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#1






「先生。もう今日はお酒、止めておきましょうね……」


 ママは「先生」と呼ばれた男のグラスを取り上げる様に引くと、ボーイに渡した。


「馬鹿言うなよ……。全然酔ってないし……」


 立ち上がりふらつく男は、横で支えるホステスと一緒にソファに倒れ込んだ。

 ホステスの叫ぶ声が店内に響びく。


 その様子を別の席から見ている男がいた。

 服で上手く携帯電話を隠し、カメラで撮影している。


「毎晩こんな感じなのか……」


 男は隣に座る男に訊きながら、グラスの酒を飲む。


「ああ、ほぼ毎晩だな……。いつ書いているのか不思議なくらいだ……」


 その男はピスタチオを口に放り込むと、ニヤリと笑った。


「デビューして十年。鳴かず飛ばずでやって来て、二年程名前を聞かなくなったと思ったら、復帰第一作目が大ヒットだ。映画化、ドラマ化、コミック化……。そりゃ羽振りも良くなる訳だ……」


 携帯電話をテーブルに置いて、ニヤニヤと笑いながら薄くなった酒を飲み干した。


「ありがとうよ……。ジワジワ攻めさせてもらうよ……」


 男はポケットから封筒を出してピスタチオの皿の横に置いた。


「毎日この有様で、あっと言う間に復帰二作目の発表だ。椎名崙土先生がご自分で書かれてるとは思えなくてね……」


 男はピスタチオを口に放り込んで、その封筒を上着のポケットに入れた。


「またいい話あったら教えてくれ……」


 そう言って携帯電話をポケットに入れると立ち上がった。


 男はピスタチオの殻をむくとその男を見送った。






 椎名崙土は重い瞼を持ち上げ、窓から差し込む強い日差しを手で払う。

 そしてゆっくりとベッドに起き上がった。


「何だ……。もう朝か……」


 崙土はベッドを抜け出ると、いつもの様に熱いシャワーを浴びた。

 そして全身を泡だらけにしながら、昨日の酒を洗い流す様に身体を洗う。


 シャワールームを出て腰にバスタオルを巻いたまま、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

 ふとキッチンのカウンターからリビングを見ると、ソファで眠る女の姿を見つけた。


「何だ……。ワミ……いたのか……」


 崙土はペットボトルを手に持ったまま、眠る女の向かいに座ってタバコを咥えた。


 女がゆっくりと目を開けると、タバコを吸いながら自分を覗き込む崙土の顔が見えた。


「せ、先生……」


 そう言って、勢い良く起き上がり、


「おはようございます」


 と頭を下げた。

 そしてテーブルの上のメガネをかけると、崙土がバスタオル一枚でいる事に気付き、顔を赤らめて目を逸らした。


「ワミ。何で、ここで寝てるんだ……」


 崙土は立ち上がると、タバコを咥えたまま窓際に立つ。


「え、何でって……。覚えてらっしゃらないんですか……」


 崙土は振り返って頷く。

 ワミと呼ばれる女は俯いて溜息を吐く。


「先生が酔っ払って大変だと、いつものお店から電話がありまして、私が引取りに行って、連れて帰ったんですよ……。覚えてらっしゃらないのですね……」


 野々瀬和美。

