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吸血少女の牧田さん

作者: 芋太郎

 


「何やってんの...?」


 僕こと不審者こと泉谷幸大(いずみやこうだい)は、ドアの隙間から教室内を覗いていた。


 さて、今僕の瞳には珍妙な光景が映っている。


 僕は数学の課題を教室に置き忘れたのに気づき、たった今夕暮れの教室に戻ってきた。


 そしたら、僕の隣席の牧田時雨(まきたしぐれ)さんが、僕の机をじっと見ているではありませんか。


 牧田さんは、容姿端麗で運動神経も良いし、授業に対しても積極進取、いわば優秀な生徒だ。そんなもんだから、色んな人に好意を向けられている。僕みたいな陰キャぼっち含め、誰にでも丁寧に接し、そして優しいから、クラスのみんなからはマドンナのような扱いを受けているのだ。


 そんな牧田さんが、クラスのみんなから空気のような扱いを受けている僕の机を見ている。


 見ているだけなら何ともない。珍妙だなんて誇張しすぎにも程があるし、自意識過剰だ。ただ、なんだが様子がおかしい。なんか、興奮している感じ。


 こういう展開はラノベとかでよく見る。僕だったら興奮しちゃうだろうなーとか思ってたけど、いざ目の当たりにすると、少し怖い。


 だって、自分の机に興奮してるんだぞ。


「えー、どうしよ」


 聞こえない程度に小声を漏らす。


 この状況どうすればいい。このまま牧田さんが去るのを待つ?いや、早く帰りたいしなぁ...。


 牧田さんだって、やましい感情を持って僕の机を凝視してるわけではないかもしれない。興奮して見えるのも、単なる勘違いかもしれない。うんそうだ。きっとそう。だって見てるだけだもん。なんかしてるわけじゃない。


 大丈夫大丈夫。忘れ物したから取りに帰ってるだけだし、僕が日和ることなんて何もない。


 ささっと行って平然と切り抜ければいい。そうしよう。


 決心し、僕は扉をガラガラと開けた。


 その瞬間、牧田さんの肩がビクンと跳ね上がった。


「い、いいい、いい、泉谷くん!?何で泉谷くんがここに!?」


 予想以上に動揺しているけど、とりあえず続行だ。


「ハ、ハハ、ちょっとね、課題取り忘れちゃって」


「ア、アハハ、課題ですね!忘れちゃったなら仕方ないですよねっ!」


「ハハ、ホントそれな!忘れちゃってさー」


 ヘラヘラしながらなんとか課題を取ることができた。あとは教室から出るだけだ。


「じゃ、またねー」


 そう言って出ようとした矢先、牧田さんは僕の腕を掴んで引き留めた。


「あ、あの?」


「泉谷くん」


「な、なに...?」


「...いつから見てましたか?」


 上目遣いに問いかける牧田さん。その体は少し震えていた。


 暗黙の了解みたいな感じだったのに、どうしてわざわざ聞いてしまうのか。


「え、えっと、何のこと?」


 とりあえずとぼけてはみたけど、牧田さんの顔は依然不安そうにしている。


「嘘吐いてますね?本当は全部のぞいてたんじゃないですか?」


「嘘?嘘なんてそんな...」


「じゃあなんでそんなに焦ってるんですか?本当は見たんですよね?」


 な、なんか怖い。でも、嘘吐いているのは当たっている。


 どう切り抜けようかと模索していると、牧田さんが突然体を引き寄せてきた。


「もう我慢できないので言いますね」


「ちょっと!近い近い!」


 すごい顔が近いし、色々柔らかい。


 その光景は僕にとって、あまりにも刺激的すぎた。しかし、そんな感情も次の言葉で一気に消え去った。


「私、吸血鬼なんです!女子高生に憧れて、普通の女の子として頑張ろうって思ってたんですけど、もう無理なんです!」


「ハ、ハハ、冗談がお上手だなー」


「冗談じゃありませんよ!」


 信じられない。でも、気になるところがある。


 普通の人間とは思えないほどに犬歯が伸びている。それに、よく見ると目が赤い。牧田さんの目はこんな赤くなかったはずだ。


 牧田さんの口調も加味して、考えにくいけど、信じる他なくなってしまった。


「きゅ、吸血鬼か...」


「はい、信じてくれましたか?」


 顔を赤らめながらそう言うと、体をぐいぐいと押し付けてきた。


「吸血鬼が血を飲むことは知ってますね?あれ、本当は飲まなくても良いんです。普通の女子高生は血なんて飲みませんから、ここ数年飲まなかったんですが...泉谷くんの血は、とても美味しそうな匂いがして、私...ずっとずっと我慢してたんですけど、すみませんもう限界です!!!」


 牧田さんは僕を押し倒し、首筋にその鋭利な牙を向けた。


 さっき以上に近い!ていうか、これ止めないと噛まれる?噛まれて大丈夫?痛い?痛いよね!?絶対痛いよねぇ!


「大丈夫、痛くはしませんから」


 優しさの混じった、わずかに紅潮した顔を近づける。


 痛くしないならいい、のか...?これはこれでアリだったり...?


 ああ、思えばこれまでの人生で、女子と1ミリも関わってこなかったな。そんな童貞で非モテオタクの僕が、ようやく...ようやく、女子に求められるんだ...!


 そいつぁ嬉しいことじゃあないか...。


 ありがとう、神よ。


「じゃあ、いただきm」


「誰かいるんかー」


 瞬間、ドアが開き、担任教師の薮原(やぶはら)の声が教室に響き渡った。


「って、牧田と泉谷か。珍しい組み合わせだな。こんな時間に何やってたんだ?」


 滅びろ、藪原。末代まで呪ってやる。


「あ、その、べ、勉強です!ほら、数学の課題が残ってまして...」


 牧田さんは焦り散らかしている。


 僕も焦っているけど、それ以上に、一度信じた神を恨んでいる。


「そ、そうなんですよ。勉強です」


 とりあえず乗っておこう。不都合なことになったら嫌だしね。


「そうか、早めに帰れよー。あと、公序良俗には反するな」


 薮原は最後の一文だけ語気を強めて言い放った後、教室を出ていった。


「邪魔しおってからに...牧田さん、じゃあ続きを...って牧田さん?大丈夫?」


 見ると牧田さんは、ずっと俯いたまま、嗚咽を漏らしていた。


「す、すみません...その、自分が何やってたか思い返したら......恥ずかしくて...!」


 あら可愛い。確かに大胆だったし、思い返せば恥ずかしくなるほどの黒歴史かもしれない。でも、僕からしたら貴重な体験だ。だから、受け入れよう。


「恥ずかしがらなくて良いよ。僕はなんとも思ってないから。だからほら、僕の血でよかったら」


「...すみません」


「ちょ、牧田さん!?」


 走って逃げてしまった。


 まあ無理もないか。客観的に見て、牧田さんの行動は確かに恥ずかしいものだったし、僕の対応もなんか、気持ち悪かったし。己の欲望ダダ漏れって感じだったよな、今。


 あー、なんか...なんだろう、フラれた気分だよ。これまでの高校生活で一番嫌かも。


「...帰ろう」


 そうして僕は、課題を持って家に帰った。




 翌日の朝。


「おはよー、てかあれ見た?コテージハウス」


「見た見た!良かったよねー」


「マジ最高だったねー」


「ねー」


 あっちの女子は流行りのテレビ番組の話。


「今度の休み、どっか遊び行かね?」


「良いねー。誰誘う?」


「金田と、藤木と、宮崎と...」


 あっちの男子は遊びの話。


「......眠い」


 かたや僕は、一人で独り言を呟いている。


 教室での僕は常にこんな感じだ。友達と話すわけでもなく、一人で机に頬か額を当て、不特定のクラスメイトの会話を盗み聞きしている。


 虐められもせず、いじられもしない。しかし、体育とかグループ作る時とかになると、友達がいないためハブられる。


 言ってしまえば空気。いや、クラスから浮いてるからヘリウムか。どっちでもいいな、へへ。


 まあ、そんな感じの日々を歩んできたわけだけど、今日は少し違う。不特定のクラスメイトではなく、特定のクラスメイトに注目していた。


 黒髪の美少女、牧田さん。


 牧田さんは誰からも愛され、必要とされ、彼女自身もまた、他人に対して分け隔てなく接し、他人を受け入れている。いわば、聖人のような人だ。


 昨日僕は、そんな人に求められた。体ではなく、血を。


 普段は気にも留めないけど、あの出来事のせいで、どうしても気になってしまう。あちらもこっちのことを気にしているようで、たまに目があっては、恥ずかしそうに逸らしている。


 なんか、無性にドキドキする。


 牧田さんは、僕に対しても普通に接してくれる聖人だ。


 そんな牧田さんに血を求められたのなら、断る理由なんてない。やましい心を抜きにして、僕は牧田さんのためなら、と思っている。勇気を出して言おう。今、言おう。


 牧田さんは苦しそうだった。今も多分、僕の血を欲しているはずだ。


 役に立てるなら...!


「あの、牧田さn」


「おーい席につけ」


 瞬間、ドアが開き、担任教師の薮原の声が教室に響き渡った。


「じゃ、ホームルーム始めっぞー」


 いつだ。いつ滅びるんだ、薮原。


 あーもう、勇気を振り絞って言おうかと思ったのに!こっちも「血、飲んで良いんだよ?」とか聞くの恥ずかしいんだぞ!なんか特殊性癖みたいだろ!


 ...もういいや。今日は言おうと思っただけマシでしょ。僕みたいなヘタレが自分から声をかけようだなんて前代未聞なこと、しようとした時点で頑張った方だ。


 そうやって自分に言い聞かせながら、放課後を迎えた。


 あれっきり、僕と牧田さんの目が合うことはなかった。


 夕暮れになりかけの通学路を歩いていると、途端に自分が嫌になってきた。


 ヘタレにも程があるだろ、自分。そうやって言い訳してきたから、こんな高校生活送ってるんだぞ、わかっているのか?


「わかってるさ...」


 わかっていても、どうにもできないことだってあるんだ。人間の素質や考え方なんて、そう簡単に変わりやしない。僕はそういう人間なんだ。一生ヘタレで、言い訳ばかりして生きていくんだ。


「ただいまー」


「あ、おかえりー」


 リビングから聞こえてきたのは、妹の佳奈(かな)の声だ。佳奈は高校一年で、僕とは違う学校に通ってる。


 僕はオタクでいつも暗いけど、佳奈との仲はそんなに悪くない。むしろ良い方だ。大体オタクの兄とか嫌われそうだけど、嫌われていないのは、佳奈の性格が良いからだろう。


 家族仲が良くてよかったと、帰るたびに思う。


「あははは!」


 佳奈はテレビを見て爆笑していた。こいつはいつも笑ってる。正直羨ましいし、少し妬ましい。醜いよ、僕の心は。


 我が妹は僕と違って友達が多くて、なんというか、楽そうだ。


 僕も友達がいればいいんだけど、高校一年のときにどうやら階段から落ちたらしく、見事に骨折し入院。更に、頭を打ったせいであの日の出来事すら思い出せない。そんな大ドジをかましたのせいで僕は友達がいない。バカすぎるだろ、僕。いやまあ、あれがなくともいなかっただろうけどね?


 どうしてこうなっちまったんだろうな。ぼっちだし、ヘタレだし、勇気も出ない。何なんだ、僕...。


「あー」


 声を発しながら、ベッドにダイブする。


 明日こそだ。明日言おう。たまには勇気出してやろうじゃねえか!これも、牧田さんのためだ!


 と、意気込んで眠りについた。


 そして、翌日。


「...ただいまー」


「お、なんか元気ないじゃん」


「ちょっとな」


「ふーん?変なの」


 佳奈との会話もそこそこに、早々とベッドに倒れ込んだ。


 無理でした。


 なんか牧田さんの周りに常時女子がいて、話しかけられませんでした。


 いやでもあれは仕方ないよ。あのまま話しかけたらほら、話に割り込む形になっちゃうじゃん。それって失礼でしょ?だからさ、仕方ないのよ。話しかけられなくて仕方ない!


 明日だ!明日言えばいい!


 と、またまた意気込んで一週間が経過した。


 一週間の中で、ついに牧田さんに話しかけることはなかった。


「あー、疲れた」


「最近どした?コウが疲れるなんて珍しいね」


 ソファに深く座る僕の隣に、佳奈も座る。


 妹に気を遣われるとは、兄失格だな。あ、僕そういうキャラじゃないな。


「そりゃ疲れるさ。友達いないからさ、ほら、色々気を遣うんだよ。だから疲れる」


 牧田さんに話しかける勇気がない、だなんて妹に言えるわけない。しかし、愚痴というのはどうしても出てしまう。


「ふーん?」


 こいつみたいに、俺にも友達がいたら、社交性がアップして、牧田さんに話しかけられたのかな。誰かを気にしてばっかで、言い訳ばかりする自分に疲れるよ。


 友達がいれば、良かったのかな。


「お前みたいに友達がいたら、こんなに疲れずに済んだのかなって」


「そーれは違いますぜ?兄ちゃん」


 何故か江戸っ子風に即否定された。


 違うのかな。ぼっちじゃなければ、こんな苦労したり、気を遣うことだってないと思うんだけど。


「何が違うんだ?」


「コウは、友達がいる人間は苦労してないって思ってるね?苦労せず、いつも楽しそうだから、気を遣って疲れることなんてないって思ってるね?」


「まあ、全員がそうとは言わないけど...大体はそうじゃないか?」


「っかー!ダメダメだねぇ」


「だから何が」


「そんなわけないじゃん。多分、友達いる人の方が、ぼっちのコウより気遣ってるよ?だって人間関係ってそういうものだから」


 そういうもの...?


「人にもよるけどさ、大体の人は、人間関係を良好に維持するために気を遣って、さして行きたくもない遊びに行って、見たくもないテレビを見て、必死に話に食いついてるんだよ。かたやコウときたら...っかー、そんな苦労も知らないで...私、泣きそうだよ...」


「オイオイ」と言いながら、泣き真似をする佳奈。その後、スッと顔をあげて人差し指をあげた。切り替えが早い。


「友達いる人って、常に人間関係っていうご主人様にリードで繋がれてるんだよ。ご主人様の機嫌を損なわないように、愛想良く従順についていってんのさ。わかる?ちゃんと頑張ってるんだよ」


 ふざけてはいるが、やけに文章一つ一つに熱意が篭っている。


 友達のいる人も、相応に苦労している。友達のいるこいつが言うんだから、多分そうなんだろう。


「コウは、自らそのリードを外した。ついていかないと、自分の意思で決めた。確かに、その選択をして苦労したり、気を遣うこともあるかもしれない。でも、例え友達がいたとしても、苦労するってことは変わらないよ。それだけは勘違いしないこと。コレ大事だから」


 そう言うと、佳奈は「こほん」と咳をして、僕の背中を叩いた。


「ま、そういうことですよ!苦労してない人なんていないんです!自分を棚に上げないこと、ね!」


「あ、うん」


 佳奈はその後、スマホを見ながらソファに寝転がり始めた。


 なんか、妹に説教されてしまった。


 佳奈は、友達がいる人も苦労していると言っていた。きっとそれは本当だ。僕は、自然とぼっちだから苦労していると思っていたけど、実際のところは違かったんだ。


 みんな努力して、苦労して、頑張って、必死こいて毎日生きているんだ。


 かたや僕はなんだ?友達いない自分を棚に上げて、友達も作らず努力もせず、言い訳ばかり。常に受け身で毎日を過ごしてる。ずっとそうだ。自分から話しかけずに、言い訳ばかりして逃げ続けている。


 ヘタレで生きていくなんて言って、開き直ってた。変われないって諦めてた。


「しょうもない人間だよ...!」


 自分の不甲斐無さにイライラしていると、ふと牧田さんの顔が浮かんできた。


 その瞬間、衝動が湧き出る。


「ちょっと行ってくるわ」


「ちょ、帰ってきたばっかじゃん。てか、どこに」


 返事もせずに駆け出す。


 時刻は夕方。行き先は教室。牧田さんに会うために行く。行ってもいるかどうかわからない。でも、どうしても行かないと気が済まない。


 考えてみれば、牧田さんも友達が沢山いる。つまり、牧田さんも苦労しているはずだ。人間関係だけじゃない。あの人は勉強も頑張ってるし、身だしなみもちゃんとしてる。毎日を充実させるために、相応の努力をしているはずだ。


 それなのに牧田さんはあの日、勇気を出した。普段から頑張っているのに、更に頑張って、ほとんど面識のない僕に、自分の事を告白したのだ。


 じゃあ僕は?僕はどうだ?僕はいつも頑張らず、開き直ってるくせに、頑張ってる人の努力も想像せずにのうのうと日々を過ごして、挙句、勇気も出さない。


 頑張ってる人がさらに頑張って、頑張ってない人は何もしない。


 そんなの、ちゃんちゃらおかしな話じゃないか。


 何が牧田さんのためなら、だ。馬鹿言うな。そんな自堕落人間が、完璧超人のためになるわけないだろ。おこがましすぎるぞ、泉谷幸大。


 走って走って、ようやく教室に着いた頃には、日が落ちかけていた。


 僕は息を切らしながら、ドアを開ける。


 中は夕日で赤く染まっていた。


「いない」


 僕の机には、牧田さんの姿はなかった。そりゃそうか。もう帰ってるわな。


「泉谷くん?」


 諦めて帰ろうとした途端、僕の後ろから声が聞こえた。その声は、一週間前と同じ、凛としていて可愛らしい声。


「牧田さん」


「ど、どうしたんですか?そんなに息を切らして」


 まだ恥ずかしいのか、牧田さんは目を合わせたり逸らしたりしている。


「牧田さんに話があるんだ」


「......はい」


 牧田さんは俯いている。


 日和るな泉谷幸大。一度決めたことだろ、言ってしまえ。


「ま、牧田さんが今もまだ、ぼ、僕の血を飲みたいと思っているなら...その、の、飲んでも良いよ?」


 なんか言い方が気持ち悪い!これは引かれる!て、訂正を...。


「い、いや、嫌なら良いんだよ。もう飲まなくていいとかなら別に。無理強いはしないし。なんだ無理強いはしないって。そりゃ当たり前だろってね、ハハ」


 あたふたしながら訂正したけど、牧田さんは一向に顔を上げない。


「ご、ごめんなさい。その、まだ恥ずかしくて」


 あの日の出来事が、相当根深いところまでいっているらしい。


 恥ずかしいなら仕方ないか。


 いや、待て。そこで終わらせようとするな、僕。僕が聞いたのは、血を飲むか飲まないか、だ。これは答えじゃないだろ。


「の、飲みたいとは、まだ思ってたりする?」


「......」


 あー、ヤバい。とうとうマジで嫌われたかも。しつこく聞くことじゃないし、そもそも、牧田さんの傷を抉ってるだけじゃないか!


