5月③
「…川くん!及川くん!」
「うわっ!」
千歌に抱きつかれた。背中に何か当たっている。とても柔らかい何かが。
その感触を確かめるまもなく、自転車を止める。危うく転びそうになった。
「家…ついた」
「あ、ああごめん」
千歌が小さな声で伝える。まだちょっと苦しそうだ。
千歌の家は2階建ての一軒家だった。壁は赤いレンガに覆われていて、小さいが庭もある。まだ緑色のトマトがなっているようだ。車は5人乗りサイズのものが1台あった。僕は千歌に尋ねた。
「大丈夫?」
「うん…家にママいるから…今日はホントにありがと。また遊びに行こうね」
「うん…また明日」
そう言って千歌は少しこわばった笑顔で家に入っていった。僕は汗ばんだ顔をハンカチで拭いて家路についた。
翌日から千歌は学校を休んだ。僕は少し心配だったが、連絡先も知らないし、若葉や和馬に聞くのも少し気恥ずかしくてできなかった。しかし数日後、千歌は学校に戻ってきた。
「おはよ~、及川くん!この間はホントにありがとう!」
「おはよう、千歌さん。元気になったみたいで何より」
「うん、完全復活!ブイ」
といいながらVサインを出す彼女に僕はホッと胸をなでおろした。
「そうだ、及川くん連絡先交換しよ!この間のお礼のメッセ送ろうとしたら分かんなくて。クラスのグループにもいなかったから」
「え?良いの?」
と答えると、千歌は一瞬止まって、吹き出した。
「ぷっ、ははははは!良いの?だって!ははは~」
「そ、そんなに面白いかな?」
僕はちょっと心外だというふうに返したが、千歌は気にも留めない。
「及川くんってホント天然だよね~!そこがいい所なんだけどさ。はい、QRコード読み取って」
千歌がスマホ画面の白黒のコードを見せてくる。僕はそれを読み取る。「CHIKA」という名前と白い猫のアイコンが目に入った。
「猫、飼ってるの?」
「そう!カンナちゃんっていうんだ!女の子!」
「良いなあ、うちは母親が猫アレルギーで飼えないんだ」
「今度うちに来てよ、場所は覚えたでしょ!いつでも会わせてあげる!…っていつでもは無理だね」
「ち、千歌さん家に!?」
女の子の家なんて入ったことない。しかもこんな美少女の。間違いなく緊張で吐く…千歌はうーんと首を傾げた後、はっとした顔で続けた。
「及川くん勉強得意でしょ。今度の期末テストの勉強教えてよ!中間はやばかったんだ~~」
「うーんすごく得意ってほどではないけど」
といいつつも満更でもない自分が嫌だ。千歌はうんうん名案だと言わんばかりの顔をしている。
「そしたら来週の土曜とかどう?色々準備しておくね!」
「わ、分かりました…」
僕はまた千歌に押し切られてしまった。準備とは一体全体なんだろう…
その日から千歌との約束の日まで何も手につかなかったのは言うまでもない。