 和美と書いて「なごみ」と言うらしいが、崙土は彼女の事をワミと呼ぶ。

 復帰する前から数年、崙土の担当編集者だ。

「編集者は家政婦ではありません」といつも言っているが、和美が一日の大半を、この崙土のマンションで過ごしているのは事実である。


「そうだったのか……。それは失礼しました」


 崙土はテーブルの上の灰皿でタバコを消すと頭を下げた。


「いい加減にして下さいよ。今日は大事な新作発表の日ですからね。そんな大切な日の前夜に、前後不覚になるまで飲まれるなんて……」


 和美は文句を言いながら後ろを着いてくる。

 崙土は部屋の入り口で立ち止まり、振り返ると和美を落ち着かせる様になだめた。


「わかった、わかった。わかったから……パンツ穿かせてくれ……」


 そう言って微笑み、部屋に入ってドアを閉めた。

 和美はドアに背中を着けて腕を組み、頬を膨らませる。


「先生も今や売れっ子作家なんですからね。少し自覚を持って頂かないと困ります」


 ドアの外で和美が言う。


「わかったよ。今日はスーツじゃないとダメか」


 部屋の中から崙土の声が聞こえた。


「当たり前です」


 和美はドアに向かって大声で言うと舌を出した。


 ドアが開き、ジーンズ姿の崙土が部屋から出て来る。


「まだ時間あるんだろ……飯でも食おう。ワミがイライラするのは、腹が減ってる時と生理の時だ」


 崙土はそう言いながら歩き、キッチンに立った。


「いいえ、先生がお利口さんでない時が一番イライラします」


 和美はそう言うと冷蔵庫を開けた。

 その和美の手首を崙土は掴む。


「俺が作るよ。昨日のお詫びに……」


 そう言う崙土に和美は微笑む。


「先生が作れるのってインスタントラーメンだけじゃないですか……」


「そうだよ……ダメか」


 和美は溜息を吐いて崙土の手を振り払った。


「ダメに決まってるでしょ……。私が作ります。それがどうしても嫌っておっしゃるのなら外に行きましょう」


 和美はじっと崙土を睨んだ。

 崙土はその強い目力に負け、首を窄めながらキッチンを出て行った。


 和美は十分程で二人分の朝食を作り、食卓に並べた。


「これだけの腕がありながら、独身とはねぇ……。神様も残酷なモンだ……」


 崙土は絶妙な塩加減のスクランブルエッグを口に入れる。


「余計なお世話です」


 和美は怒った表情のままトーストに噛り付いた。


「私、一旦帰ってからまたお迎えに上がりますので、準備しておいて下さい」


 崙土はアイスコーヒーを飲みながら頷く。


「どんなスーツが良いかな……。俺はスーツ苦手で……」


 言い終える前に和美が声を発する。


「今日のスーツは帰る前に出しておきますので……」


「はい……。はい」


 崙土は気迫に押され二度返事をした。


「野菜も食べてくださいね……」


 サラダに手を付けない崙土に和美は言った。


「いや、俺は……、草はちょっと……」


「草じゃありません。サラダです」


 怒る和美に慄き、崙土はサラダにフォークを刺した。






 壁にかかった服を見て、崙土は息を吐いた。

「もう秋なので少し秋っぽい服で」と和美は赤茶色のジャケットとチェックのパンツを出した。