 あれこれ反省していると、牧田さんは僕の目を見つめた。


「...正直に言うと、まだ、泉谷くんの血を飲みたいとは、思っています。でも、恥ずかしいんです。私、泉谷くんとほとんど喋ったことないのに、自分の正体を告白して...あんなことして...」


 牧田さんは涙目になりながら、自分の身の内を零した。


 まあ確かにそうだ。あれは誰だって恥ずかしいし、あんなことした手前、再び血を飲もうだなんて、恥ずかしくてできっこない。


「だ、だから、ごめんなさい...!」


 逃げるように走り去っていく牧田さん。


 こうなってしまった以上、僕にできることは何もない。牧田さんが拒絶するなら、これ以上の深追いはしない。それは、お互いのためだ。


 そう、お互いの...。


「牧田さん!!!」


「!?」


 僕はいつの間にか、牧田さんの腕を掴んでいた。


 違う。お互いのためじゃない。それは自分の保身にすぎない。牧田さんは、本当はまだ僕の血が飲みたいと言っていた。


 このまま引いても、何も進まない。何かを起こさない限り、平行線を辿るだけ。


 そして、何かを起こすのは僕じゃないといけない。今度は僕が、勇気を出す番だ。


「恥ずかしくて嫌なら、まずは......」


 緊張する。逃げたい。嫌われたくない。


 でも。


「僕と、友達になりませんか!!!」


 ここ数年で、一番の大声が出た。


 牧田さんは驚いた顔を浮かべている。


「な、なんで泉谷くんと...?」


 うぐっ!?わ、悪気はないとわかっているけど、今の一言は心に刺さる...。


「牧田さんは、僕と面識がないから恥ずかしいと思っちゃうんだよね?なら、面識を作って、それである程度仲良くなったら、吸血できるんじゃないかなーって。や、別に嫌ならいいよ?僕なんかと友達になったところで良いことなんてないし、恥ずかしくならない保証も無いしね。ってこいつまた保険かけとるよ意気地ねえなってねー、思われちゃっても仕方ないよねー、ホント、ハハ、気持ち悪いですよねー」


 あー、恥ずかしい。早口で言ってる自分が恥ずかしい。死ぬほど保険かけてる自分が恥ずかしい。今すぐ飛び降りようかな...。


 なんて思っていると、牧田さんが突然「ふふ」と笑い出した。


 わ、笑われた...?


「泉谷くんって面白いですね」


 そう言うと、目尻を指で拭って、僕の目を見つめた。


「確かに、それは良いかもしれませんね......わかりました。恥ずかしいですけど、今日から私と泉谷くんは友達です」


 顔を赤らめながらも、にこやかに笑みを浮かべる牧田さんに、思わず見惚れてしまった。


「では、明日からよろしくお願いしますね?泉谷くん」




 翌日。


 僕と牧田さんは、楽しく一緒に話をして......いなかった。


 互いに気になっているような素振りは見せてるけど、話しかけることはない。


 僕は机に突っ伏しながら牧田さんをチラチラ見て、隣の牧田さんは常に女子に囲まれながら、僕のことをチラチラ見ている。


 なんか、微妙な距離感が構築されている。


 友達、といっても、僕は友達というものを大して知らない。昨日は勢いで口走っただけで、実際僕は何をすれば良いのかわかっていないのだ。


 やってしまった。勢い任せはいずれ躓くと、中学生活で学んできたはずだ...!何やってんの...。てか、友達って自然になってるものであり、口約束でなるものではないんじゃ...?


 迂闊だった。自分に友達がいないことを忘れていた。


 それに、正直なところ、牧田さんから僕に話しかけてくるだろうと、心の中で少し思ってた。完全なる甘えだった。


 そう、そもそも牧田さんと僕が友達になったのは、僕に対しての恥ずかしさを克服するためだ。そもそも僕と話すことでさえ恥ずかしいと思っている牧田さんが、自ら僕に話しかけるのはハードルが高いはず。


 わかってたことなのに、頭からすっぽ抜けてた。


 ...これは、僕が提案したことだ。僕がやらなきゃダメだ。


 挫折するな、泉谷幸大。女子に話しかけるくらいやってのけろ。


 ぼっちの僕にとっては、色々ハードルが高い。第一に、自分から話しかけるのが難しい。第二に、異性に話しかけることが難しい。第三に、既に誰かと会話している状態に割り込む形で話しかけるのが難しい。難易度マックスだ。


 高い壁、乗り越えてみせようじゃないか...!


「あ、あー、あの、あのあ...」


「時雨ちゃんって髪綺麗だよねぇ。普段シャンプー何使ってんの?」


「あーシャンプーはルックスを」


「牧田さんってピアノ習ってるんだっけ」


「ええまあ、所用で家に篭りっきりだったので...」


「へー、お嬢様育ちだ」


「そんなことは...」


 ...入れん。何度か「あの」とか「その」とか言ってるけど、かき消される。声が小さいんだよね、わかってるよ。もっと腹から声出せってね。


 出ねえんですよ。全然喋らんもんだから出ねえんですよ。それに、こんだけ話し込まれると入りづらいんです。しかもなんか、金髪の人がこっち見てて怖いんです!


「無理ですわぁ」


 そして結局、話しかけることができないまま、ランチタイムに入ってしまった。


「はぁ...」


 トイレの鏡に映る自分の顔に、思わずため息をついてしまう。


 どうしたら、どうしたらいいんだ...!今日は無理か?いや、そうやって逃げてどうする。逃げるな、今日やれ。たまには頑張ってみせろ...!


 よし、男泉谷、次牧田さんにあったら話しかけてやる...!


「泉谷」


「は、はぃぃ!?」


 男子トイレから出てすぐに話しかけてきたのは、牧田さんではない、別の女子生徒だった。


 その女子生徒は頭髪が金色で、スカート丈もバリバリ上げてる、なんというか、僕からしたらとても怖い風貌をした人だ。


 この人は確か、僕と同じクラスの小倉美代(おぐらみよ)さんだったはず。いつも牧田さんと一緒にいる人で、さっきこっちを見てた人だ。


「あんた最近、牧田に話しかけようとしてるよね」


 怖い。めちゃめちゃ睨まれてる。


「あと、最近牧田のことチラチラ見てるでしょ、あれなに?」


「いやその...」


「あんたも牧田のこと狙ってんの?それとも何?ストーカー?だったらここで」


「す、ストーカーなわけないじゃないですか!」


 だったらここで何?殺すの?普通に言いそうなんだけど...。


「じゃあ何。ずっと牧田のことチラチラ見て、正直キモいよ。用事があるならモジモジしないで、とっとと済ませろよ」


「ま、まあ、そうなんですけど...」


「はぁ、はっきりしねーなー。じゃあ私、牧田呼んでくるわ」


「え、ちょっと」


「私は、あんたみたいな女々しい男がキモくて嫌いなんだ。そんなキモい奴が友達の周りにいてほしくないわけ。だからとっとと終わらせて」


 そう言うと、小倉さんは廊下を走っていった。


 こっわい。僕の心臓が破裂しそうだ。あの人怖すぎる。ていうか、あの人牧田さんのことを友達って言ってたけど、本当にそうなの?確かに一緒にいるシーンは多いけど、なんか信じられない。だって、性格違くない?相容れなさそうだけど...。


 それにしても、側から見ても僕のこの言動は気持ち悪いんだな。友達になったってのに、友達になれた気がしないよ。だって僕、気持ち悪いらしいし、そんな奴が牧田さんの友達でいいわけがないでしょ?


 これは、本格的に自分を治さなければ...!


「連れてきたぞ。ほら、用事あんなら済ませろよ」


 目の前に小倉さんと牧田さんが立っている。


「は、はい」


 なんで小倉さんが指示してるの?と思わなくはないけど、僕に抗議する権利があるとは到底思えない。


「泉谷くん、何ですか?」


 不思議そうに僕を見つめる牧田さん。仕方ない、話そう。ただ、一つ問題がある。


「えと、二人で話したいんだけど...?」


 小倉さんの顎を見ながら言う。すると小倉さんは少し黙ったあと、背中を向けて歩き出した。


「牧田になんか変なことすんなよ」


「し、しないよ!」


 去っていく小倉さんの背中が見えなくなるまで待つ。待っている間、牧田さんは「悪い人じゃないんですよ?」とフォローを入れていた。


 まあ、雰囲気は怖いけど、どことなく悪い人ではないっていうのはわかる。怖いけどね?


「じゃ、じゃあここじゃ話しづらいから、場所変えよっか」


「はい。あ、でしたら良いところありますよ」


 牧田さんについていって辿り着いた場所は、空き教室だった。空き教室といっても、移動教室で使う教室だから、使われてないわけじゃないけど。


「ここなら誰にも聞かれないです」


「そうだね。じゃあ、まずは...」


 話をしたいところだけど、まず先にやらなきゃいけないことがある。


 僕は拳を握りしめて、頭を下げた。


「ごめん!友達とか言った割に、友達らしいことできてなくて!これじゃ、牧田さんの恥ずかしさを消すことができないのに...」


 突然頭を下げて謝られたものだから、牧田さんは少し驚いていたが、そのあと直ぐに牧田さんも軽く頭を下げた。


「わ、私こそごめんなさい!私も...話しかけられなくて...」


「ま、牧田さんのせいじゃないよ!牧田さんはそもそも僕を見ると恥ずかしくなっちゃうんだから、話しかけられなくて当然だよ。僕から話しかけるべきだったんだ」


「泉谷くん...じゃあ、おあいこということでいいですか?」


「う、うん。ごめん」


「謝らないでください!これで謝るの終わりにしましょう!そして、明日からお互い頑張りましょう!そうじゃないと治りませんから」


「そ、そうだね。これで終わりにしよう」


 牧田さんは僕とは大違いで、常に前向きだ。住む次元が違う気がする。


「それで、なんのお話を?」


 ようやく本題に入れる。


 僕が牧田さんと話したいことは、一つ。


「話っていうか、聞きたいことなんだけど...牧田さんについて、もう少し聞きたいんだ」


「わ、私の?いいですけど」


 本当はもっと、世間話的な感じの話をして親睦を深めた方がいいんだろうけど、生憎とそれをできるほどのトーク力もなければ、話題もない。


 それに正直、牧田さんについて知らないことは多い。だから、聞いておきたい。


「牧田さんが吸血鬼っていうのは、本当なんだよね?」


「は、はい。生まれた時から吸血鬼です。証拠は、無いですけど」


 そんなことを言っているが、あの時見た歯と目が証拠だ。


 出生とか色々気になるけど、そこは深く聞かないようにしよう。


「じゃあ、吸血鬼のことを詳しく教えてくれる?」


「吸血鬼...実は私もあまり知らされてですけど、日光が嫌いで、人の血を飲むとは聞いています。私も数年前は飲んでましたからね」


「今は飲んでないんだっけ?」


「はい、我慢してます。ただ、泉谷くんを見ると、たまに血を吸いたくなります」


「たまに?いつもじゃないの?」


「まあ、厳密に言うと、泉谷くんを見ているときは、常にうっすらと『吸いたいな』って思います。ただ、あの日みたいな激しい吸血衝動は例外でして、いつ何時来るかわからない発作のようなものなんです。なので、いつもあんな感じなわけじゃないですね。あれ、一年生の一回以降、起きなかったんですけどね...」


 なるほど、吸血したいという気持ちにも二パターンあるんだな。常にうっすらと、一気に爆発の二パターン。もしかしたら、あの時の赤い目と牙は、一気に爆発状態限定なのかもしれない。


 うーん、難しいな。


 あれこれ唸りながら考えていると、牧田さんは窓際まで歩いていって外を見つめた。そして、窓を眺めながらポツポツと話し始めた。


「私、こんな特殊な生まれなので、少し前まで閉鎖的な空間で育ってきたんです。日中、外には出られず、出られたとしても夜中で、同伴者付き。だからずっと、明るい時間に友達と外で遊んでるみんなが、羨ましかったんです」


 吸血鬼は日差しが苦手と聞いたことがある。ていうか、牧田さん本人もそう言ってた。多分、日中に出られないのはそれが原因だろう。


 閉鎖的な空間で育てられた。


 それは、僕には理解できないような色々な問題があるからだと思う。幼少期という人間形成に重要な時期を、友達と過ごさず独りで過ごした。同伴者がいると言ってたから、完全孤独というわけではないかもしれないけど、きっと、孤独を感じてたと思う。


 今の僕には、痛いほどわかる。


 牧田さんは、外への羨望を抱えながら生きてきたんだ。


「きっかけは単純でした。ふと、窓の外から、制服姿の女子高生を見た時『私もあの服を着て、学校に行きたい』って思ったんです。普通の女子高生に憧れたんですよ。その憧れを抱いてからというもの、私は血を我慢し続けました。普通の女子高生は血を飲みませんから、それに少しでも近づこうと思ったんです。そしたら、お母さんから言われたんです。『高校に行って良い』って。幸い、勉強はやってきたので、無事に合格することができました。そして、今に至るわけです」


「そ、そんなことが...」


 正直、ここまで深く聞く気はなかったけど、聞けてよかったと思ってる。


「じゃあ、次は泉谷くんの番です!」


「え?」


「『え?』じゃないですよ!人のこと聞いておきながら、自分のことを話さないのはフェアじゃありません!ほら、泉谷くんも!」


「わ、わかったよ...」


 そうして僕は自分のことを喋った。なるべくフェアになるように、詳しく。


 話しているうちにわかったけど、自分のことを詳しく話すのは、相当勇気がいる。他人に自分の内側を見せるんだ、そりゃ当たり前の話だろう。


 そう考えると、よくこんな変な男に自分のことを曝け出したものだ。勇気がいるだろうに。


 まあ、何故そこまで深く話したのか、まではわかりっこない。それを聞くのも、何となく失礼な気がする。


「そういえば、お昼はまだですか?」


 牧田さんが問いかける。


「あ、あー、まだだね...」


「でしたら、ここで一緒に食べませんか?」


「そ、そうだね。一緒に食べようか」


「じゃあ、お弁当とってきますね」


 牧田さんはそう言うと、小走りで空き教室から出て行く。


 そうして、ゲリラ的に、二人きりのランチタイムが始まった。弁当箱を持って戻ってきた牧田さんが隣に座り、僕も弁当箱を開ける。


「...」


「...」


 黙食が続き、気まずい...。何か話題!話題を!


「そういえば牧田さんって、弱点とかあるの?」


「じゃ、弱点!?」


「あ、いや、吸血鬼ってあるじゃん。にんにく嫌いとか...」


「あ、あー、にんにくは大丈夫だったんですけど、昔は日光がダメでしたね。アレルギーみたいな症状が出てしまうんですよ。でも今は、大丈夫ですね。まあ、得意ってわけじゃありませんけど、日中にも過不足なく行動できますし、克服はできてる感じですかね」


「へー、意外と現実的な症状なんだね。あ、鏡に映らないとかホント?」


「今は映るんですけど、昔は住んでいた場所に鏡がなかったのでわかりません。でも、窓に映る自分の姿を見たことはなかったので多分、映らないんだと思います」


「じゃあ今は、全体的に吸血鬼っぽさが無くなってるんだ」


「言われてみればそうですね。気にしてませんでした」


 あの状態の時は吸血鬼っぽくなるけどね。


 そんなことを喋っていると、チャイムが鳴った。


「じゃあ、帰りますか」


「そうだね」


 空き教室から出て、自分の教室へ向かう。その道中、僕の心はウキウキだった。


 なんか上手くいってる気がするぞ!身の丈話だけだけど、ちゃんと話ができてる!牧田さんもずっと笑ってたし、今日は成功でいいんじゃないか?


 この調子だ!次は雑談しよう!話題とかあれこれ考えて...!


 教室に着いても尚ウキウキな僕。


 そんな姿をただ一人、小倉美代はジッと見つめていた。




 翌日。


「ま、牧田さん、おはよう」


「泉谷くん、おはようございます」


「いやー今日は暑いね」


「そうですね。もう夏が近づいてますよ」


 牧田さんと他愛のない話をする。


 平然と喋ってるように見えるけど、実のところ、結構緊張している。気に触るようなこと言ってないよね?


 牧田さんもまだ僕に慣れていないのか、目線が斜め下を向いている。まあ無理もないか。


 今も多分、牧田さんは血を吸いたいとうっすら思っていて、同時に恥ずかしいとも思っているだろう。


 早く治してあげたいところだ。


「席つけー。ホームルーム始めっぞ」


 チャイムの音と薮原の声を合図に、また一日が始まった。


 授業中はずっと牧田さんと何を話すかどうか考えていて、あまり話を聞いていなかった。そのため、気づいたら昼休みに入っていた。


「泉谷くん!」


「どうしたの?牧田さん」


「一緒にご飯食べましょう!」


 嬉しいお誘いだ。牧田さんは引く手数多なのに、自ら僕を選んでくれた。ならば、僕もそれに応えようじゃないか!


「うん、食べよっか」


「じゃあ、昨日の教室で食べましょう!」


 牧田さんはそう言うと、小走りでとある女子の元へ行った。小倉さんだ。


「美代も一緒に食べましょ!」


「私はいい」


「な、なにか用事があるんですか?」


「まあね」


「そ、そうですか。じゃあ、明日は?」


「明日も無理」


「そ、そうですか...」


「じゃ、私は用事あるから」


「はい...」


 牧田さんが困った顔を浮かべながらこっちに向かってきた。何やら一物ありそうだ。


「美代も誘ったんですけど、断られちゃいました」


「何かあったの?」


「それが、わからないんです。昨日も誘ったんですけど、こんな調子ではぐらかされて...それに、昼食以外でも、なんか距離を感じるんです」


「そっか」


 まあ、いきなりよくわからないキモい男が入ってきたら嫌だもんな。これは本当に仕方ないし、申し訳ない。


「ま、まあ、今日は二人で食べましょう!では、行きましょうか」


「そうだね」


 空き教室へ向かうために、教室のドアを開け、廊下に出る。


「そういえば、昨日面白い動画を見たんですよ」


「へー、どんなの?」


「この人なんですけどね?」


 牧田さんはそう言うと、スマホの画面をこちらに向けた。僕は、画面を見るために牧田さんに近づく。


「?」


 なんか、画面がどんどん離れていくんだけど?


 不思議に思って牧田さんの方を向くと、顔を真っ赤にして俯いていた。


 その様子を見て、一瞬「何故?」と思ったけど、その後すぐに理解した。理解した瞬間、こっちも無性に恥ずかしくなってきた。


「ご、ごめんなさい!ちょっとまだ慣れてなくて...!」


「あ、うん、こっちこそごめん!えと、スマホ机に置いて見ようか」


「そ、そうですね!」


 そそくさとスマホを横にして机に置く。


 動画が流れ始めたけど、集中できない。さっきの情景がフラッシュバックして、謎に鼓動が早まってしまう。


 な、なんだ!?僕にまで恥ずかしさが移ったか?意識しちゃうんだけど!?


 意識してしまうと、どうしても画面ではなく、牧田さんの方を見てしまう。そして、いつの間にか動画が終わっていた。


「お、面白かったですか?」


 牧田さんは集中して見れただろうか?牧田さんの顔がまだ赤いことから、多分集中してなかったんじゃないか?


 まあ、そう言う僕も、全然集中できなかったんですけどね...。


「お、面白かったよ!家でも見てみるね」


「は、はい!そうして下さい!」


 バリバリに嘘を吐いたけど、なんとか誤魔化せた。


 そんなこんなで、牧田さんとの昼食タイムも終わり、午後の授業もほどほどに、帰り路についた。


 あの時の気持ちを思い返す。


 あれ、なんだったんだろう。例え人見知りな僕といえど、距離が近い程度であそこまで恥ずかしくなることはない。


 もしかして、恋?


「いや、ないない」


 あり得ない。あり得てはいけない。僕じゃ牧田さんの相手は務まらないし、勿体無い。好きになるなんて、流石に無いだろう。そう、だよね?


 ...考えないようにしよう。


 翌日、同じように僕たちは空き教室で弁当を食べていた。昼食しか話さないんか?と思われるかもしれないけど、そうです。常に牧田さんの周りには人がいるし、話には入れない現状が続いている。


 牧田さんも話しかけようとはしてくれてるけど、周りの会話が永久に続く以上、あんまり話しかけるに至れていない。


 だから、この昼食の時間は、二人が心置きなく喋ることができる唯一の時間なのだ。ね?仕方ないでしょ?


