お酒ばっかり飲んでて、それが原因で疑われて……最悪じゃん」
「だ、大丈夫だよ……。お前も言ってたじゃんか。絶対にばれる事もないしさ、知っているのは……お父さんと莉彩だけなんだから……」
ポケットで携帯電話が振動している事に気付き、取り出す。
和美からだった。
崙土は通話ボタンにタッチして電話に出た。
「先生……。そちらにもFAX……、行ってますか」
和美は静かに言う。
「ああ、来てるよ……。あの宇治宮って奴だな」
崙土はテーブルに投げ出した週刊誌の原稿をもう一度手に取った。
「このタイミングでこれが出るのは良いか悪いか、こちらでも判断が付かずに困ってます」
和美は呟く様に言う。
崙土はその記事を読みながら返事をした。
「大丈夫だろう……。この週刊誌、一誌が騒いでいるだけだし……」
記事は専門家の意見も書かれていた。
文章は上手く椎名崙土の癖を捉えて書かれているが、基本的に女性の書く文章の様にも見え、ゴーストライターは女性である可能性が高い。
しかも年齢的には十代から二十代前半の女性であると思われる。
こんな事までわかるのか……。
崙土は苦笑して目の前の莉彩を見た。
「聞いてますか、先生……」
電話から和美の声が聞こえた。
「ああ、聞いてるよ」
崙土はそう言うとポケットからタバコを取り出した。
タバコの箱が空な事に気付き、手でその箱を潰した。
「とにかく、根も葉もないガセネタだ。そっちはそう説明してくれ……」
崙土は少しイラついて電話を切った。
「野々瀬さん。まだいたんですか……」
和美が電話を切ると魚住がオフィスに戻って来た。
「魚住君……。こんな時間にどうしたの……」
和美はFAXの記事を積み上げられたファイルの間に挟んだ。
「近くで飲んでたら、電車無くなっちゃって……。タクシーで帰るのも何だし、会社戻って仕事でもしようかな……って」
魚住はコンビニの袋を机の上に置いた。
「これは朝飯ですよ……」
そう言ってパソコンの電源を入れた。
「そんな事してると本当に体壊すわよ……」
和美はバッグと大判の封筒を持って、
「ほらタクシーで送ってあげるから、一緒に来なさい」
そう言いながら魚住の腕を引っ張った時に、大判の封筒に入っていた椎名崙土の新作の原稿が落ちた。
「何ですかこれ……」
魚住はその原稿を拾った。
「うわ、これ椎名先生の原稿じゃないですか……」
そして嬉しそうに、その原稿を見ている。
「これって、雨三部作の最終ですか」
和美は頷く。
「私もまだ読んでないのよ……」
「いいなぁ。データは無いんですか」
魚住は必死にページを捲った。
「まだないのよ……。校正前だしね……」
和美は自分の椅子を引き寄せて座った。
「ほら、そんな事良いから、帰るわよ……」
「野々瀬さんは良いですね……。俺なんて新人とか新人以前の作家志望ばっか相手させられて、こんな発表前のプラチナ原稿読む事なんて皆無ですからね……」
魚住は興奮しながら原稿を捲って行く。
「これ、今晩一晩貸して下さい」
「もう……。コピーとかしちゃダメよ。まだ編集長にも、まだ報告してないんだからね……」
和美はそう言って立ち上がった。
「じゃあいいのね。私は帰るわよ」
魚住は返事もせずに椎名崙土の原稿を読んでいた。
和美はオフィスに魚住を残し、薄暗い明かりの部屋を出て行った。
魚住はその原稿の途中のページで手を止めている。
そしてその原稿を散らかった机の上に置くと、引き出しの奥に隠す様に入れていた別の原稿を出した。
取り出した原稿を震える手でゆっくりと捲って行く。
あるページを開くと、その原稿も机の上に置いて、椎名崙土の原稿と見比べる様に指で追った。
その二つの原稿は一言一句同じ文字が並んでいた。
一体、どういう事だ……。
魚住は額から汗を流しながら、その原稿を捲って行った。