 どうしてもスーツが嫌だと言う崙土の言葉に折れたのだった。


 崙土はリビングのソファに座り、アイスコーヒーを飲みながらタバコに火をつけた。

 崙土は一年を通してアイスコーヒーしか飲まない。

 ある雑誌のインタビューにも載っていたが、吹雪のゲレンデでもアイスコーヒーを飲んでいたらしい。


 崙土はふと視線を感じ振り返った。

 そこには娘の莉彩が立って、クスクス笑ってた。


「莉彩……。起きたのか……」


 崙土は莉彩に微笑むとタバコを消した。


「うん。朝まで書いてたからね……」


 莉彩は崙土の向かいに座った。


「すまんな。出版社がうるさくてな……。勢いがあるうちに一気に書き上げましょうってな」


 莉彩はクスリと笑った。


「今朝もワミさんにやられてたわね……。うるさいったらありゃしないわ」


「ああ、ごめんな。ワミにはきつく言っとくよ」


 崙土がそう言うと、莉彩は崙土を覗き込んだ。


「違うでしょ。お父さんがワミさん怒らせてるんじゃんか。ワミさんは悪くない。全部お父さんが悪いのよ」


 莉彩は笑いながら立ち上がり、背中を伸ばした。


「さてと、じゃあ次の作品、書き上げちゃいますか」


 リビングを出て行く莉彩に崙土は、


「莉彩。無理するなよ……」


 と言うと、莉彩は振り返る事もなく親指を出して部屋へと戻って行った。







「新作発表なんて、売れて人気のある作家がやる事じゃないのか……」


 崙土は紙コップでアイスコーヒーを飲みながら言う。


「第一、俺はあんまり好きじゃないんだよ……。メディアに顔を晒すのが……」


 横に座る和美は、そんな崙土を完全に無視して打合せを進める。


「先生……。お言葉ですが……」


 打合せを終えてスタッフが去って行くと、和美は表情を変えて崙土を睨んだ。


「先生の前作、どれだけ売れたと思ってるんですか。ファンは待ち望んでるんですよ。先生の本を。新作発表のイベントもファンサービスの一つです。我慢してください」


 崙土は紙コップをテーブルに置いて脚を組んだ。


「ふん……、どうせ発行部数のためなんだろう」


 崙土が呟く様に言うと、和美は顔を近づけた。

 崙土はそれに威圧されて体を引く。


「そうです。その通りです」


 和美は立ち上がった。


「発表会でそんな顔したら、後ろから蹴り上げますからね」


 そう吐き捨てて控室を出て行った。


 崙土はタバコを咥えてポケットのライターを探す。

 そこに足早に和美が戻って来て、咥えたタバコを取り上げた。


「ここ禁煙です」


 和美は壁の「禁煙」のプレートを指差して微笑んだ。


 崙土は仕方なく控室を出て、非常階段のドアを開けると、一人の記者風の男がタバコを吸っていた。

 崙土は会釈してタバコを咥える。


「嫌ですよね……。どこもかしこも禁煙で……」


 記者風の男は崙土にそう言った。

 崙土はその男を一瞬だけ見ると煙を吐いた。


「ええ……。いつからこんな風になってしまったのか……」


 崙土は咥えたタバコを手に持って眺めた。


「あ、知ってますか……。このタバコの太さってのは女性の乳首の大きさを参考に作られたらしいですよ。男が咥えて違和感がない様にって事らしいです……。昔は金持ちの男の嗜好品だったんですね……」