「......」


「牧田さん?大丈夫?」


「あ、いえ、大丈夫です。考え事をしてただけなので」


 なんか上の空だ。何かあったのか?少し様子が変な気がする。でもまあ、本人が大丈夫って言ってるならいいか。


「今日は天気がいいね」


「そうですね。まだ六月ですのに、暑い日が続いてますね」


「そうだね。もうちょっと雲がかかってくれればいいんだけど」


「雲さんには頑張って欲しいですね。がんばれー」


 腕を上げて雲を応援し始める牧田さん。


 その光景に、思わずドキってしてしまう。またあれだ。なんなんだ?ウブか?ウブなのか?それとも青春か?青臭せーなー!


 なんて、心の中で茶化さないと、平穏を保てなくなる。


 牧田さんは、容姿も性格もいいってことは知ってたけど、少し抜けてて可愛らしい一面があることは、知り合う前は知らなかった。知れば知るほど、牧田さんとの距離が近づいているように見える。


 性質を知るというのは、牧田さんの恥ずかしさを克服するために必要かもしれない。


 ならば尚更、治さないといけないことがある。


 学校を終えると、速攻で家に帰った。


「佳奈、少し良いか。相談したいことあるんだけど」


「どした?悩み事?」


「うんまあ、そう」


 僕の人間関係の師匠、泉谷佳奈は、アイスの棒を咥えたままソファに座っていた。


 さて、話そうか...。


「相手が誰かと話している間に話しかけるのって、どうすればいいんだ?」


 僕が克服しなきゃいけないのはこれだ。二人きりの空間では話しかけられるけど、複数人いると日和って話しかけられなくなってしまう。


 あの状況で話しかけられないのは、友達としてどうなんだ?って常々思っていた。そんなんで勇気を出せないようじゃ、牧田さんのことを知ることなんてできない。


 これは何としても、克服しないといけない。


「なっはっはっは!コウ!そんなんで悩んでんの?そんなん、間に入って『ちょっと良い?』とか言えばいいじゃん!てか、普通言わないし」


「でもそれって、失礼じゃないか?話してる人も不快に思わない?」


「はっはっは!何言ってんの!他の人もやってるんだし、そんなん一々気にしてないよ!そもそも、誰かに不快とか思われるより、話しかけたいのに話しかけれないことの方が、よっぽどストレス溜まるでしょ!私はそんなのやだよ」


「そ、そんなもんなのか?」


 妹は相当僕の相談内容がツボに入ったらしく、しばらく腹を抱えて笑っていた。


 笑われたことに悲しみを抱きながら部屋に戻ろうとリビングのノブに手をかけると、「コウ」と呼びかけられた。


 佳奈は涙を指で拭い息を整えると、僕の目を見据えた。


「やり方なんて、私に聞かなくたって本当はわかってるんでしょ?コウはただ、他人に嫌われる勇気が出てないだけ」


 こいつは本当によくできた妹だ。体はまだ小さいのに、僕より数歳歳上に見える。


 よくわかってらっしゃる。


「そう簡単に勇気なんて出るもんじゃないよ。大事なのは、他人の評価を気にせず、考えないこと。まあ、そんな直ぐに気にするなって言われても、できるわけないよね」


 佳奈は、立ち上がって僕の背中に手を当てた。


「でも、その相手さんがコウにとって特別で大切な人なら、他人の評価なんて気にする必要は無いよね。だって、その人がいるんだから」


 そう言うと、僕も背中を思いっきり引っ叩いた。


「痛いよ!」


「気合いいれようぜ兄ちゃん!気合いが入ってりゃ、なんとでもなるさ!なっはっは!」


 また江戸っ子みたいな口調で笑い始めた。


 締め方はふざけてるけど、助かった。心が軽くなった気がする。


「ありがとうな、佳奈。頑張ってみるよ」


「おう!気張りな!」


 そうして僕は、妹の助言も受けて、次に日に進んだ。


 次の日の、二限終わり。


 朝はちょびっと会話をしたけど、その後周りに人が来ちゃって無理だった。


 今、話しかけよう。今も周りに人がいる。でも、僕は昨日の夜に決めたんだ。


 覚悟を決めて、立ち上がる。


「ま、牧田さん」


「時雨ちゃん、教科書見せて?」


「良いですよ」


「牧田さん、今度のテニスの授業、ダブルスで私と組もう!」


「あーずるい!牧田さん強いし、私と組むー」


「じゃあ、牧田さん分割しよ!」


「それあり」


「あはは、私は一人しかいませんので、それはできませんよ」


 声が小さくて、掻き消されてしまった。


 諦めたくなる。そして、彼女たちの会話を聞いていると、自分のこの小さな悩みがバカらしくなってきた。


 何やってんだろうな、僕。なんか、どうでもよくなってきた。


「......」


 腰が下がっていき、尻が椅子につきそうになった瞬間、牧田さんの顔が頭に浮かんだ。


「...諦めるな、泉谷幸大」


 勇気を出せ。それで諦めれば、僕は一生前に進めない。明日じゃなく今、そして、言い訳も開き直りもするな!


『その相手さんがコウにとって特別で大切な人なら、他人の評価なんて気にする必要は無いよね。だって、その人がいるんだから』


 そうだ、他人のことなど気にするな!そもそも、ぼっちの僕に、評価なんてあってないようなものだろ!


 それに...。


 それに、牧田さんは僕にとって、大切な人なんだ。こんな僕にも気兼ねなく話しかけてくれる、唯一の人なんだ。


 なら、言えるはずだ!


 泉谷幸大!!!


「牧田さん...」


「でさー、あの時」


「牧田さん!!!」


 牧田さんを呼び止めた時以来の大声が出た。


 まずい!大声出さなすぎて、音量調整失敗した!めっちゃ見られてる!


 牧田さんもその周りの人も、何が起きたかジーッと静観してる。


 どうしようか!?やばいこんなの初めてだから、アガってしまう!


「えと」


「泉谷くん?」


 牧田さんの心配そうな目線が痛い!


「て、天気良いよねー、なんて、ハハ......」


「く、曇りですよ?」


「......」


 遂に心が折れ、落ちるように席についた。


 その瞬間、さっきの沈黙が嘘だったみたいに、また教室に喧騒が戻ってきた。


 やっちまった感がエグい。これは嫌われる勇気とか、評価を気にしないとか、そういう問題じゃない。ただの失敗だ。


 でも、一応話しかけることはできたのかな...?


 机に突っ伏して落ち込んでいると、チャイムが鳴って授業が始まった。


 各々が席に座る中、誰かが僕の袖を引っ張った。


「泉谷くん」


 牧田さんだ。小声で僕を呼んでる。


「は、はい」


「私は好きですよ?」


「!?」


 え、何!?


「曇り空、私は好きですよ。太陽には苦手意識があるので」


 牧田さんは恥じらいながら、笑みを作った。


 牧田さんに気を使わせてしまった。これはやっぱり失敗だ。


「そう、だね。僕も好きだよ」


 でも、この表情を拝むことができたなら、ある意味成功なのかもしれない。




 それからも、僕たちの日常は続いた。


 昼食中の会話もうまく行ってるし、それ以外でもちゃんと喋れている。まあ、依然会話中に割り込めないんだけど...。


 それは置いといて、牧田さんも楽しそうで、僕も十分に楽しめてる。ただ、たまに手が触れたりすると、牧田さんは直ぐに反応して驚いてしまう。まだまだ先は長そうだ。しかしながら、着実に一歩一歩ゴールに近づいている。


 打ち解けてきているのが、肌でわかる。


 でも、ただ一つだけ問題がある。それは、牧田さんの表情がどことなく曇っていることだ。いつも笑ってはいるけど、ぎこちなく、話をしても心ここに在らずっていう時が多々あるように感じる。


 そしてそれには、一つ心当たりがあった。これは、僕が解決しなきゃならない。何故なら、その問題の発端は僕にあるからだ。


 いつも通り、()()で空き教室に入る。


「ごめん、今日弁当無いから、購買で買ってくるよ。先食べてて良いから」


「はい、わかりました」


 廊下を出てすぐに走る。購買に行くのではなく、問題を解決するために。アテはなかったけど、その人は意外にもすぐに見つかった。


 まったく、失敗したばっかなんだから、心労をかけさせないで欲しいものだよ。


 体育館前の自販機で、飲み物を選んでいる一人の女子生徒。


「小倉さん」


「何」


 小倉さんは自販機からコーヒーを取り出すと、僕の方を向かずに返事をした。


「僕、もしかして邪魔?」


「は?いきなり何」


「僕がいるから、牧田さんの誘いを断ったり、牧田さんと距離を置いてるのかなーって。いや、勘違いだったらいいんだけど」


 問いかけると、小倉さんは「はぁ」と短くため息を吐いた。その表情は、少し悲しそうだった。


 そして、コーヒーを見つめながらそっと口を開いた。


「牧田のためなんだよ」


「牧田さんの...?」


 疑問を投げかけると、小倉さんはゆっくりと空を見上げた。雲一つない晴天に、少し目を細める。


「私、高一の時、友達いなかったんだ。あんたもそうだけど、みんな私を怖がって遠ざけてさ、だから、私の周りには誰も寄らなかった。そんな私に、物怖じせず話しかけてくれたのが、牧田だった。牧田はあろうことか、友達になってくれって私に言ったんだ。あれは驚いたね。こんな無愛想な私に言う言葉じゃない。でも、嬉しかった」


 懐かしそうに語る小倉さん。その表情は、とても柔らかく優しげで、僕が抱いているイメージとは丸切り違うものだった。


 なるほど、牧田さんらしいな。牧田さんと小倉さんじゃ相容れないと思ってたけど、そういう過去があったんだな。


「そっから私は、牧田のためになりたいって思いはじめた。で、牧田は男からモテるから、結構しつこく追い回されたりしてて、私はそれを追っ払ってたんだよ。幸い、見た目も性格もこんなんだから、だいぶ上手くいってた思う。そんなこと続けてたら、遂に男たちが全然寄らなくなった。その時私は初めて『役に立てた』って思った」


 言われて思い返す。そう言われてみれば、確かに牧田さんの周りに男子がいたのを見たことないかもしれない。遠目で見てたりするけど、近寄ってはいない気がする。


 なるほど、そういうことだったのか...。


「んで二年になって、また牧田と同じクラスになって、同じことやってた。そんな時、あんたが牧田のこと見てたんだ。あんたがチラチラ見てた時は『またかよ、キモいな』って思った。そういう男には、ガツンと一発睨みつけてやれば、二度と見てくることはない。でも、それはできなかった。何故なら、牧田も同じようにあんたのことを見てたから」


 僕が見てるってわかったなら、牧田さんも僕のことを見てるとわかったはずだ。にしても、男対策がしっかりできておる...。そりゃ寄り付かんわ。


「そこで私はもどかしくなって、あんたに声かけて二人を引き合わせた。その時は、牧田にすり寄る男なんて、どうせ私利私欲のキモい奴しかいないって思ってた。これまでそうだったし、あんた、実際キモかったし」


「キモ...かった...」


「最初は二人の様子を見ようと思って、昼食を断って、牧田とあんたの様子を覗き見してた。ま、会話内容は聞こえなかったけど」


 さらっと告白したね。内容聞かれてなくてよかったぁ。


「聞こえてなくとも、なんとなくわかったよ。牧田の表情が、二人の間に流れる空気が、あんたの人間性を物語ってた。違ったんだよ。私の考えは、間違ってた。あんたは牧田のこと考えてて、牧田もあんたのこと考えてた。私はとんだ勘違いをしてたんだ。私利私欲のやつばかりじゃなかった。そして同時に気づいたんだ。私がどれだけ迷惑をかけていたかを」


 雲が太陽に覆い被さり、小倉さんの顔に影がかかる。


「本当は牧田の友達になり得たかもしれない。かけがえのない存在になってたかもしれない。そんな可能性があったのに、それを潰してしまっていた。しかも、そのせいで牧田の印象も、少なからず下がってしまった。そう感じてから、『牧田のために』と思いながら、あんなことをやってた自分に、心底腹が立ったんだ。だから私は今、牧田から離れてる。私という存在が恐怖されている以上、私がいれば、同じようなことが起きるだけだから」


 そういう考えのもと、小倉さんは距離を置いているのか。


 でも、わかる気がする。この人と僕では、性別も考え方も全然違う。しかし、「牧田さんのため」という意思に基づいて行動し、結果間違ってたということに気付いた。それは僕も小倉さんも同じだ。


 盲目になって、結局利己的になってしまう。そんな自分に、腹が立つ。


 痛いほどわかる。


 小倉さんはコーヒーをグイッと飲み干すと、ゴミ箱に向かって投げた。


 缶はゴミ箱から落ち、甲高い音を響き渡らせる。


「あいつさ、完璧に見えて意外にも結構抜けてるとこあるんだよ。そのせいでなんなら、一回死にかけたことあるしな。しかも、悩みとか一人で抱え込む癖がある。あーあと、隠し事が多いな」


 一呼吸の間に缶を拾い上げて、落とすようにゴミ箱に捨てた。


「牧田があんたを信頼してるなら、私もあんたを信頼する。だから」


 振り返った小倉さんの顔には、無理したような、不器用な笑顔が貼り付けられていた。


「牧田を、頼んだ」


 その笑顔から、小倉さんの感情は読み取れない。多分、心の中では色んな感情が入り混じってるんだと思う。


 でも、これだけはハッキリと言える。


 小倉さんのこの言葉は、本心ではない。


「本当は、一緒にいたいんだよね...?」


 震えた声が出る。


 小倉さんからは、諦めに似た顔と「無理だよ」という返事が返ってきた。


「私がいたら、牧田に迷惑だ。牧田に迷惑をかけるくらいなら、私は離れる」


 確かに、小倉さんがいるせいで、男子が怖がって近寄ってこないのは事実だろう。


 でも、それじゃダメなんだ...!離れるという選択肢を選ぶのは、ダメなんだ...!


 それは、牧田さんも小倉さんも、どっちも幸せにならないんだよ!


「じゃあ、あとはよろしく。牧田は頼んだよ」


 去っていく小倉さん。


「小倉さん!!!」


 僕は迷いなく、その腕を掴んだ。


「なんだよ」


「それはダメだよ!君が離れては、ダメだ!」


「しつこいなぁ。迷惑かかるって言ったでしょ」


「迷惑とかそういうの関係ないよ!牧田さんは小倉さんとずっと一緒にいて、今でも友達だと思ってる!何度断られても、昼食に誘い続けてるのがその証拠だよ!牧田さんは、小倉さんのことをずっと心配してるんだ!一緒にいられなくて悲しんでるんだ!だから」


「でも、私は一緒にいられない」


 本当に強情な人だ。


 小倉さん、君はわかってない...!その気持ちが、その選択が、どれだけ牧田さんを傷つけているか。そして、どれだけ利己的か。


「それじゃ、利己的なままじゃないか!牧田さんは悲しんでるんだ!一緒にいたいと思ってるんだ!本当に牧田さんのためを思うなら、牧田さんを悲しませるような選択を選ぶなよ!!!」


「!?」


 いかん、熱くなってしまった。


「...僕も以前は、牧田さんのためになろうと思ってた。でも、思ったということに満足して、行動に移そうとしてなかった。誰かのために何かをするというのがいかに難しいことか、そこで学んだよ。何が幸せで、どの行動がその人にとって良い結果を招くか、そんなの、僕も小倉さんも、多分他の人も、簡単にはわからない。でも、だから一緒にいるんだ。それを理解できるようになるために、もっと知るために、隣に居続ける。理解できない者は、そうするしかないんだ」


「......」


「ついてきて、小倉さん」


 そう言って、小倉さんの手を引っ張る。


「ちょ、ちょっと!?」


 言葉で言っても理解するのは難しい。ならば、小倉さんのとった選択が、牧田さんの目にどう映っているのか。そして、牧田さんが小倉さんのことをどう思っているか。それを確かめればいい。


「ただいま、牧田さん」


「あ、遅かったですね......って、美代!?やっと来てくれたんですか!?」


 小倉さんの姿を見るや否や、感涙の表情で手を大きく広げて、抱きしめる。


「ちょっと牧田!」


「良かったぁ!私、嫌われちゃったんじゃないかって思ってましたよ!でも、何で突然距離を取るようになっちゃったんですか?」


 その問いを受け、小倉さんの表情が暗くなる。


「迷惑がかかると思って...」


「迷惑?何故ですか?」


「私がいると、牧田の印象が悪くなるし、男も近寄らなくなるでしょ?」


「それが、美代の言う迷惑がかかるってことですか?」


「そう」


 しばらくの沈黙が続いたあと、牧田さんは子供に言い聞かせるように、優しい声でゆっくりと話し始めた。


「確かに、男の人は近寄らなくはなりましたし、私を見る目線が怯えてる時もあります。ですが、それは全て、美代が私を思って行動した結果でしょう?迷惑よりも、私を思って行動してくれたことに対しての感謝の気持ちの方が、断然強いですよ。なので、迷惑なんて思ってません」


「牧田...」


「むしろ、あなたがいることより、何も言わずにいきなり距離を取られることの方が、よっぽど迷惑ですよ?」


「...ごめん」


「許します。でも、今後一切、そういうの無しにしてくださいね?私、本当に心配してたんですから」


「牧田ぁ!」


「あら」


 涙をポロポロと溢しながら尚も謝り続ける小倉さんを、牧田さんは優しく抱きしめ、背中をさすった。


 子供のように泣く小倉さんを見ていると、どれだけ離れたくなかったか、その選択が不本意だったかがよくわかる。


「子供みたいで可愛いですね」


「うるさい!」


 そして、思った。


 この二人は、お似合いだ。




 牧田さんと小倉さんの軋轢も消え、僕たちに平和な日々が戻ってきたお陰で、牧田さんとの関係も段々と良好になっていった。


 しかし、またも問題が発生してしまう。


 チャイムが鳴り響き、次の授業が開始される。僕は教室ではなく、校庭に突っ立っていた。六月月中旬とはいえ、照り照りの太陽が校庭の真上に鎮座していて暑い。


 そう、その問題とは、体育の授業だ。


 今日からテニスが始まる。


 僕みたいなぼっちの体育といえば、二人組を組めと言われて、結局組めずに余ったところに入れられ苦い顔をされるか、先生と組まされていい知れない恥を感じるかの二択を強制される授業に過ぎない。


 ただ、テニスは対戦相手がランダムで決まるし、ペアを見つける必要がないから、そんな思いをせずに済む。


 開始前はそう思ってた。


「じゃあ今から準備体操するから、二人組組め。その二人組でダブルスするからなー」


 えええええええええええええ!!!


 って心の中で叫んだ。


 絶望とはこのこと。どうする?具合悪いって嘘吐くか?いやでもそしたら牧田さんが心配しちゃうだろうしな。


 牧田さんと組む?いや、それは無理だ。牧田さんは異性だし、二人組の準備運動には接触が伴う。未だに僕の手が触れただけで顔を赤らめるのに、できるはずがない。


「す、すみません、泉谷くん」


「あ、うん」


 それは当然本人もわかってるようで、牧田さんは僕に断りを入れたあと、小倉さんと組んだ。


 終わったな。万策尽きた。


 仕方ない。惨めな気持ちになるけど、余り物として君臨しよう。そうすれば、適当な人と三人組で組まされるだろう。惨めな気持ちになるけど。


 ペアが生まれていく景色を、惨めな気持ちになりながら見ていると、誰かが僕の肩を叩いた。


「泉谷、だっけ」


「は、はい」


 うろ覚えながら名前を呼んできたのは、ザ・体育会系って感じの髪型をした男子生徒だった。


 この人は確か...郡山透(こおりやまとおる)君だ。サッカー部の人。


「な、何か用?」


「俺と組まないか?」


 何故?郡山君は確か、友達がいたはずだ。そんな郡山君が僕とペアを組む?なんか裏がありそうなんだけど?


 まあ、いっか。僕としても渡りに船だ。多分裏があると思うけど、僕に害がないならいい。


「うん、いいよ」


「よし、決まりだな!」


 そうして僕たちは準備体操に勤しんだ。至って普通だ。話しかけられることも、話しかけることもない。気まずいけど...まあ、無理に話すこともないしな。


「泉谷ってさ、最近牧田さんと一緒にいるよな」


「あ、あー、うん、そうだね」


「牧田さんとはどういう関係なんだ?前まで話すらしてなかっただろ。なんで突然」


 説明を求められたけど、正直には言えない。


 さて、どうしたものか。無難に友達とでも言うか。


「ただの友達だよ」


 そう言うと、郡山君は安心したように胸を撫で下ろした。


「でもよ、牧田さんの隣には守衛がいるじゃん。あいつの目はどうやって掻い潜ったんだよ。俺たち男子じゃ、到底太刀打ちできないのに」


「守衛?誰?」


「いるだろうよ。守衛の小倉美代」


 あー...なるほど?そう言われてるのか。まあ無理もないわな。


「えと、小倉さんとも友達だから...」


 これは怪しまれる。と、思ってたけど、郡山君は少し訝しんだだけで、さして気に留めてないようだった。


 なんだ?聞くだけ聞いて、何が知りたいんだ?何を求めてるんだ?


「な、何をご所望で?」


 率直に聞いてみると、郡山君は少し言い淀んだあと、後ろを振り向いた。後ろには牧田さんと小倉さんが背中を預け、弓形に引っ張り合っていた。


「俺さ、牧田さんのこと好きなんだよね」


「え」


 その言葉の意味を嚥下し切るのに時間を要してしまい、瞬時に返事することができなかった。


 え、す、好き?


「好き!?」


「バカ!声がでけーよ!」


 怒られてしまった。でも、その反応するのも仕方ないよね?


「つーか、そんな珍しいことじゃねえよ...!クラスの男子ってか、この学年の男子の半分以上は牧田さんのことが好きだろ...!」


 恥ずかしそうに顔を赤ながら小声で呟いた。


 そういうものなの?まあでも、クラスのマドンナ的なポジションなのは知ってたし、理解はできる、かな...?


 でもなんか、なんか、そうだな...嫌だなって思っちゃうな。変だね。


「でも、小倉さんが見張ってるから近づけねえわけ。だからさ、泉谷、お前に協力して欲しいのよ」


「協力?」


「お前は我らが男子の希望。小倉美代の鉄壁を打ち破った唯一の男子。お前を経由して牧田さんに近づきたい。そのために、協力してくれ!頼む!」


 手を合わせ、懇願する郡山君。


 協力、ねえ。


「具体的に何を?」


「厄介なのは小倉さんの存在。お前には、少しでいいから小倉さんの目を欺いて欲しい。その隙に、俺は牧田さんに近づいて、ちょっとずつ仲良くなって......告白する」


「...なるほど」


 因みに、実は小倉さんの男子を寄せ付けない鉄壁バリアは、もう発動していない。ただ、鉄壁バリアが消えたのが最近ということ、そして、男子の中で「見たら殺される!」っていう観念が抜けてないこと、そのせいで、バリアが消えたと気づいていない。


 まあ、寄ってきたところで、そいつがクズだったりしたら、どの道小倉さんの鉄壁バリアで殺されるんだけどね。


 さて、考えるフリをしているけど、僕の答えは既に決まっていた。


「嫌だ」


「はっ!?」


 僕は小倉さんに信用され、牧田さんにもどうやら信用されているらしい。実際僕自身も、牧田さんに対してやましい気持ちはないし、信用に足る存在だと思っている。


 だけど、こやつはわからない。本気で好きなのか、それとも、小倉さんの言っていた「私利私欲のキモイやつ」なのか、判断がつかない。判断がつかなければ、信用できない。信用できない奴が近寄ってくれば、小倉さんのフィルターに引っかかる。


 それに、僕も信用できないやつを牧田さんに近寄らせたくない。ただでさえ、男子に追い回されてたんだ、ここで許して、もし郡山君もそういう男子だったら、牧田さんを困らせることになる。


 僕は一度、小倉さんに牧田さんのことを任されている。大それたことはできないけど、断るくらいはできる。


「な、なんで」


 てっきり「お前ただの友達だろ!?断る理由あんのかよ!?もしかしてお前も狙ってんのか!?あ!?」って言われるかと思ったけど、ただ普通に理由を求めてきた。


 ここはきっぱり言おう。


「牧田さんはこれまで、男子に追い回されて困ってたんだ。郡山君も、その男子たちと同じかもしれない。正直、信用できないよ」


「俺は...」


 すると、郡山君は悔しそうに自らのズボンを固く握った。


「俺は違う!信じてくれ!本気で牧田さんのことが好きなんだ!だから頼む!協力を...!!!」


 郡山君は、必死に懇願した。


 本気そうだけど、演技かもしれない。そもそも、口ではなんとでも言える。


 でも...なんか嘘を吐いてるようには見えないんだよな...。


「...僕はまだ、郡山君を信用できない」


「泉谷!」


「だから、信用に足るかどうか、郡山君が本気かどうか、証明してよ」


「しょ、証明...?」


「僕が許可したところで、今の郡山君じゃ、小倉さんの鉄壁に打ち負けるだけだよ。だから、本気さを見せつけて、郡山君の身が潔白かどうか証明してよ。僕と小倉さんに、君の本気を見せてよ」


「ほ、本気...」


 牧田さんが本気で好きなら、牧田さんのために本気になれるはずだ。さて、問題は何で本気度を測るかどうかだ。


「準備体操やめ!そのペアのままダブルスの練習すっぞ!一ヶ月後はトーナメントを行うから、覚悟しとけ!」


 これだ。


「このトーナメントで優勝したら、君を信用するよ」


 このクラスは体育会系が多い。運動神経はいいかもしれないけど、優勝は難しいだろう。さらに、僕という足手纏いが、その難易度を爆上げしている。


 相当な研鑽と努力をしないと、勝利はもぎ取れない。


 これで勝てたら、流石に郡山君の気持ちが本気ってわかる。本気とわかれば、信用に足る。


 さあ、この条件を飲むか?郡山透...!


「...わかった。俺がどれだけ本気か、優勝して証明してやる!!!」


 郡山君は、燃えたぎっていた。この挑戦を受けて、逆に盛り上がっちゃったか。相当張り切ってらっしゃる。


 でもまあ、受けるというなら、僕も応えよう。


「このことは、ちゃんと小倉さんに伝えておくよ。じゃ、郡山くんの本気、楽しみにしてるから」


「お前誰だよ」




「って、いうことがあったんだけど、どうかな、小倉さん」


 これまでの顛末を伝えると、目の前の小倉さんはサンドイッチを机に置いて、目を瞑った。


「郡山の今の実力はどうなの?」


 今日の練習風景を思い返す。


 結果は...微妙だった。


「僕よりかは断然上手いけど、流石に初心者なだけあって、テニス部とか、他のサッカー部に負けてたかな」


 そう言うと小倉さんは「なるほど」と呟いて、顎に手を当てた。


「このトーナメントに優勝するってことは、相当努力が必要だろ?それほど努力するような奴が、クズ男とは思えないし...いいんじゃないか?」


 あと、付け足すように「まあ、クズってわかったらアレだけど」と言った。


 アレって何!殺すの?怖いんだけど!なんでこの人全てを言わないんだ?


「郡山のことはいいとして、あんたはどうなの、それ」


「え?どうなのって?」


「このままもし、郡山が優勝したら、牧田と郡山がくっつくかもしれないよ。あんたはそれでいいの?」


「そう言われても、くっつくかどうかは牧田さんが決めることであって、僕が決めることじゃないし、僕が良し悪しを決めるのはおかしい話ですよ」


「あっそ。後で後悔しても知らないよ」


 何を言っているのか。後悔とか、そういうのはないはずだ。郡山君がいい奴だったとして、それで牧田さんと付き合うことになったら、それはそれでいいじゃないか。郡山君はイケメンだし、僕より断然男としてイケてる。


 それに、そういうのは僕がどうこう言う問題じゃない。決めるのは彼らだ。


「すみません遅くなっちゃって!じゃ、お昼食べましょっか」


「そうだね」


 そう、付き合う付き合わないは、僕が決めることじゃないんだ。牧田さんが幸せなら...。




 何はともあれ、郡山君の今後をかけた、テニス期間が幕を開けた。


 あれから一週間後、今日はテニスの予備試合の日だ。


「じゃ、適当に対戦相手決めろー」


 体育教師の秋元の掛け声がかかり、対戦相手を決めに動く。


 試合のルールは、通常テニスとは異なり、試合数を多くするための工夫がなされている。試合は1ゲームのみで、4ポイント先取。タイブレークは無しで、同点になったときの2ポイント先取も無い。だいぶ簡易的だ。わかりやすい。


 こういう時、僕は対戦相手を見つけられず、教師の目を盗んで一人でなんかしてるけど、今回はダブルスで郡山君がいる。郡山君はすぐに対戦相手を見つけていた。


 対戦相手は同じサッカー部の人たち。栗山君と細田君だ。


「よっし、行くぞ。お前ら!友達だからって手は抜かないからな!」


「俺たちも抜かねーよ!」


「第一、お前一人みたいなもんじゃん!こっちは勝ち確だわ!」


 そう言うと奴らは腹を抱えて笑った。


 そんなに笑う?ていうか、僕戦力として数えられてなくない?まあ、そうなんだけどさ...。


「ぜってー勝つ。泉谷、お前はなんもしなくていい。俺が全部やる」


「う、うん」


 返事をすると、雁行陣を組んだ。


 どうやら、郡山君からも戦力とは見られていないようだ。


 サーブはこっちから。


「オラッ!」


 高く上がった球がラケットに当たり、綺麗にそして素早く向こう側のコートへ飛んでいった。


「うおっ、マジか!?」


 細田君はなす術もなく、返球することができなかった。


 すごい。テニスのサーブって難しいと聞くけど、郡山君は素人目から見ても上手い。前の郡山君はこうだったっけ?


「くそ!負けられねー!」


 相手側のサーブが飛んでくる。しかし、それも郡山君がレシーブをして防いだ。その返球も鋭く、そしていい角度で入ったため、相手はそのままボールを落としてしまった。


 上手い。ただ、次が問題だ。


 次は僕がサーバー。一年の時、一人でずっとサーブの練習してたから、一応できるっちゃできるけど、へなちょこサーブになってしまう。


 そして、へなちょこサーブは誰にでも取られてしまうため、ほとんどレシーブが飛んでくる。それも、結構強めの。もちろん、それを取るのも郡山君だ。流石に厳しいか?


 しかし、郡山君は僕の予想を遥かに上回っていた。


 なんと、それすら返球したのだ。


 そして結局、郡山君一人の力で試合に勝った。


「すっご」


 格段と上手くなってる。一週間の間に、随分と仕上げてきたな。


「どうだ!」


 郡山君は嬉しそうにガッツポーズをとった。


 しかし、相手側の反応はなく、ポカンとした顔で隣コートを見ている。負けたはずなのに、悔しがりもしていない。


 そしてそのコートには、明らかにレベルが違う女子生徒がいた。相手はテニス部大会優勝経験者の宍戸君と、茶道部の小宮君。


 そして、その女子生徒の正体は...牧田さんだった。


「...!」


 牧田さんの放つ球が、相手コートに鋭く突き刺さる。宍戸君は、それをなんとか返球し、その球は後ろで構えている小倉さんに飛んでいった。


 しかし、小倉さんに飛んで行った球は、いつの間にか宍戸君たちのコートの、ラインギリギリに着弾していた。


「げ、ゲームセット!」


 審判の声と得点板の表示に、場が騒然とする。


 結果はなんと、40-0。テニス部の強豪相手に、まさかのストレート勝ち。郡山君と同じように、ほぼ牧田さん一人で完封した。しかも、息も上がってない。


「やっぱり運動は気持ちがいいですね」


「あんた、マジで何やってもできるね」


 騒然とするコートを、笑顔で歩いていく牧田さん。宍戸君は、膝をついて燃え尽きていた。


「こ、郡山君」


「ああ、泉谷」


 僕と郡山君は、顔を見合わせて肩に手を乗せ合った。


「「無理だ、これ」」


 優勝は、牧田さんです...!


 そんなこと言ってる余裕は当然僕たちにはなく、すぐさま次の試合になった。


「次は、あいつらだ」


 指さす方を見ると、宍戸君がいた。


「ちょ、ちょっとそれは無茶なんじゃない!?相手はテニス部だよ!?」


「ああ、確かに強い。ただ、あいつに勝てなきゃ、優勝はまずない。だから、ここで勝つ...!」


 意気込みは良いんだけど、正直、気合いだけで勝てるような相手ではない気がする。宍戸君は牧田さんに負けたとはいえ、大会優勝経験者だ。勝ち目は薄い。


 ただ、郡山君は自信満々で止めることもできず、流されるまま試合が行われる運びとなってしまった。


「気張るぞ、泉谷」


「う、うん」


 気合が入っている。


「流石に負けん」


 宍戸君も、先程の敗北もあってか、気合が入っている。


 そして。


「オラア!」


 郡山君のサーブが、敵コートに向かって飛んでいく。やはり、綺麗だし鋭いし早い。


 しかし、そんな簡単にいくわけがない。


「フン!」


 宍戸君が、ラケットの芯で受け止めると、そのまま直線的な弧を描いて飛んできた。


 しかも、狙いは僕だ。


「クソッ!」


 よろけながらも、なんとかレシーブを返す。しかし、よろけた分次の返球に反応できない。


「ヤバッ!」


 そして、宍戸君のボレーが自陣に突き刺さる。試合の最初は失点からスタートしてしまった。これは...。


「...まだだ」


 郡山君はまだ闘志をたぎらせている。ただ、僕には焦っているようにも見えた。


 そして、サーバーを変えて再開される。


 何度やっても、何度やっても、何度やっても、遂にゲームの終わりまで、僕たちは宍戸君たちに一点も獲ることすら叶わなかった。


 そして、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「...」


「郡山君?だ、大丈夫?」


 話しかけるも返事はなく、そのまま教室に戻っていく。


 ただ、僕は彼の去り際に、あるものを見た。


「!」


 手だ。手には相当数のタコができていて、その一部が潰れていた。


「郡山君...」


 郡山君は優勝のために努力し、今日も本気でテニス部相手に勝ちに行っていた。


 なら...なら、僕も頑張らなきゃダメだ。


「...やろう」


 そう決心してから、僕は毎日テニスラケットを振り続けた。休みは一人で壁打ち。昼時間は、牧田さんや小倉さんと共に1ゲームの練習や、基本的なフォームなどを教わった。そして授業では、とにかく試合をやり続けた。どれも早梅雨のせいで、あまりできなかったけど。


 最初のうちは筋肉痛だけが残った。しかし、徐々に勘や動き方も脳に残り始めていった。


 郡山君を試すためにやってるのに、僕が練習したらダメかもしれない。ただ、正直に言うと、郡山君一人だけじゃ、無理難題の無茶振りにも程がある。それに、あれだけ努力されると、僕も本気で、そしてフェアに行かないといけない気がしてくる。僕が戦力として役立たなければ、フェアにならない。だから、最低限でもできるようにしたいと思っている。


 この間に、郡山君が何をしていたかわからない。もしかしたら、あの敗北のせいで諦めてしまったかもしれない。そうなれば、郡山君は牧田さんに近寄ってくる厄介男子と同じ、ということになる。


 ただ、僕にはなんとなくわかる。彼が、諦めないことを。


 そして、とうとうこの日がやってきた。


 テニスのトーナメント戦。僕は、この日のために研鑽してきた。各々が試合で勝敗を決め、そしてついに、僕たちの番が回ってきた。


 相手は、バスケ部の神田君と檜山君。


「泉谷、前と同じでいくぞ」


「わかった。ただ、僕も信じて欲しい」


 真っ直ぐと目を見つめる。返ってきたのは「わかった」という一言。


「ゲームスタート!」


 審判の合図とともに、神田君によるサーブが送られてくる。


「速い...!」


 豪速球だ。初戦からこれは、レベル高くないか!?てか、まずくない?結構速いし、対応できる?


 しかし、そんな不安は全て杞憂だった。


「...!」


 郡山君は、見事にレシーブを成功させた。しかも、そのレシーブは前よりも格段と速く、鋭かった。


「マジか!?」


 そのお陰で、神田君も檜山君も対応できない。


 これは...。


 強い。いや、もっと強くなってる。


「今度はこっちからだな」


 そして、郡山君のサーブが神田君たちに襲いかかる。それはまさに、隼。そんな球に対応できるはずがない。


 0-40。結局、この勝負は僕たちの圧勝だった。


 あれ、僕要らない?


 と思い続けて数十分経った。


「本当に、要らなくない...?」


 二試合目も三試合目も僕は何もすることなく、あれよあれよと準決勝まで進んでいってしまった。


 郡山君、強くなりすぎじゃない?僕の練習、意味なくない?


 しかし、次の相手は難敵だ。そう、宍戸君。僕たちは一度彼に負けている。あれは正直、一朝一夕で越えられる実力じゃなかった。


 ただ、今の郡山君ならいける。そんな気がする。


「ゲームスタート!」


 サーブはこっちから。郡山君のサーブだ。


「貰っとけ!」


 ボールがバンと音を立てて、相手コートに突進していく。


 宍戸君はそれをしっかりと見極め、綺麗に打ち返そうとした。


 しかし。


「なっ!?」


 曲がった。打ち出された球が、着地した瞬間にグイッと明後日の方向に曲がったのだ。


 これは、スピンサーブ...!


 宍戸君は、それを取れずに失点した。


 幸先が良い。ただ、次は宍戸君のサーブだ。宍戸君たちと渡り合うためには、サーブを対処する必要がある。


 行けるか...?


「お返しだ!」


 速い。


 しかし、その速さじゃ、郡山君は止められない...!


「オラッ!」


 郡山君はしっかりとレシーブを決めた。


 そこから、壮絶な打ち合いが始まった。ダブルスは基本ボレーで点を稼ぐと聞いたけど、これは違う。二人でラリーしている。正直、僕も宍戸君と組んでる小宮君も要らない子だ。


「クッ!?」


 今のラリー合戦は郡山君が、先に失点してしまった。


 しかし、これで終わりではない。


 サーブをして、レシーブをして、そこからまたラリーが続く。こんなやりとりを続けて、そしてとうとう、三-三になった。


 どちらも引けない。意地と根性のぶつかり合い。炎天下が、彼らの水分を奪っていく。


 サーブは、僕。


 ちなみに、内心結構焦ってる。何故なら、このサーブに全てがかかってるから。


「...」


 ボールを無駄にバウンドさせ、真剣に考えてる風を装う。内心バクバク。ここで、僕のターンになるの違くない?


 ...なんて愚痴るけど、時間は許しちゃくれない。しゃあなしだ。練習の成果、みせてやるぜ!


「頼む、神よ...!」


 気持ちのいい音が鳴り、綺麗な軌道を描いて飛んでいく。よし、良いラインだ...!


「ハッ!」


 当然の如く返される。しかし、球には前よりも速度がないし、郡山君の方へ飛んでいっている。


 行ける...!


「貰っt」


 瞬間、郡山君の体がよろけた。


 まずい。これじゃ取れない...!ダメか...?


「違う」


 あれだけ努力してる人が、こんな一瞬のミスで台無しにしちゃいけない...!


 そうなるくらいなら、僕が手を貸す!