 記者風の男はそれを聞いて、笑いながら崙土に近付く。


「流石は椎名崙土先生……。博識でいらっしゃる」


 記者風の男はポケットから名刺を崙土に渡した。


「申し遅れました。私は週刊ファーストスクープの宇治宮と申します」


 崙土はその名刺を受取り、興味無さそうにポケットに入れた。


「週刊誌の方ですか……」


 崙土は手摺に肘を突いて景色を眺めた。


「週刊誌はお嫌いですか……」


 宇治宮も崙土の横で同じようにして遠くを見る。


「ええ、週刊誌だけじゃなく、メディアってモノがどうも……」


 宇治宮はそれを聞いて苦笑した。


「どちらかと言うと先生もそっち側の人間じゃないですか」


 崙土はその言葉を無視して、じっと遠くを見つめた。


「私はしがない物書きですよ……。メディアの人間だなんて微塵も思った事ありませんよ」


 崙土は縞鋼板の上にタバコを落とし、つま先で火を消した。


「それじゃ。これから新作の発表会ですので……」


 そう言うと鉄のドアのノブを握った。


「楽しみにしてますよ。椎名崙土先生の復帰第二作……」


 宇治宮は崙土の背中にそう言って笑った。







「それでは椎名崙土先生をお呼び致しましょう」


 ステージの上で司会を務める女性がマイクを握ってそう言った。


 崙土と和美はその声を聞きながら廊下を歩いていた。


「記者から幾つか質問があると思うのですが、作品について以外の質問は無視してくださいね。もちろん司会者にも伝えてありますし、私も対応します」


 和美は崙土の横を歩きながら早口に言う。


「はいはい。何でも答えますよ……。パンツの色とかね……」


 崙土と和美はスタッフに招かれるままにその部屋に入った。

 そしてそのままステージへと入って行く。


 一斉にフラッシュが焚かれ、崙土は自然に目を細めた。


「今回『今夜、雨のあとで。』を発表されました椎名崙土先生です」


 司会者の通る声が崙土には不快に感じた。

 沢山のフラッシュに向かい一礼すると、並べられた椅子に座る。

 崙土が座るとフラッシュが収まった。


 退屈な時間が始まる。

 後ろに立つ和美に不満の表情を見せながら、崙土は会場に向かってニコニコと笑みを見せた。


 あらかじめ打合せをしていた司会者との質問が交わされる。

 それに答えながら和美の反応を見る。

 崙土が答える度に「それでいい」と言わんばかりに和美は頷く。


「では先生から、この作品に対する想いを少し語って頂きたいと思います」


 司会者が崙土を中央へと招くと、立ち上がり、演台の前に立った。


「えー」


 そう一言発して、マイクの頭を叩く。

 スピーカーからトントンという音がして、崙土はそのスタンドに立つマイクを外して握った。


「えー。今回の作品は私の「雨シリーズ」の二作目になります。この「雨シリーズ」は三部作として書き上げております。三作目もそろそろ完成し、皆様の前にお披露目できる日も近いです」


 和美は崙土の言葉を聞いて驚いていた。

 崙土が三作目を書いている事など知らなかったからだった。


「このシリーズのテーマは「命」です。命の尊さを知らずに生きていく人間と、その命の尊さを知って生きる人間の葛藤を書いた作品になります」


 司会者は崙土の様子を見て、マイクを持ち直す。


「今回も既に映画化が決まっている様なのですが……」


 崙土は司会者の顔を見て微笑んだ。


「映画に関しては私の知る所ではございません。エンターテインメント作品として良いモノが出来上がればいいと思っています」


 ぶっきら棒な回答に司会者は困惑しながら和美を見ていた。

 和美はゆっくりと崙土に歩み寄り、手からマイクを取りスタンドに戻した。

 崙土は椅子に戻り座る。


「それでは皆様からの質疑を受け付けたいと思います」


 司会者はまた通る声で言った。

 その瞬間に沢山の手が挙がった。

 誰の質問を聞くかも実は初めから決まっていて、もちろん答えも用意してある。

 幾つかの質問に無難に崙土は答え、和美も後ろでサポートする。


「それでは時間の都合もございますので、この辺で質問を締め切らせて頂きたいと思います」


 司会者がそう言った瞬間だった。


「以前の椎名先生の作品と作風が大きく変わったという話があるのですが……。ゴーストライター説も浮上してますが、その辺りはどうなんでしょうか」


 崙土はそう言った記者を見た。

 さっき非常階段で会った宇治宮という男だった。

 会場の中がざわつく。

 和美は慌てて崙土を立たせる。


「せ、先生、どうも今日はお忙しい中ありがとうございました」


 司会者も慌てて崙土を退場させようとした。


「ワミ……」


 崙土は小さな声で呼ぶが、和美は首を横に振って背中を押した。


「毎日朝まで、泥酔されていると聞いてます。そんな先生にあの作品が書けるのですかね……」


 宇治宮は大声で言う。


「答えて下さいよ。椎名先生」


 退場する崙土の背中に言う宇治宮が、スタッフに両脇を掴まれて会場を引っ張り出される。


「先生、椎名先生」


 宇治宮の声が次第に聞こえなくなった。

 崙土は会場を出て廊下を足早に歩く。


「ワミ……。俺のゴーストライター説なんてあるのか……」


 崙土と和美は控室に入った。


「聞いてるんだ」


 崙土は珍しく声を荒げ、ソファにドカッと座った。

 和美はアイスコーヒーを紙コップに入れて崙土の前に置いた。


「復帰後、作風が変わったという話には……なっていました」


 崙土の横に座って言う。


「でも休んでおられた期間が二年以上もあって、それで作風が変わる事なんて良くある話で……」


 崙土は紙コップを取ると一気に飲み干した。








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