「間に合えええ!!!」


 叫び声と共に、ボールの落下地点のラケットを滑り込ませる。


 その時、僅かに跳ねる感触と、薄い音が聞こえた。


 ミートじゃない。しかし、確実に捉えた。そして、相手陣に行っている。


「泉谷、ナイス!」


 郡山君が立ち上がった。目線の先には、高く飛ぶボール。


 まだ油断できない。ていうか、今まずい状態だ。何故なら、僕が上げたボールは、緩く、そして高く打ち上がってしまっているから。これじゃ、サービスボールだ。


 もちろん、そんなチャンスを宍戸君が許すはずもない。


「貰った!」


 速球が飛んでくる。

 方向は郡山君とは真逆だ。これは、無理だ。とれない。僕が行っても無理だ。


 しかし、僕の諦観とは裏腹に、郡山君は諦めようとはしなかった。真剣な顔で走っていく。


「ウオオオオオオオオオオオ!!!」


 叫び声がこだまする。


 その刹那、一体育の授業とは思えないほどの熱量が、辺りを包み込んでいた。


「な」


 ボールが飛んでいく。


 宍戸君たちのコートに。


 そして、落ちた。


 一変して、静寂が立ち込めた。誰もがその静寂を恒久的に感じてしまうほど、しかし、それは十秒にも満たない一瞬であった。


「ゲームセット!」


 得点が読み上げられる。30-40。


 僕たちの、勝利だ。


「おっしゃああああああああ!!!」


 郡山君の声が静寂を破り、観客たちの熱狂がコートに響いた。


 これ、体育の授業だよね?大会とかじゃないよね?


 ま、まあ、ともあれ宍戸君に勝ったのは快挙だ。素直に喜ぼう。


「おめでとう、郡山君」


「まだだぜ、泉谷。あと一歩だ」


「あ、あー、そうだったね」


 そう、あと一回勝たないと、優勝できない。


 しかし、僕には既に結果が目に見えていた。何故なら、相手が牧田さんと小倉さんだから。


 僕はこのトーナメントにかけて、牧田さんたちと色々練習してきたから、わかる。


「お互い頑張りましょうね!泉谷くん!郡山くん!」


 笑顔で言う牧田さんに、郡山君は照れ気味に「お、おう」と言い、僕は引き攣り気味に「う、うん」と言った。


 これまでの試合で一番、僕と郡山君との温度差が激しい。


「ゲームスタート!」


 サーブは郡山君から。


「勝つぜえええ!」


 と、意気込んでサーブを振ってから、六分後。


「ゲームセット!」


 40-0。


「......」


 郡山君はラケットを地面に置き、四つん這いになって絶望していた。


 もはや僕の脳内では、チーンという効果音がついていた。


「き、聞いてねぇ」


「めちゃくちゃ強かったね...」


 完敗だった。多分、どれだけ努力しても勝てないだろう。


 先も言った通り、僕には結果が見えていた。あれは、練習中に聞いたことだ。


 昼休憩の時間に、僕と牧田さんはテニスをしていた。その時は確か、小倉さんが所用でいなかった。


『どうして牧田さんってこんなに強いの?』


『あー、それはですね。私が吸血鬼だからです』


『え?』


『身体機能が、普通の人間と比べて高いんです。だから、こういうので負けたことありませんね』


『羨ましいな』


『そうですか?私は普通の女子高生になりたかったので、この吸血鬼要素はあんまり好きじゃないんですけど』


『あ、あー、ごめん。デリカシーなかったな』


『いえ、いいんですよ。あ、私だけじゃなくて、美代もテニス上手いですよね?』


『あーそうだね。言われてみれば』


『実は、美代はテニス部のエースなんですよ』


『え?』


『驚きですよね!あの子強いんですよ!』


 ということを聞いたのだ。


 一人は性質上強者、そしてもう一人はテニスガチ勢。


 僕はこの時、久しぶりに絶望を感じた。そして「やっちゃったなー」とも思った。郡山君、絶対優勝できないじゃん。


「郡山君」


「いや、わかってる。俺は優勝できなかった。約束は守るさ。牧田さんとは、もう...」


 悔しそうに拳を握りしめる郡山君。


「郡山君、僕が君にトーナメントの優勝を条件に課したのはどうしてだっけ?」


「俺の覚悟を、本気度を示すためだろ?」


「そう、君の本気度を知るため。僕はね、君の本気で挑む姿を、努力の証を、ここ一ヶ月で見てきた。君は、牧田さんに近づくために本気で努力し、そして挑んだ。それは僕も小倉さんも、君を見た誰もがわかっている。君は間違いなく本気だった」


「泉谷...」


「トーナメントには優勝できなかったけど、君を信用するよ。小倉さんも、いいよね?」


 問いかけると、すぐ背後から小倉さんが顔を出し、郡山君を見下ろした。


「いいんじゃない?私にもあんたの本気、伝わったし。あんたは、他の男子とは違うってわかったから」


「小倉さん...」


 その時、郡山君の頭上にもう一つの影ができる。


「郡山君、いい試合でしたね!」


「ま、牧田さん!?」


 郡山君の態度を不思議に思いながら、牧田さんは手を差し伸べた。


「な、何故そんなに驚かれてるのかはわかりませんが、とりあえず、立ち上がってください」


「あ、うん、ごめん」


 赤くしながら手を握り、そのまま立ち上がる。


 初々しいな、おい。


「まさかこんなに強いとは思いませんでしたよ!」


「まあ、結果的に負けちゃったけどね」


「だとしても、郡山君は一番強かったですよ!また戦いましょう!」


「お、おう、今度は負けないぜ」


「その調子です!」


 その時、グラウンドに鐘の音が響いた。次は昼休みだ。


「すぐ着替えて、お昼にしましょうか」


 僕たちが各々返事をすると、視線を郡山君に泳がせた。


 これは合図だ。


 今だよ、郡山君。


「あ、あの牧田さん」


「ん?なんですか?」


 振り返る牧田さん、顔が赤い郡山君。


「お、俺も一緒に昼飯食べても、いいかな?」


 郡山君らしからぬ、モジモジとした仕草を見て、牧田さんは「ふふ」と微笑んだ。


「いいですよ。じゃあ、4人で食べましょうか!」


 その返事を聞いて、郡山君の表情が安堵と嬉々に変わった。


「良かったね、郡山君」


「お前のおかげだ。ありがとうな、泉谷」


「行動を起こしたのは君だよ。僕はきっかけを与えただけさ」


「きっかけがなきゃ俺は牧田さんに近づけてない。お前のおかげだよ」


 感謝の言葉を言われて悪い気はしないけど、なんだかむず痒いし恥ずかしい。


 でもまあ、これにて一件落着だ。これからは何もしなくとも、郡山君自身の力で次のステップに行くと思う。だから、もう僕は要らない。


「じゃ、行こうぜ」


「そうだね」


 郡山君はいずれ、牧田さんに告白するだろう。郡山君は多分良い人だ。裏切ることもないと思う。スポーツもできるし、性格もいいとなれば、牧田さんの相手にとっては相応しい。


 この段階にきた時点で、二人の行方はもう決まったようなもの。


 でも、何故だか胸が痛い。いや、気のせいだ。気のせいだ。


 泉谷幸大が望むのは、牧田さんの幸せだ。郡山君と結ばれれば、牧田さんは幸せだろう。


 じゃあ何故、あの二人が映る情景を浮かべると、こんなにも苦しくなるのか。そもそも何故、牧田さんの幸せを、赤の他人の僕が願っているのか。


「...」


 脳が腐ったのかもしれない。


 早く教室に戻って、クーラーの風を浴びよう。




 あれから数週間が経過した。仲間は三人から四人となり、昼休みにそのグループでわいわいと喋っては、また教室に戻るというルーティンを繰り返した。


 僕と小倉さんのサポートもあり、郡山君は牧田さんと上手くいってる。かくいう僕も、上手くいっている。


 そろそろ、切り出してもいいのではないだろうか。


 そう思いたち、僕は牧田さんを呼び出して二人きりで話をすることにした。


「そろそろ、大丈夫なんじゃない?」


 その言葉の意味を理解して、牧田さんは俯いた。自分の心に言い聞かせるような沈黙の時間が流れ、その後、僕の目をじっと見つめた。


「放課後クラスで、どうですか?」


 どうやら、決心がついたみたいだ。


「うん、わかった」


 今度は上手くいくだろうか。いや、きっといくはず。最近は恥ずかしさも緩和されているし、大丈夫だ。


 不安や期待を抱えていると、すぐに放課後がやってきた。


 小倉さんはテニス部、郡山君はサッカー部で校庭に出ている。そして、牧田さんと僕は、二人きりで教室にいた。


「じゃあ、噛みますね」


「う、うん」


 噛む位置は、噛みやすい位置にある肩。


 牧田さんの顔が近づく。よく見ると、一気に爆発状態じゃなくとも、ある程度犬歯が伸びていることがわかる。恐らく、あれで皮膚に傷をつけて血を飲むのだろう。


 息が肩にかかる。


「...」


 口が近づいた。そろそろだ。緊張する...!


「...」


「...」


「......」


「......?」


 あれ?


「ま、牧田さん?」


「す、すみません、だいぶ慣れたんですけど、その...まだあの時の光景がフラッシュバックしてしまって...」


「あ、あー」


 まだダメそうか...まあ、急ぐものでもないし、気長に待とうじゃないか。


 そう思い、その旨を伝えようとした時、突然牧田さんが人差し指を上げた。


「このままじゃダメです!このままダラダラと伸ばしてたら、だらしないですよ!一週間です!一週間後にまた、ここで吸血に挑戦します!恥ずかしくてもやります!決まり事ですから!良いですね?」


「随分と勢いあるね...でも、いいよ。牧田さんがいいなら」


「じゃあ、決まりです!では、私はテニス部の手伝いがあるのでまた、一週間後に!」


 そう言い残して、逃げるように去っていってしまった。そんなに恥ずかしいんか。なんか、こっちが申し訳なくなってきた。


「帰るか...」


 デジャブだ。


 帰り路はいつも一人。牧田さんを誘いたいけど、すぐに帰るか、他の部活動の手伝いをしていて、中々一緒に帰れないし、誘えない。


 まだ勇気が出きってないんですよねぇ。


「情け無いなぁ...」


「キミが泉谷幸大かな?」


「うおっ!?」


 いきなり現れてビックリしたんだけど!?


 僕の名前を呼んだのは、白衣を着ていて、メガネをかけた女性だった。全くもって面識は無い。


「いやなに、驚かそうとは思ってないさ。ただ、キミと話がしたいだけなんだ」


「え、なんですか...?」


 不審者臭い。


「キミ、最近うちの娘と一緒にいるね?世話になってるよ、ありがとう」


「娘?誰ですか」


「牧田時雨だよ」


「はっ!?」


 む、娘!?てことは、この人が吸血鬼牧田さんのお母さん!?嘘だ!想像と違いすぎるんだけど!?


「想像と違うって思ったね?ま、吸血鬼の母親といえば、もっと優雅で華やか、そして妖艶な美魔女を思い浮かぶだろうから無理もないかな」


「い、いや、滅相もない!ま、牧田さんのお母さんでしたか!こちらこそ牧田さんにはお世話になってますよ!」


「ハハハ、そうかい。まあ、どっちが世話になってるとかはどうでもいいよ。重要なのは、キミが時雨にとって特異な存在であること、それだけさ」


「特異...?」


「ここじゃなんだ。ボクの家で話そうじゃないか」


 そう言って連れ込まれたのは、屋敷とかじゃなく、大きな研究施設みたいな場所だった。恐る恐る中に入ると、数人の白衣を着た人が部屋の中で顕微鏡を覗いていた。


「また想像と違うって思ったかい?」


「しょ、正直に言うと...」


「ハハ、まあそうだね、これから話すことはキミにとって想定外のことが多いだろうから、今のうちに慣れといた方がいいかもね」


 通された一室は、簡素な白壁の部屋。客間となっていて、机を挟んで対面に牧田さんの母が座った。机にはコーヒーが置かれている。


「まず、ボクの自己紹介から。ボクは牧田早苗(まきたさなえ)。見ての通り研究員で、仲間と共にここで研究をしてる。よろしく頼むよ」


「い、泉谷幸大です。高校生、です」


「先に言っておくけど、ボクと時雨は母子ではあるが、血縁じゃない。だからま、育ての親って感じかな」


 いきなり飲み込めない情報が入ってきてパンクしそうになった。


「え、えー、ちょっと待ってください」


「さて、前情報を出したところで、そろそろ話の本題に入ろうか」


「は、はぁ」


 淡々と話を進めてくる早苗さんに困惑する。しかし、早苗さんはそんなこと意に介さず、コーヒーを口につけては、僕を指差した。


「まず、時雨のこと、キミはどれぐらい知っている?」


「牧田さんの過去はおおよそ教わりました。あとは、吸血鬼で、ボクの血を欲していること、そして、その吸血欲にも二パターンあることとか...」


「ふむ、そうか、ある程度理解しているのか...では、それらのことについて、詳しく説明しようか」


 詳細か。気になるところはあるけど、踏み入っている感じがして、あまり快くない。ただ、知らないといけないような気はする。


「まず、私と時雨に関して」


 そう言うと、早苗さんは淡々と過去を話し始めた。


「ボクは元々、人間の細胞や遺伝子を研究する研究者だった。ある日、いつも通り研究をしていると、外から赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。外に出て確認してみると、そこには一人の赤ん坊が、段ボールの中に入っていた。あれは流石に驚いたよ。警察に届けようとも思ったけど、わざわざ研究所の前に置いておく異質さを鑑みて、一度遺伝子分析をすることにした。するとこれまた驚きだ」


 コーヒーを一口飲んで、間を置いた。


「その赤ん坊は、人間じゃなかった。いや、人間の遺伝子と、別の何かの遺伝子が混ざり合っていたと言った方が正しいかな。そして、その何かが吸血鬼のものとわかるまで、そう時間はかからなかったさ。なんせ、経過を伺うにつれて、伝承や御伽噺に聞く吸血鬼のソレが発現し出したからね。信じられないけど、信じざるを得ない。興奮したね。同時に恐怖した。経過観察のせいで時間が空いて、素直に警察に届け出ることもできないし、ボク一人で育てることも難しいからね」


 人間じゃないし、吸血鬼でもない。


 牧田さんの口からはそんなこと聞いていなかった。言わなかっただけか、それとも、聞かされてなかったか。


「ただ、研究員としての性か、興味が湧いてしまってね。吸血鬼と人間のハーフ...いわば『吸血少女』に時雨という名前を与え、研究しながら育てることにした。当時は吸血鬼っぽくてね、肌も青白く、そして目も赤く牙もあった。今の時雨とは似ても似つかなかったよ。ま、本人はそんなこと知らないだろうけどね」


 知らない...どうしてだ?


「知らない?自分のことなのに、ですか?」


「ああ。なんせ、吸血鬼の血が濃かった頃の彼女は鏡に映らないからね。自分の姿を知らないのは、それが原因だ」


「伝えればよかったじゃないですか」


 問うと、早苗さんは「そうだね」と目を伏せ、言葉を濁した。


「とにかく、その見た目と吸血鬼の性質上、あまり外に出さなかったね。まあ、こちらとしては十分に研究できたから良かったんだが、学び盛りの時期に悪いことをしたとは思ってるよ」


 コーヒーを何度も口につけて、とうとう中身がなくなっていた。


「そしてある日、彼女は高校に通いたいと言い出した。もちろん行かせられないさ。ただ、彼女はそう言い出してから血を飲まなくなった。血を飲まなくなると、みるみる人間の見た目、人間の性質に近づき、吸血鬼要素はどこかへ消え去っていった。そして今のように、若干名残はあるけれど、もはや人間と呼べる姿と性質を獲得した。だからボクは、ゴーサインを出した。ただ、吸血鬼であることはバラすなとは言ったんだけどね、ま、キミがいる時点で言いつけは守られてないってわかるね」


 なるほど。これが詳細な牧田さんの概要か。真実を知った分、後戻りできないような感じがする。


「さて、これまでの話を踏まえて、次は彼女の性質、そしてキミの特異性について話そうか」


 これはボクも知りたいことだ。牧田さんのあの状態のこと、わかるかもしれない。


「吸血鬼には、様々な性質がある。日光に弱いとか、鏡に映らないとかね。そしてその中に、吸血欲求というのがある。これは、人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲に並ぶ欲だ。この吸血欲求は、常時発動している。要は、キミが言った二パターンのうちの一つだね。常時うっすらと感じる血を吸いたいという思い、それが吸血欲求。そしてもう一つが、吸血衝動だ。あれはいきなり起こる。まあ、ボクも二、三回しか遭ったことがないからハッキリとは言えないけれど、血を飲まない状態、いわゆる断血状態が一つのトリガーとなっていることはわかる。ただ、その他の要因はわからない。他にわかることは、衝動発生中、元の姿に少し戻ること、そして、回数を重ねるごとに深刻化することだけだ。あと、吸血欲求と吸血衝動には、二つ共通点がある。一つ目は血を飲めば治まること。二つ目は、どちらも特定の誰かではない、不特定多数に向けられるということ」


「特定の誰かではない...?でもそれって」


「そう、そこなんだ。研究所に幽閉していた頃、彼女の吸血欲求と吸血衝動は、ボクや他の研究員に向けられていた。要は、好みはあれど、誰でもいいはずなんだ。しかしどういうわけか、今となっては時雨の欲求の矛先が、キミ一人だけになっている。キミだけに対して、欲求と衝動が発動している。不特定多数ではない、キミだけに。それがキミの持つ特異性だ」


「ど、どうして僕だけに?」


「欲求の対象はなにも不特定多数とは限らない。例えば、腹が減った時、何でもいいから何か口に入れたいと思う時もあれば、ハンバーグを食べたいと具体的に思う時もある。要は、自分の好みのものに対してだけ、欲求の矛先が向くことがある。仮説だが、吸血欲求も衝動も、その原理に則っているのだろう」


「つまり?」


 問うと、早苗さんは少し笑った。


「察しが悪いね、キミは。まあ、これを私の口から言うのは、キミたちにとって良くないだろう。こういうのは、自分で気づくものだ。できればボクは、キミたちの関係性に口を出したくないのだよ」


「な、なんなんですか」


「キミ自身で気づくべきだ。私が言いたいのは、時雨の欲求と衝動の矛先が、キミにしか向かないこと。そしてそれが問題であるということだ」


「問題?」


「大問題だ。時雨が抱える吸血に対する欲はどれも苦しいものらしい。根本的に解決するためには吸血しないといけないが、時雨はキミの血以外摂取しようとしない。となると、キミが時雨に血をあげないといけない」


「最初からそのつもりです。まあ今は、まだうまくいってませんけど」


「ただ、だ。時雨は断血をしたことで、普通の人間の容姿に近づいた。では、今の時雨に血を飲ませたらどうなる?」


「...」


 嫌な予感がする。いや、厳密にいうとこの予感は、牧田さん自身の話を聞いた時からうっすらと感じていた。


「キミも時雨から話を聞いた時、薄々気づいていたかもしれない。そう、恐らく、血を飲んでしまうと吸血鬼だった当時の姿に逆戻りする。同時に吸血鬼の性質も戻ってくるだろうから、まず学校には行けなくなる」


 聞きたくなかった。考えたくなかった。


「そ、そんな...」


「ボクはこの問題にはあまり首を突っ込まないでおく。決めるのはキミと時雨だ。キミの血を吸わせて時雨を楽にしてやるか、吸血を断り時雨に我慢をさせるか。時間をかけてゆっくり話し合って欲しい」


「...どうしてこのことについて話さなかったんですか?」


 この人は変だ。親なのに、伝えるべきところを全然伝えていない。時雨の容姿のことも、血を飲んだらどうなるかということも、何もかも伝えてない。それは、親としてどうなんだ?


「...日和ったんだよ」


「日和った?」


「そうだ。ボクは日和った。最初は研究対象として、興味本位で育てていたが、そのうち情が湧いてしまってね。そのせいで、幽閉されていることを哀れに思い始めた。少しでも、悲しませたくないと思ってしまった」


「だから伝えなかったんですか?」


「ああ。ボクは彼女のためにと思っていた。それが彼女の幸せになると。でも、それは大きな間違いだった。ただ、傷つく姿を見たくないという、自分勝手な欲望に過ぎなかった。こうやって、キミに一任しているのも、ボクのエゴにすぎないだろう。一番哀れなのは、ボクの方だよ」


 自嘲気味に暗い笑みを浮かべながら語る。


 この人も、僕と同じだ。牧田さんのためと思って、それが仇になっている。でもこの人はそれに気づき、そして悔やんでいる。なら、もう決まってるはず。次の一手は、もう目の前にあるはずだ。


「だったら、今日伝えたらどうですか?」


「今日、か。でも、罪滅ぼしになるかわからないし、恨まれるかもしれない。私はそれが......たまらなく怖い」


「親なら、もし牧田さんを研究対象ではなく、愛娘として見ているなら言うべきです。それに、牧田さんは絶対に恨みませんよ」


 そう言うと、早苗さんは俯いて黙り始めた。


 時計の秒針の音が響く。コーヒーの湯気は、いつの間にか消えていた。


 数分も経っていない。数十秒ほどの間ですら、長いと感じてしまう。緊張する。


 そしてとうとう、早苗さんは顔をあげ「ふっ」と笑って天井を見上げた。


「なるほど。言い切るとは、キミもデキる男だね。確かに、君の言う通りさ。まともに親をやってこなかったけど、今日くらいはやってみようかね」


 その顔はどこか吹っ切れたようで、見てるこちらも心が軽くなった。


「話は以上だ。もうそろそろ時雨が帰ってくる。キミも帰るといい」


「ちゃんと話しますか?」


「ああ、話すさ。今度はちゃんと、な」


「なら、良かったです」


 玄関まで行き、靴を履く。


「ボクだけじゃなく、キミも頑張れよ、あくまで、決めるのはキミたちなのだからな」


「わかってますよ」


「あ、連絡先交換しておこうか。いつでも話せるようにね」


「わかりました」


 メッセージアプリの連絡先を交換したのち、外に出た。外はもう暗くなっていて、それなのに寒くなく、むしろじめっとした熱気があった。


 不安。それを表すかのように、どことなく帰り路が暗く見えた。




 翌朝。季節は夏に突入し、教室内には「暑い」という言葉が蔓延していた。


「...」


 僕は牧田さんに話を切り出せないでいた。牧田さんは昨日、全てを知っただろう。しかし、当の牧田さんは普通に過ごしている。態度も仕草も至って普通。


 なら僕も普通に接するべきだ。普通に話を切り出せばいい。それなのに、牧田さんの表情を見るのが怖くて、普通の話すらできない。これじゃ前に後戻りしている。


「よ!泉谷。なに辛気臭い顔してんだ?」


 そうこう悩んでいると、郡山君が話しかけてきた。


「ああ、ちょっとね。考え事だよ」


「考え事ってもしかして、牧田さんのことか?ことじゃないだろうな?」


 牧田さんが隣にいるため、極力声を小さくしている。


「まあ、そう、かな」


「ああ!?」


 小声で話してたのに、大声を発してどうするんだ。


「お前、もしかして牧田さん狙ってんのか...!」


「そんなんじゃないよ。まあ、色々あるんだよ」


 郡山君は僕の態度を不思議に思いながら「それならいいけどよ」と言った。


「朝からうるさいんだけど」


「どうしたんですか?郡山君」


 先の大声に反応して、小倉さんと牧田さんが話しかけてきた。


「い、いやー牧田さん!なんでもないよなんでも!な!泉谷!」


 僕に話題の矛先が向き、視線が集まる。その視線の一つ、牧田さんと目が合った瞬間、咄嗟に逸らしてしまった。その反応を見て牧田さんも、悲しそうに逸らした。


 何やってんだ...。別になんかあったわけじゃないだろうに、変に気を使わせてどうするよ。


 話さないといけない。吸血するか、我慢するか。この話題は、僕と牧田さんの関係性を揺るがす話だ。


「な、なに二人とも。マジでなんかあったん?」


「いや、別に何もないよ」


 取り繕うボクの姿を、小倉さんは訝しげにジッと見つめていた。


「ま、なんでもいいけど。それはともかくさ、みんなで行かないか?」


「行くってどこに」


 問いかけると、郡山君は「決まってんだろ」と言って自信ありげに口を開いた。


「まt」


「席つけー。ホームルーム始めっぞー」


 瞬間、ドアが開き、担任教師の薮原の声が教室に響き渡った。


「...」


「せ、席つきなよ」


「...昼休み話すわ」


 白けたような顔を浮かべながら席に戻る。


 さて、僕も話さないとな。大事な話だし、日和ってちゃダメだ。他人に言って自分でやらないのは、人としてよくない。


 と、思っていたのにだ。


 僕は結局、昼休みまでに話を切り出せずにいた。どころか、普通の話すらままならない。


「というわけで!」


 空き教室に、郡山君のハイテンションボイスが響いた。


「今度の土曜に祭りあるだろ?行こうぜ、みんなで」


 なるほど、これが言いたかったわけか。


「祭りねぇ。あんた、牧田の浴衣見たいだけなんじゃない?」


「おまっ!言うな!ち、違うから、牧田さん!そういう気があるわけじゃないから!」


「そういう気?どういう気ですか?」


「い、いや...その......と、とにかく!行きませんか!皆さんで!」


 ぐだぐだだね、郡山君。


 にしても、祭りか。確かに今週の土曜、近所の河川敷公園でやると聞いていたけど、一体どういう風の吹き回しなのか。


「いいんじゃないですか?私も皆さんと一緒にどこかへ行きたいと、前々から思ってましたし」


「牧田が行くなら私も行くわ。お前と二人で居させたくないし」


「信用してくれたんじゃねえのかよ!で、小泉は?」


 また視線が僕に集まる。


 正直、気が向かない。だって、今はもっと重要なことがあるし、それをできていないんだ。


「用事があるのなら、無理して行く必要はありませんよ?」


 牧田さんが心配そうな顔をこちらに向けてきた。皆の視線も、心無しか心配そうだ。


「うん、行くよ」


「大丈夫ですか?」


「僕は年中暇だからね。用事とかは無いよ」


「そうですか」


 安心そうに息を吐く。


 焦りはあるけど、焦りすぎは禁物だ。


 あれから昼休みが終わり、午後の授業を経て、僕は帰ることになった。


 廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。


「泉谷くん」


「ま、牧田さん」


 振り返ると、牧田さんの人差し指が頬に当たる。驚いて飛び退いたら、牧田さんは嬉しそうに笑った。


「一緒に帰りませんか?」


「う、うん」


 ついぞ、僕から誘うことなく、牧田さんから誘われてしまった。地味に悲しい。


 でも、この誘いには裏があることを知っている。


「暑いですね」


「もう七月だからね」


 蝉が鳴き、向こうの道路には陽炎が立っている。テニスの時ですら既に暑かったのに、今はもっと暑い。今年の夏はどうなってしまうのか。


 どうなってしまうのか...。


 牧田さんは今日、いつもと同じだった。でも、しなければいけない話は一切してこなかった。だから今、話の場を作ったのだろう。


 吸血するか、我慢するか。それは、牧田さん自身の将来に関わる。


 牧田さんにとって、自分に関する話を持ちかけるのは、僕よりも数段と勇気がいるだろう。それなのに、牧田さんは勇気を出し、この場を作り上げた。


 ならせめて、話を持ち出すのは僕がやろう。


 握り拳を固め、横を歩く牧田さんに向けて。


「牧田さん、僕たちは話さないといけない。決めよう」


「そう...ですね。では、公園でお話ししましょう」


 空元気な笑みを浮かべながら、小さな公園を指差した。


 公園のベンチに座る。そこは柳の木の下で日陰となっていて、下の川から心地のいい風が流れ込んでいた。


「早苗さんから話は聞いた?」


「はい。お母さんが知っていること、全て聞きました。とても...驚きました」


 自らの容姿のこと。知られざる吸血鬼の性質。そして、僕と牧田さんの関係。


 聞いて驚かないわけがない。


「怒ってる?」


「いえ、怒ってません。驚きましたし、少しだけ悲しくなりましたけど、お母さんの気持ちもわかりますので」


 確かに、僕たちは死ぬほど理解している。


 傷つけるかもしれないという危険性を孕んでいる言葉を、大切な人に向けるということ、それにどれほどの勇気がいるか。


「...どうしようか」


「どう、しましょうか」


 沈黙の時間が流れる。やっぱり、牧田さんは決められてないようだ。僕の心は...どうだ?


 僕は牧田さんと一緒にいたい。牧田さんもそれを望んでいるなら。


「牧田さんは、学校好き?」


「はい。皆さんと一緒にいられる学校は、大好きですよ」


「なら...」


 心の中で何度も問いかけた。この選択は本当に牧田さんのためになるか?エゴじゃないか?僕が言うことで、牧田さん自身の選択を狭めてしまわないか?


 何度も何度も問いかけた。でも、僕の考えは変わらなかった。僕は、牧田さんと一緒にいたい。


「血を飲まない方がいい、と思う。我慢を強要させちゃうけど、牧田さんが学校を好きって言ってくれるなら、捨てて欲しくない」


「泉谷くん...」


 驚いたような顔を浮かべた後、少し俯いてから顔を上げた。


「実は、私もそう思ってたんです。でも、怖くて言い出せなかった。弱いですね、私」


 牧田さんは自嘲気味の笑顔を浮かべた。


「普段の吸血欲求は慣れてきたので、全然大丈夫ですし、衝動の方はそもそも最近来てないので、吸血しなくても、もう大丈夫だと思うんです」


「牧田さんが納得してくれたなら良かった」


 一番良いのは意見が一致すること。そのような形に落ち着いてくれて良かった。


「正直、とても怖かったです。吸血しないと言ってしまえば、泉谷くんが友達じゃなくなるんじゃないかと思ってしまって」


 僕と牧田さんが友達になったのは、吸血のときの恥ずかしさを消すため。そのゴールが無くなれば、友達契約が切れてしまう。そう思ってしまったのだろう。


「そんなことないよ。僕は牧田さんの友達だ。吸血しないとしても、それは変わらない」


 そう言うと牧田さんは嬉しそうに「良かった」と笑った。


「話してみれば案外すぐ終わりましたね。身構えていた分、拍子抜けです」


「だね」


 安堵からか、はたまた、不安を面に出さないためか、二人して笑った。


「では、また学校で」


 しばらく他愛のない話をした後、僕たちはそれぞれの帰路へ着いた。


 すんなりと終わったことはいいことだ。しかし、本当に良いことだけか。もっと、リスクとかそういうのを話し合うべきだったんじゃないか。


 内省するも、今更牧田さんを呼ぶわけにはいかない。


 それに、牧田さんの言う通り、最近は吸血衝動は出てない。欲求も耐えられるなら良い選択だろう。


 ただ、一つ蟠っていることがある。それは、吸血衝動の発生条件だ。それがわかっていない以上、気が引けない。


 焦らなくていい。経過を観察しよう。


 そんな些細な不安感を抱えながらも、日々を過ごしていく。結果としては、衝動が来ることはなく、祭りの日を迎えた。


 祭り当日、僕は一人で河川敷公園に向かっていた。


 はずだった。


「お前、なんで来たんだ?」


 隣には、丁寧に浴衣を着た少女が一人。


「だって、コウのお相手さんがいるんでしょ?気になるじゃん!」


「お相手さん?」


「女の人と友達なんじゃないの?」


 あーそういえば、こいつに色々相談してたな...。こいつこういうところだけ抜きん出て頭いいから、気づくの早いんだよな。


 まあ、隠す必要もないか。


「ま、まあ、いるけど」


「どんな人なんだろうなー。良い人だったら、コウの彼女さんになってくれないかなー」


「ならないよ」


「えー、陰キャのコウが珍しく必死こいてた相手なのに、好きじゃないの?」


 好きじゃないの?


 問いが頭に響く。


 好きは好きだ。でも...。


「好きとか、そういうのはないよ。ただの女友達」


「ふーん?コウがそう言うならいいけどさ」


 河川敷公園が見えてきた。入り口付近には、他方から来た人の浴衣姿が大量に見える。結構混んでるな。


「卑下しないで、たまには自分の気持ちに正直になった方がいいよ」


 その言葉は、何故だか僕に心に重く突き刺さった。


「お、泉谷!来たか!」


 声の方を向くと、公園の入り口付近にあるポールに、郡山君が立っていた。


「牧田さんたちはまだ来てないの?」


「おー、来てないぞ」


 瞬間、二人のスマホに通知が届く。確認するとそこには、小倉さんから「私たち少し遅れる」と連絡が来ていた。その後、牧田さんから可愛らしい謝罪スタンプも送られてきた。


「どっちがコウの彼女さん?」


「だから違うって」


「誰だよその子。お前の彼女か?」


「違うよ!」


 めちゃくちゃだよ...。まず、このゴチャッとした空気を治さなければ。


「おい、佳奈。先に自己紹介しなさい」


「はいはーい。私は泉谷佳奈って言います!高一です!コウ...この愚兄の妹です!よろしくお願いします!」


「お、おう、なんかあれだな。お前とは正反対だな」


 うるさいな、こいつ。


「俺は郡山透。よろしくな、佳奈ちゃん...?さん...?呼び慣れねえな」


「ちゃん、でいいですよぉ?」


 めんどくさい妹だ。しかし、こいつこんなんでも友達いっぱいいるからな、僕よりは上位の存在だ。あまり強く言えん。


「それよりだ!俺はお前に話さなきゃならねえ!」


「な、なに?」


 なんか妙に熱量があるし、張り切ってるな。なんかあるの?


「俺は今日、牧田さんに告白する!!!」


 その発言に、思わず僕と佳奈は顔を見合わせた。


 ちょっと待って...えーと、こくはく?こくはくってなに?


 あーそうか、告白ねぇ。はいはい、わかったわかった。


「「告白!?」」


「声でけーって!てか、地味に佳奈ちゃんに聞かれたの恥ずかしいんだけど」


「ちょ、ちょっと早くない?」


「早いか?俺は元々告白する気で牧田さんに近づいたからな、いつまでもウダウダしてたら、そのチャンスを逃しちまうだろうが!善は急げだ!」


「でも、まだ関係性とか...」


「牧田さんは多分、誰に対してもああいう態度をとる。要は、誰に対しても、友達以上の感情は持たないんだ。どれだけ過ごそうが、それ以上の関係性は見込めない。だから、待っても意味はない。今ここで決める...!」


「何その持論...他に好きな人いるかもよ?」


「いいや、いないね。断じて」


「何その自信...」


「それにここで砕けても、『俺は牧田さんのこと好きなんだぞ』ってアピールできるだろ?それだけでも儲けもんだ」


 そう言うと、郡山君は半歩歩いた後、腰に手を当てて振り返った。


「てか、これから戦う戦士が負けた後の話するか!当たって砕けない。そのベストルートを掴んでやるぜ!」


「いいねぇこーゆーのだよ!コウにはこーゆー青春送って欲しいなぁ。あと、こういう精神も持って欲しいかな」


 それに便乗するように、佳奈も反応した。こいつはなんなんだ。


「いつ告白するの?」


「そりゃ花火の時っしょ!お前らにも協力してもらって、牧田さんと二人きりになる。んで、花火が始まったら告る」


 前のテニスで協力は終わったと思っていたけど、そうはいかないみたいだ。


 まあいいか。小倉さんも多分協力してくれるだろうしね。


「遅れてしまってすみません!」


 その声の方を向くと、二人の影が見えた。


「初めて着るものですから、時間がかかってしまいまして..」


 目に映った瞬間、僕は仰天した。僕の隣にいる郡山君なんて、呆然としすぎて気絶しているかと思うくらいだ。


 天使かと錯覚してしまうほどその姿は見目麗しく、なんていうか...美しい?って感じだ。


「あんたたち」


 瞬間、小倉さんが僕たちの首根っこに腕を回した。


「いだっ」


「ぐおっ」


「私は万歩譲って良いとして、牧田には『可愛い』だの『似合ってる』だのなんかないの?」


 い、言った方がいい...か?


「に、似合ってるよ、牧田さん!」


「ほ、本当ですか!?良かったー」


「ぼ、僕も、似合ってると、お、思うよ?」


「!ほ、本当ですか...?」


「う、うん」


「それは、良かったです」


 その時、ほんの少しだけ、空気が止まったかのような錯覚に陥った。


「てか、その子誰?」


「あ、あーこいつは」


「妹の佳奈です!高一です!よろしくお願いいたします」


「あ、うん、よろしく」


「よろしくお願いしますね?」


 二人との挨拶を終えた後、僕たち一行は祭りを巡ることとなった。


「小倉さん」


「何?」


「今日、郡山君が牧田さんに、告白するらしいんだ。だから、二人きりにさせてあげない?」


 小声で伝えると、小倉さんは前を歩く二人を見つめ、小さくため息を吐いて「わかったよ」とぶっきらぼうに言い放った。


「いつ?」


「花火のときだって」


「あいつ、時期尚早にも程があるだろ」


「そうだね」


「ま、それまでに周れるとこ周るか」


「うん」


 そうして、僕たちの楽しい楽しいお祭りタイムが始まった。


 たこ焼きを食ったり、わたあめを食ったり、りんご飴を食ったり、イカ焼きを食ったり...食ってばっかじゃん。


 まあそれでも、楽しい時間だった。


 牧田さんも僕も当面の不安を忘れ、他のみんなも純粋に楽しんでいた。


 牧田さんは祭りに行くのはこれが初めてだと言った。楽しんでくれて何よりだ。


 そして、予定の時間がやってきた。花火が上がる午後8時前、僕たちは作戦を仕掛ける。


 いや、もう仕掛け終わっている。


 僕たちは見事に牧田さんたちとはぐれた。厳密に言えば、隠れたと言った方が正しいかもしれない。


「告白タイムとか、いやー!興奮しますねぇ!」


 興奮している佳奈に対し、小倉さんは若干引いている。僕も引いている。


「ささ、つけましょうよ!お二人方!」


「あんたの妹元気だね」


「ご、ごめんね」


 なんて会話をしながら、バレないように慎重に跡を尾ける。


 作戦は事前に郡山君に伝えているから、はぐれたとしても、なんか言い通して先に進んでくれるはずだ。


 牧田さんは心配そうな顔で、僕たちのグループメッセージに電話をかけては、個人にも電話をかけていた。


 心が痛むな。


「ま、まあ、花火の時間には来るでしょ!俺たちは先に花火見えるとこで待ってよ」


「そ、そうですね!」


 その瞬間、二人は所定の位置に歩き始めた。


 僕たちは目線でやり取りし、バレないように慎重に、そして見失わないように大胆に動いた。


 そして、ついに辿り着いた。河川敷のベンチだ。


 その場所は人がごった返していたが、僕たちはなんとか二人の姿を見れるポジションについた。


 遠いせいで顔しか見えない。しかし、顔が見れれば様子がわかる。今の牧田さんは、笑いながらも心配そうな顔をしていた。


「牧田さんを騙してると、なんか心が痛むね」


「そうだな。私もだよ」


「なんか私まで心が痛んできた...」


 三人して胸の辺りをさすっていると、小倉さんが二人の様子を見ながら口を開いた。


「いけると思う?」


「どうだろう。僕にはわかんないな」


「私は無理だと思う」


「え?」


 あまりの即答に、僕はバカみたいな声を出してしまった。


「...なんでもない」


 小倉さんは少し俯いたのち、何も言わずに二人を指さした。


 小倉さんがどういう意思を持って、無理だと断言したのか、僕にはわからない。僕は、あれだけ頑張っていた郡山君に報われて欲しいと思っている。


 でも、どれだけ予想を立てても、僕たちじゃ何もできない。出来ることはただ一つ。


 ただ、見守ることだ。


 瞬間、バンと大きな音が鳴った。それは光り輝く炎の花。それは二人を照らす光輪。水面に反射し、夜闇と混じって綺麗なコントラストを生んでいる。


 花火が、始まった。


 タイムリミットは五分だ。


「頑張れ、郡山君...!」


 心の声を漏らしたところで、もう一度彼らの姿を見る。


 会話とかは聞こえないが、二人の雰囲気は良さそうに見える。


 二人は少し喋っては花火を見上げていた。


 その時、郡山君が顔を赤く染めながら、牧田さんの方を向いた。牧田さんもそれに応じるように郡山君に向き直る。時間が止まったかのように、何も起きない。


 見てるこっちまでドキドキしてくる。


 二人の間に花火が絶えず打ち上がる。赤青緑などの色彩が彼らを照らした。


 そして、一際大きな大輪が咲く。それは、このマジックアワーの終焉を告げる花であり、タイムリミットだ。


 牧田さんの顔が紅潮し、二人の間に静寂が訪れる。


「...ッ」


 その光景を見て、何とも言えない感情が生まれた。胸を締め付けるような気持ちだ。


「どうなった...?」


 佳奈が疑問の声を漏らす。


 動かない。郡山君は必死に牧田さんを見つめ。牧田さんは俯いたまま何も言わない。


「あ...」


 牧田さんが走り出してしまった。


 郡山君は手を少し伸ばしただけで、追いかけようとしていない。


「郡山君」


「お前ら...」


 僕たちは茂みから腰を上げ、郡山君へ近づいた。


「好きな人がいるからって断られたわ。ま、わかっちゃいたけどな」


「やっぱり」


 やはり小倉さんは何かを知っていたようだ。


「あんた、牧田に断られるって、最初からわかってたでしょ」


「そ、それはどういう」


 問いを投げると、郡山君は少し息を吐いて夜空を見上げた。


「そうだよ。わかってた。遠くにいた時は、俺でもいけるって思ってたんだけどな。お前らとつるんで、存在が近くなってから気づいたんだよ」


「気づいた?」


「さっき話したろ?牧田さんは誰に対しても友達以上にはならない。ただ一人を除いてな。そいつと牧田さんは多分、相思相愛だ。となれば、俺は牧田さんにとっての友達にしかなれないし、そいつに勝つこともできない。気づいた時は、諦めようと思った。でも、女々しいこと言うけどな、諦めきれなかった。玉砕してでも気持ちを伝えて、区切りをつけたかった。だから、こんな早くに告白したってわけだ」


「そんな...」


「今は正直、清々しい気分だよ。ま、失恋しちまったけどな」


 濃い群青の空を仰ぐ郡山君の顔は、どこかスッキリとしていた。反面、そう見せようと努力しているようにも見えた。


「俺の番は終わった」


 そう言うと、郡山君は僕の肩を叩いて歩いて行った。


「こ、郡山君!」


「俺はどうでもいいだろ?牧田さんを追いかけてやれ。女の子を一人にさせるなよ」


「郡山君は?」


「俺は...少し一人にさせてくれ」


 その拳は固く握られており、何かを堪えているようだった。


「...わかった」


 僕たちは走って牧田さんを追いかけに行った。


 人混みの中、牧田さんが走っていった方向へ走る。どこに行ったかわからない。これじゃ見つけられない。


「三手に別れよう!僕はこっちを探すから、二人は別行って!」


「わかった」


「オーケーイ」


 三手に分かれ、捜索を始めた。


 見当はない。まるであの日みたいだ。見当もなく、いるだろうという淡い願いと期待だけで教室まで走ったあの日。


「牧田さん」


 河川敷公園内にある、ベンチ。牧田さんはそこでうずくまっていた。


「泉谷くん...」


 不安そうな顔を浮かべながら、薄明かりの中、僕の顔を見上げた。


「どうしたの?牧田さん」


「...郡山くんから告白されました」


「断ったの?」


「はい、私にはその...別に好きな人がいるので」


 静かに放たれたその言葉は、不思議と僕の心に悲しみを与えた。僕はそれに気づかないふりをしつつ、再び牧田さんの話に耳を傾ける。


「恥ずかしくて、申し訳なくて...逃げてしまいました。断った挙句逃げるなんて、とても失礼なことをしてしまいましたね。怒ってるでしょうか...」


「郡山君は怒ってないよ」


「それなら...いいんですけど」


 そう言うと、牧田さんは懐かしむような表情で、薄暗い電灯を見上げた。


「...私、好きなんですよ。私と泉谷くんと美代と郡山くんの、あの四人の関係性が居心地良くて、お気に入りなんです」


 先日も言っていた。学校は牧田さんにとってお気に入りの場所だと。


「私、怖いんです。私が断ったせいで、郡山くんを傷つけてしまったのではないか。関係が...崩れてしまったのではないか」


 理解できる。僕も少し前まで、その気持ちを持っていたから。


「大丈夫だよ。郡山くんとの関係は崩れちゃいない。また一緒に他愛のない話をするさ」


 薄っぺらい励ましの言葉をかけるが、牧田さんの耳を通り抜けてしまっている。


「次会った時、どんな顔をすればいいのでしょうか」


 その問いに、答えることはできなかった。


 通常通りでいいだなんて、無責任な言葉は投げかけられない。できるならやるだろうし、こんなこと僕に言わない。できないから、不安感を吐露している。


 何も言えない。


 無力感に苛まれる。いざという時に、僕という男は、牧田さんに何もしてあげられない。何を言っても、無意味に終わる。


 僕は...。


「泉谷くん、私を探してくれてありがとうございました。皆さんと一緒になれず残念ですが、帰りますね」


「ま、牧田さん」


 呼びかけるも、振り返る所作すら見せない。


「お、送るよ」


「私の家、知りませんよね?」


「途中までなら...」


「...大丈夫です。ありがとうございました」


 牧田さんは後ろを振り返らずに、胸に手を当てながら走っていった。そんな牧田さんの姿を、ただ見つめることしかできなかった。



 月曜。


 また学校が始まった。始まってしまった。


「お、おはよう、牧田さん」


「おはようございます」


 牧田さんはちゃんといる。ただ、笑顔で挨拶を返してくれはしたけど、これは...誰がどう見ても空元気だ。


 あれからずっと、牧田さんと郡山君のことを考えていた。一番心配なのは、郡山君が僕たちの元に来ないこと。


 そんな心配事をしていると、前方から腕が伸びてきて、僕の肩を叩いた。


「よ!泉谷!」


「こ、郡山君!?」


「なんだよ」


「いや、大丈夫なの?」


 問いかけると、少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。


「あれしきで関係壊れたらいやだろ?友達でいいならいいよな、牧田さん」


「は、はい」


 郡山君が無事で良かったし、何事もなく僕たちの元に戻ってきてくれたのも良かった。ただ、依然として牧田さんの表情は優れない。


 恐らく、まだ郡山君のことを心配しているのだろう。


 大丈夫だと声をかけてやりたいけど、それは無理だ。何故なら、郡山君も時折、悲しそうな顔をしているから。牧田さんはその表情を読み取って、責任を感じているのだろう。


 表面上は上手くいっている。ただ、内面がズタボロだ。両者ともずっと取り繕っている。郡山君は自分の傷を癒えたことにして、牧田さんはその隠された傷を見抜いて、そうして互いに傷を負っている。


 昼飯の時も、朝のちょっとした話をする時も、ずっと。


 そんな状況が続いたある日、事件が起きてしまった。


「おはよう、牧田さん」


「いずみ...やく、ん」


 牧田さんがフラフラと僕の方へ歩み寄って来た。


「ま、牧田さん?」


 どこか様子が変だ。いや...見たことあるぞ、この状態。


 慌てて牧田さんの肩を持ち、顔を覗くと、目が赤く染まっており、牙も生えていた。


「吸血衝動...!」


「泉谷くん...離れて...」


 以前より辛そうだ。何故今になって...!


「泉谷くん!!!」


「うわっ!?」


 牧田さんは突然大声を出して、僕を押し倒した。


 その衝撃で、机や椅子が倒れ、何事かと野次馬が押し寄せる。


「牧田!どうした!」


「ま、牧田さん!?」


 小倉さんと郡山君の呼ぶ声が聞こえる。しかし、それは牧田さんには聞こえていなさそうだ。


「泉谷くん...!我慢...できません!た、助けてください!」


 息を切らしながら、紅潮した顔を首元に近づける。


「牧田さん!ダメだ!しっかりして!」


「いず...みやくん」


 聞こえてない。


 ダメだ!ここで吸血しては、牧田さんの努力が水の泡じゃないか!念願の女子高生なんだ!ここで後戻りなんて、残酷すぎるだろ!


 考えろ、泉谷!


「牧田さん、ちょっと我慢して」


 僕はそう言うと、牧田さんの腕を掴み、思いっきり引き剥がそうとした。しかし、力が強くて剥がせない。


「小倉さんは野次馬なんとかして!」


「わかった」


「郡山君は引き剥がすの手伝って!」


「お、おう」


 この状態は、知られちゃいけないものだ。関与するのは最小限に済ませたい。


「これ、牧田さんなのか?」


「今はいいから!せーので行こう!せーの!」


 引き剥がそうと力を込める。が、剥がれない。


 まずい。牧田さんの牙が近づいてきている。


「郡山君!もう一回だ!」


「わかった!」


 そしてもう一度掛け声を出す。


「牧田さん!!!」「退いてくれ!!!」


 瞬間、僕の体が軽くなるのを感じた。


 牧田さんは床に倒れ、そのまま動かない。息はしているし、気を失っているだけだ。


「僕が保健室に連れて行く。郡山君たちは場を鎮めさせて」


「大丈夫なのか?」


「気を失っているから、今は大丈夫。じゃ、行ってくる」


「泉谷」


 呼ばれて振り返る。


「...頼んだぞ」


「うん」


 そう言って、保健室に向かった。


 牧田さんを保健室のベッドに寝かしつけると、僕は保健室に残って考えた。


 あれは吸血衝動だ。あれ以来なかったのに、今突然起きた。しかも、以前より元に戻るまでに時間がかかったし、辛そうだった。


 回数を重ねるごとに深刻化する。早苗さんが言った通りだ。これは...どうすればいい。


 断血状態以外の発症条件がわからない以上、手の打ちようがない。


「いや」


 一つだけあるか。あるさ。ある。わかってる。前から分かっていたことだ。やりたくはない。けど、これしかないから。


「牧田さんのためだ」


 僕はある決意を固め、教室まで戻った。


 教室内に入ると、一瞬ざわついたが、誰も皆詮索はしてこなかった。ひとえに、小倉さんたちのお陰だろう。


 結局その日、牧田さんは早退することとなった。


「あれ、どういうことなの?」


「そうだ。教えてくれ」


 昼休み、二人から問われた。小倉さんからしたら親友で、郡山君からしたら想い人。気にならないわけがない。


 でも、こればっかりはどうしても言えない。隠すべきことだ。


「ごめん。言えない」


 そう言うと、二人は押し黙った。しつこく聞かないのは、ありがたい。


「...言えないなら仕方ないけどさ、言わないってことは、あんたはやっぱり知ってるってことでしょ?だったら、知ってるあんたにしか、牧田のことを守れない」


「そうだね」


「私たちも当然手伝う。でも、牧田を守ってやれるのはあんたしかできないんだ。だから...選択は誤るなよ」


「わかってるよ」


「これって、俺のせいだったりするか?」


 深刻そうな顔でつぶやく郡山君。彼も彼なりに責任を感じているのだろう。ただ、吸血衝動は原因が分からない。だから、郡山君のせいなのかどうかもわからない。これは、正直に言っておこう。


「...わからない」


「そうか...わからないってことは、俺があんな態度とって、牧田さんを困らせたのも原因かもしれないってことだよな。何やってんだろうな...俺...」


 その沈み切った顔を、僕は直視できなかった。


「俺からも頼んだ、郡山」


「うん」


 それから時間が経ち、僕は不安感と決意を固め、家に帰ってきた。家には誰もいない。僕は自分の部屋に入ると、ベッドにダイブし、スマホを取り出す。


 映るのはメッセージアプリの画面。


 牧田さんのことを、みんなから頼まれた。


 わからない以上、これしかできない。僕には、これしか選択がない。選択を誤るなよと言われたけど、これしかないんだ。


「牧田さん...」


 そう呟くと、僕は画面をタップした。


 メッセージアプリから、牧田さんの文字が消え去った。



 あれから牧田さんは何事もなかったかのように登校を始めた。いや、僕が直談判した。早苗さんに牧田さんをそのまま登校させてくれという文面を送ったのだ。


 案の定、早苗さんは牧田さんをしばらく休ませようとしていた。その休学期間がどれくらいになるかわからないとも言っていった。


 でも、それは牧田さんが不憫すぎる。


 だから僕は、付け足すように僕の考えを送った。早苗さんの返信は遅かったけど、了承してくれた。そして今、牧田さんは学校に来れている。


「牧田さん、話がある」


「わかりました」


 牧田さんを連れて、空き教室に入る。


「い、泉谷くん、この間は」


「絶交しよう」


「...え」


 呆然と立ち尽くす牧田さん。


「あ、あの、冗談、ですよ、ね」


「冗談じゃないよ」


「ど、どうしてですか?」


「牧田さんの吸血衝動は、ほとんどが原因不明。いつ起きるか、何故起きるかわからない。でも、僕にしか向かないということはわかってる。なら、極力僕との関係性を断ち切ればいい。だから、絶交だ」


「そ、そんな、い、いやですよ、そんなの」


「牧田さん」


 僕だって嫌だよ。でも、本当にこれしか手がないんだ。


「吸血衝動は、回を重ねるごとに深刻化する。もう、牧田さんを苦しませたくないんだ」


「で、でも、そんな!」


「ごめん。牧田さん」


 そう言うと僕は、足早にその教室を後にした。気が重い。後ろ髪を引っ張られる。でも、振り返らない。


 それからというもの、僕は牧田さんたちとつるむことはなくなった。後押しするように、席替えが行われ、僕と牧田さんとの距離も、物理的に遠ざかった。


 懐かしい気分だ。


 一人で机に突っ伏し、クラスメイトの会話を盗み聞きする。前と変わらない日々。


 郡山君たちもなにか事情を察したのか、僕に話しかけてくることはなかった。僕と牧田さんたちに、もはや繋がりはない。いや、あってはいけない。


 それが、一番の得策だ。だから、郡山君たちはそのままでいて欲しい。僕のことなんて気にする必要はない。


「眠い」


 いつもと同じだ。何度も繰り返してきた日々を、再始動させているだけ。苦行でもなんでもない。もう慣れたことだ。


 そのはずなのに。


 学校はもちろん、登下校中でも、家に帰っても、休日も、僕も心が休むことはなかった。


 無意識のうちにスマホを取り出して、あるはずもないグループを確認しようとしてしまう。無意識のうちに、牧田さんたちの会話に集中してしまう。牧田さんのことが、どうしても頭から離れられない。


「コウ」


「ん...ああ」


 呼び声に振り返ると、佳奈がアイスを食べながら顔を覗き込んだ。


「最近どした?いつになく元気ないね」


「ああ...なんでもないよ」


「...ホント?友達関係で悩んでるんじゃない?」


 こいつは本当に頭がキレる。地頭がいいのか、はたまた鼻がいいのか。


「私、コウに友達できて嬉しかったんだよ。だから、その友達を無くしてほしくない」


「...大丈夫だよ。何も起きてないって」


 そう言うと、尚も心配そうな顔を浮かべながら「そう」と言ってテレビを見始めた。


 妹に心配かけるとか、兄失格だな。


「本当にな...」




 そうしてまた日にちが経ち、あと三日で夏休みが始まるというところまでいった。


 僕と牧田さんとの関係は、上手くいっている。話しかけず、話しかけられず、ついには郡山君たちの視線を感じることもなくなった。


 僕も忘れようとした。でも、できなかった。どれだけ頑張っても、牧田さんのことだけが頭から離れなかった。どうしてか苦しい。


 ただ、夏休みに入ってしまえば、きっとそんなことも忘れるだろう。牧田さんのことも、他の人のことも忘れ、夏休みが終わったころには、本当に昔のような生活になる。きっとそうだ。そうでなくちゃ困る。


 あと三日。あと三日耐えしのげばいい。


「泉谷」


 帰り際、昇降口前で話しかけてきたのは、サッカーのユニフォームを着た郡山君だった。


「どうしたの?」


「いや、まあ、お前に伝えておきたいことがあるんだよ」


「伝えておきたいこと?」


「...俺は牧田さんに謝った。これまでの態度と、心配をかけさせてしまったこと、全部。それでも、牧田さんの表情は晴れなかった。お前との接点が無くなってから表情は暗くなるばかりだ」


 途中まで喋ると、郡山君は俯いた。


「俺じゃダメなんだ。泉谷、お前じゃないと、牧田さんは幸せになれない。お前がいてやらないと、牧田さんは...どうにかなっちまう。心配なんだ。怖いんだ。だから...何が理由かわからないけど、距離を置かないでくれないか?俺たちの元に、戻ってくれないか?」


「それは...」


「お前じゃないとダメなんだよ、泉谷」


 まっすぐ見据える郡山君の目を、直視できない。


 その後郡山君は部活の先輩に呼ばれ、何も言わずに僕のもとを去った。


 やめてくれ。僕だっていやなのに、そうやって揺らぐようなことを言わないでくれ。


 翌日も僕は一人で過ごした。昨日言われた言葉が頭の中に残り、最悪な気分だ。どうしても気になってしまう。あと二日耐えしのげばいいんだ。それが僕にできることなんだ。


「泉谷」


 誰かと思い振り返ってみれば、小倉さんがそこに立っていた。今度は小倉さんか。


「何?」


「こっち来て」


 詳細を言わない小倉さんについていくと、不意に人気のない廊下で立ち止まった。


「あんた、何を思って牧田と距離を置いてんの?」


 またか。やめてくれ。


「それは...言えない」


 返事をすると、小倉さんは「だろうと思ったよ」と言ってため息をついた。牧田さんも事情を話していないのだろう。


「前も言ったけど、私は牧田のことも、牧田とあんたとの接点も知らない。何もわからない。だから、知ってるあんたに任せた。あんたになら、牧田のこと守ってくれるだろうって信じていた」


「深くは話せないけど、これも牧田さんのためなんだ」


「泉谷」


 次の瞬間、小倉さんは僕の胸ぐらをつかみかかった。僕の体が廊下の壁に押し当てられる。


「牧田はあんたがいなくて悲しんでる。あんたがいなくなってから、牧田はどんどん元気をなくしてる。牧田のため?笑わすなよ。選択を誤るなって言ったよな?あんたならもっと他の選択を選べたはずだ!!!」


「他の選択...?」


 結論を出すには早いとわかってはいたけど、急がなきゃいけなかったのも事実だ。その短い時間の中で、必死に考えた。何度も何度も何度も、自分の考えは正しいか。それじゃなきゃダメなのか。


 でも。


「これしか...なかったんだよ。これしかなかったんだ!僕だって、本当は牧田さんと、みんなと一緒にいたいさ!でも、原因が分からない以上、そうするほかないんだよ!方法がないんだよ!小倉さんは...何も知らないだろ」


「泉谷!!!」


 その時、僕の頬に衝撃が走った。


「牧田は悲しんでるって言ったろ。本当に牧田のことを思うなら、牧田の悲しむ選択を選ぶなよ」


「!」


 その言葉は、僕の心に重くのしかかった。


「...」


「あんたが以前私に言った言葉だよ。あんた自身は、それを守れてるのか?」


 そう言うと、小倉さんは胸ぐらから手を離し、教室へ向かった。去る間際に立ち止まり、振り返ることなく口を開いた。


「...言いたいことは全部言った。頭冷やして、もっかい考えてみろ。前も言ったけど、これは、あんたにしかできないんだからな」


 出て行く小倉さんを、ただ呆然と見つめていた。


 まさか、自分が言った言葉が返ってくるとは思わなかった。


 でも、小倉さんは僕と牧田さんの事情を知らないから、あのようなことを言えるんだ。もし、僕と小倉さんの立場が逆だとしたら、僕も小倉さんに同じようなことを言う。


 わかってないから、平気でああいうことを言えるんだ。


 小倉さんがなんと言おうと、僕の考えは変わらない。あの選択以外ないのだから、仕方ないんだ。


 夏休みまであと一日。僕はその日も牧田さんと関わらずに学校生活を終え、帰り道へ向かっていた。


「泉谷クン」


 呼ばれて振り返ると、そこには早苗さんが立っていた。


「随分としょぼくれたね。こんな待ち伏せに気付かないなんて」


「なんで待ち伏せてるんですか?」


「時雨関連だというのは、キミも理解しているはずだが?」


「...そう、ですよね」


「少し話をしようか。わかったことがあるんだ」


 そう言うと、今度は公園に連れ込まれた。ベンチに座り、一呼吸吐く。


「キミのおかげか、はたまたキミのせいか、吸血衝動のトリガーがわかったよ」


「ほ、本当ですか!?」


「ああ、本当だ」


「なんですか?」


「一つは前に言った、断血状態が長期化しているとき。そしてもう一つ。それは、強いストレス等、何らかの要因でメンタルが落ち込んでいるとき。この二つの条件が重なっているときに、吸血衝動は起きる」


 強いストレス。そう聞いて、僕の全身の毛がよだった。


「時雨はキミがいない状態がしばらく続いたせいで、メンタルが弱ってしまった。結果今、とても危ない状態に陥っている。いつ吸血衝動が発症するかわからない」


 そんな...そんなはずは!


「で、でも、おかしいですよ!最初に見た吸血衝動は、牧田さんがストレスを抱えているようには見えませんでしたよ!」


「誰が自分の弱い部分を他人に見せると思っている?それに、あの子は人一倍自分の気持ちを抑え込む癖がある。近くにいても、気づかないくらいにはね」


 そう言われた瞬間、僕は小倉さんから言われたことを思い出した。


『悩みとか一人で抱え込む癖がある』確かに聞いていたはずだ。僕は一体、小倉さんから何を学んできたんだ。これじゃ何もわかってないじゃないか...!


「以前私が観測した吸血衝動は、どれも女子高生になりたいと言い出してからのものだ。ずっと続けていた吸血を我慢したことにより、強いストレスが加わり、発症したと考えられる。恐らく、キミが最初に見た吸血衝動も、その時何らかの要因により、メンタルが弱っていたのだろうな」


「そんな...」


「さて、猶予はない。彼女を苛む吸血衝動の波は、刻一刻と迫ってきている。いつ決壊するかわからない」


「で、でも、僕に対してしか矛先が向かないなら、やはり僕がいなことが一番重要なんじゃ」


「吸血衝動は爆発した欲求そのものだ。そして、今の時雨はいわば極限状態。例えば、普通の人間が無人島に漂着して食糧が尽き、ついに極限状態に陥った時、何を思うか」


 早苗さんの人差し指がこちらに向けられる。


「何か食べないと...ですかね」


「そうだ。特定の何かではなく、なんでもいいから何かを食べようと思うはずだ。今の時雨にも、それは当てはまる。時雨の吸血衝動は、キミにしか向かないものだ。だが、極限を超えてしまえば、キミ以外に矛先が向くかもしれない」


 僕以外にいけば、恐らく牧田さんの学校生活は終わる。そしてまた、幽閉される日々が始まる。そんなの...。


 俯いていると、早苗さんは「それに」と言って、付け足した。


「それは、根本的な解決にはならない。キミがいないという状況が、時雨にとってストレスになっているんだ。キミがいてやることが、時雨の吸血衝動を抑える薬になる」


「僕がいたら、またいつ吸血衝動が襲ってくるかわかりませんよ?」


「言っただろ?トリガーは二つ。長期間の断血状態と、強い心的負荷。逆に言えば、その二つさえ揃わなければ、吸血衝動は起きない。キミがいないことがストレスなら、キミがいてやればいい。だから、キミは牧田時雨の側にいるべきだ。ただ、これにも問題がある」


 正直、この情報量を飲み込むのも大概難しいのに、さらに問題とまで言われると、色々キツいものがある。


「問題?」


「ああ。今の時雨とキミが接触すれば、間違いなく吸血衝動が起きるだろう。しかもそれは、前よりも激しい衝動になるはずだ。力も相当強いだろう。キミ一人で、果たして対処できるか?それが問題だ」


 先の吸血衝動ですら、僕一人じゃ引き剥がせないほど力が強かった。かと言って、増員するわけにもいかない。次の衝動を、一人で止められる自信は...。


「...少し、考えさせてください」


 そう言うと、早苗さんは前のめりになっていた姿勢を元に戻し、一息吐いた。


「まあ無理もない。一度に飲み込める情報量ではないし、キミにとっても、辛いものだったろう。だが、時間的猶予はもうない。悠長に決められはしないんだ。それだけは、わかっていてくれ」


「...はい」


「ボクとしてももどかしいが、これはキミにしか解決できない。頼んだよ」


「わかりました」


 そうして僕は、帰ることとなった。


 ストレスが牧田さんの吸血衝動の元になっている。そして、僕がいないということが、彼女にとってのストレスの元になっている。


 信じたくない。辛い気持ちを押し除け、信じて選んだ選択が、間違っていたんだ。そんなの、誰だって信じたくない。


 でも、信じないといけない。小倉さんと郡山君が、正しかったんだ。


 そして、行動に移さないといけない。僕は次にどうするべきだ。


 早苗さんが言っていた通り、僕に猶予はない。前は夏休みまで凌げばなんとかなると思っていた。だから、夏休みが早くきて欲しいと思っていた。でも今は、真逆。夏休みまでがタイムリミットだ。


 そして、酷いことに、明日が最終日。できるのは明日しかない。明日、やるしかない。


「...」


「ちょっと誰かと思ったらコウか!ただいまくらい言いなさいよ!」


「...」


「ちょっと!?」


 どうする、泉谷幸大。できるか?でも、何を?何をすれば牧田さんを解放してやれる?牧田さんにとっての心労の原因は、僕が距離をとったからだ。なら、二度と牧田さんから離れないと、証明しなければいけない。


 僕に、できるのか?一度信頼を失墜させた僕が、もう一度信じて欲しいと言って、果たして信じてくれるか?


 牧田さんは優しいからきっと信じると言ってくれるだろう。でも、心の底からじゃないと、意味はない。僕が牧田さんの隣に居続けるということ、それを牧田さんに信じさせないと、きっと牧田さんの吸血衝動はなりを潜めてはくれない。


「くそっ...!」


 不安要素しかない。牧田さんと対面して吸血衝動が起きた時、僕は冷静に対処できるか。対処したとしても、その後何を言えば信じてくれるか。もう一度彼女の友達になれるか。そもそも、明日吸血衝動が暴発して、僕じゃない他の誰かに向けられるかもしれない...。


 そして。


「ああ」


 夜が明けた。


 不安で眠れなかった。方法も浮かばなかった。なんの策もない。覚悟もできてない。失敗も許されないのに、やらなきゃいけない。


「行ってきます」


 寝不足の頭を無理やり起こして、登校路につく。そして、いつの間にか学校に着いていた。


「おはよー、てかあれ見た?犬神様」


「見た見た!良かったよねー」


「マジ最高だったねー」


「ねー」


 あっちの女子は流行りのテレビ番組の話。


「夏休み、海行かね?」


「良いねー。誰誘う?」


「沢谷と、遠藤と、羽田と...」


 あっちの男子は夏休みの話。


 そんなの、どうだっていい。


「牧田さん...」


 目線の先には、明らかに空元気な笑顔を貼り付けている牧田さんがいた。周りには、小倉さんと郡山君が心配そうに、そしてそれを悟られないように取り繕っていた。


 ...無理だ。今更できるか。方法もわからなければ、実行して上手くいくかもわからない。


「仕方ないじゃないか」


 第一、ストレスがトリガーだと、確定したわけじゃない。それに、僕の不在がストレッサーになっているかもわからないだろ。


 そうだ。しかも、夏休みがリミットだと思っていたけど、よく考えればそれは間違いだ。僕は牧田さんの家を知っている。夏休み中に何か思いついて、家に行ってそれを試せばいい。そうすればいいじゃないか。


 急いては事を仕損じる。急いで考えた策が、上手くいくわけない。仕方ないんだ。これは、仕方ないことなんだ。


「今日で授業は終わりだな。明日から夏休みだが、はしゃぎすぎんなよー。じゃ、また夏休み後になー」


 そう言い聞かせ、とうとう終わった。


 学校が、僕のチャンスが。


「ハ、ハハ...」


 浅い笑いが出る。


 全部言い訳だ。今日が最終日だと言ったのは、牧田さんを極力苦しませないため。自分が逃げないためだ。ストレスがトリガーなのも本当だろうし、僕がストレッサーになっているのも、本当はわかっているんだ。


 僕は何一つ、成長していない。


 陽炎の向こうには、僕の家が見える。終わったんだ。僕は小倉さんにも、郡山君にも、早苗さんにも説得させられた。それなのに僕は、動かなかった。いや、怖気付いて動けなかった。


 牧田さんが傷つくのが、失敗して無理やり吸血され、学校に来れなくなってしまうのが、牧田さんに嫌われるのが、信頼を取り戻すのに失敗するのが、全部怖いんだ。


 早苗さんの気持ちがわかる。自分が傷つくのも、大切な人を傷つくのも怖い。


 何が牧田さんの幸せだ。牧田さんのためだ。結局最後まで、保身に走ってただけじゃないか。


「これじゃ何も...」


 玄関のドアを開き、そのままうずくまる。


「何も...」


 前の学校生活が脳裏をよぎる。いつも一人で、机に突っ伏し、言い訳を並べていた日々。


「何も変わってないじゃないか...!」


 瞬間、牧田さんの顔が、過ごした日々が、その思い出が、走馬灯のように僕の頭を駆け巡っていく。


「牧田さん...」


 楽しかった。戻りたい。牧田さんを、苦しませたくない。


 でも...もう、終わって...。


『距離を置かないでくれないか?俺たちの元に、戻ってくれないか?』


『あんたならもっとほかの選択を選べたはずだ!!!』


『キミがいないことがストレスなら、キミがいてやればいい。だから、キミは牧田時雨の側にいるべきだ』


『それを理解できるようになるために、もっと知るために、隣に居続ける。理解できない者は、そうするしかないんだ』


 バカだ、僕は。みんなからこれだけ後押しされているのに、自分でもわかっていたのに、どうして踏み込まなかったんだ。一歩踏めなかったんだ。


「どしたコウ!?」


「...なあ、佳奈」


 首だけそっと上に向け、心配そうに覗き込む佳奈を見つめる。


「大切な人に、信じてもらいたいんだ。傷ついて欲しくないんだ。どうしたらいい?僕には、思い浮かばない」


 ダメな兄だ。こんなこと聞いたって、どうにもなりやしないのに。


「コウ」


 佳奈は優しく微笑むと、僕のほっぺたを手で挟んだ。


「なっ」


「私はこれまで、コウの相談聞いてアドバイスしてきた。でもね、アドバイスとか、根拠とか、作戦とか、そういうの全部取っ払って行動した方が、いいことってあるんだよ。だから」


 そう言うと佳奈は僕の手を掴んで引き上げた。


「私から言えることはありません!さあ、行動するんだぜ、兄ちゃん!」


「ちょ、佳奈!?」


 グイグイと背中を押され、玄関外まで追い出されていく。


「自分の気持ちに素直になって、伝えてくればいいさ。これはきっと、コウにしかできないことだよ」


「!」


 その時、皆の言葉が頭に浮かんだ。


『お前じゃないとダメなんだよ、泉谷』


『これは、あんたにしかできないんだからな』


『これはキミにしか解決できない』


「僕にしか...できない...」


 独り言のように呟き、僕はそっと振り返った。


「ありがとうな、佳奈」


 それだけ言い残し、走っていく。暑い。喉が渇く。汗が噴き出る。辛い。それでも、脚を止めない。


 僕は、僕にとって牧田さんは大切な人だ。気づいていた。最初から僕の気持ちは固まっていた。それを伝えるんだ。


 学校が近づいてきた。


 牧田さんがいるかどうかはわからない。でも、どうしても伝えないといけない。伝えてどうにかなるかは、正直わからない。


 だとしても、素直な気持ちを、伝えるんだ。これまで蓋をしてきた気持ちを全て、吐き出すんだ。


「牧田さん!!!」


 呼び声と共に勢いよくドアを開く。


 そこには。


「い、泉谷くん...!」


「牧田さん」


 最初に会った時と同じように、牧田さんは顔を紅潮させていた。早速きたか、吸血衝動。


「泉谷くん、私から離れてください!お願いです!」


「牧田さん!!!」


「離れて!!!」


 慟哭にも似た叫びをあげ、牧田さんは僕を押し倒した。力が強い。引き剥がせない。


「ごめんなさい...もう...」


 牧田さんの意に反して、鋭利な牙が僕の肩口に向いた。


 動揺はない。覚悟はさっき決めた。あとは、実行するだけだ。


 泉谷幸大、これまでに学んだその勇気を今、出し切る時だ。成長してみせろ!


「牧田さん」


「ごめんな...さい...」


「牧田さん!!!」


「!?」


 僕は引き剥がさず、逆に抱きしめた。強く強く、僕の存在がここにあると、そう言い聞かせるように。


「泉谷くん!?」


「僕はもう離れないよ!牧田さんを苦しめない!」


「でも...!」


「絶対だ!約束する!信じてくれ!」


「私は...!」


 そんな言葉じゃ、牧田さんの疑心は取り除けない。なら、言うしかない。僕の本心。隠し通してきた、本当の想い。


 ずっと気づいていた。でも、釣り合わないと思って、そんなことはないと切り捨てた。その気持ちを、今。


「僕は...」


 言え。


「僕は...!」


 言うんだ、泉谷幸大!


「僕は、牧田さんのことが好きだ!!!」


「い、泉谷く...ん」


「好きなんだ!僕は牧田さんと一緒にいたいんだ!だからお願いだよ、信じてくれ!」


 そう言うと、牧田さんの体から力が抜けるのを感じた。そして、肩口にかかっていた息も、少し刺さっていた牙も感じなくなった。


「...」


「牧田さん?」


「...もう少し、このままでいいですか?」


「うん」


 承諾すると、牧田さんの腕が僕の背中に回った。それは先までとは違い、温かい腕だった。


「心配したんですよ?」


「...ごめん」


「本当に...心配したんですから。私の居場所が消えてしまうんじゃないかって」


「もう、心配させないよ」


「本当に?」


「うん。絶対だ」


 数秒の沈黙が流れる。


「信じます」


 その言葉を聞いた途端、僕の心が軽くなった。その時、僕の目から涙が溢れた。とめどなく流れる涙に、困惑してしまう。


「ごめん...!」


「いいんですよ」


 牧田さんの抱きしめる力が強くなる。しばらくの間、情けないことに、牧田さんの胸の中で泣いてしまった。牧田さんからも、涙が溢れていた。


 そして、ようやく泣き止んだころ、牧田さんは口を開いた。


「少し、自分語りさせて下さい」


「うん」


「私は入学当初、クラスに馴染めるかの不安により、吸血衝動を起こしてしまいました。吸血するわけにもいかないので保健室に行こうと、フラフラの足と朧げな視界の中、階段を下っていた最中です。私はうっかり足を滑らせて、階段から落ちてしまいました。ですが、私は無傷でした。代わりに...泉谷くんが守ってくれたんです」


「え...それって」


 僕の入学当初の...?


「記憶がないことに甘えて、言い出せずにいました。ずっと辛かったんです。初めて泉谷くんと話した時も、泉谷くんに謝れていないことが重圧となって、吸血衝動が起きていました」


 パズルのピースがハマっていく。あの時の心労は、僕に対して事故の真相を言えていなかったことだったのか。


「なので今、改めて言わせてください。あの時は助けて下さり、ありがとうございました。そして、事実を隠し謝れずにいたこと、傷を負わせてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした」


 顔は見えずとも、その言葉が真意だということはわかる。


「良いよ。過ぎたことだし、事故なら仕方ない。あれなくても、僕はぼっちだったろうしね」


「ありがとうございます。あと、もう一つ、伝えたいことがあるんです」


 牧田さんはそう言うと、僕の体を離し、瞳をジッと見つめた。その瞳は濡れ、頬は紅潮している。


「私も泉谷くんのことが、ずっと前から好きでした」


「!!!」


 その心からの言葉は、その泣きそうな表情は、その涙ぐんだ声は、僕の心に突き刺さった。


「身を挺して守ってくれたときから、ずっと」


 そう言った後、すぐさま視線を下に落としてしまった。


「いや、は、恥ずかしいですね!あ、あー、ちょっと、お、お手洗いに...」


 焦りながら速足で教室から出ていこうとすると、教室のドアの隙間から人影が出てきた。


「牧田」


 その時、なんと小倉さんが姿を現した。その後ろには郡山君も。


 え?嘘?見られてた?聞かれてた?恥ずかしいんだけど。


「え!?見られてました!?」


「全部見てたよ。おアツいね、お二人は。ね?」


「そうだな。悔しいけど、めでてえな!てか、おせーよ!」


 反応的に本当に全部聞かれていたらしい。恥ずかしい。


 でも、なんだかこの空間が懐かしく思える。そして、恥ずかしいはずなのに、居心地が良い。


「良かったね、あんたたち」


「はい。悩みも全て言えて、泉谷くんと...その...恥ずかしいです...」


「な、なんか僕も恥ずかしいよ」


 笑いが巻き起こる。郡山君は「マジでアツいねー」と茶化した。


 そうだ、良かった。恐らく今の告白で、吸血衝動の原因となっていた悩みは全て消え去ったと思われる。だから、新たに何か起きない限り、もう吸血衝動は出ないだろう。


「ごめん、みんな」


「謝んなくていい」


「んな水臭いことより、祝いだろ!新たなカップル誕生だ!」


「は、恥ずかしいですよ」


「それは僕も恥ずかしいかな」


「つれねーな!」


 紆余曲折、ときには何かにぶち当たり、そして挫折しそうになった。それでも僕たちは、この結末に辿り着いた。それは...うまく言い表せないけど、とにかく良いことだ。


 この日々が、この出会いが思い出になり、僕を支えてくれた。勇気をくれた。陰キャで何もできない僕を、成長させてくれた。


「さて、行きますかね」


 晩夏が終わっても尚、玄関先では蝉が鳴き、陽炎が立っている。この暑さが消えてほしくないと思ってしまうのは、一体何故だろうか。


「行ってきます」


 これからもぶつかることはあるだろうけど、それでも、この経験が立ち上がらせてくれるのではないかと、僕は思っている。


 だから迷わなくていい。歩き続けよう。


「泉谷くん、行きましょうか」


「そうだね」


 吸血少女の牧田さんと共に。







*面白いと思ったら、高評価していってくれると嬉しいです。


本来、テニスでは試合開始時に「ゲームスタート」とは言わないらしいですが、本作品ではわかりやすくするために言わせてます。

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