58-2 生きていてよかったと泣いてくれる人(ハイドレンジア視点)
「おねえちゃんだよぉ」
僕の最初の記憶は、暖かい光が差し込む部屋で僕に手を伸ばして微笑んでいる誰かの姿だった。
それはとても朧気で、伸ばされた手を握った手が温かくて嬉しくて笑ったという感覚はあっても、現実味が無かった。
でも、とても心地が良くて、その感情だけはずっと残っていた。
次に覚えているのは、いつも傍にあった温もりと離ればなれにされた記憶。
とても五月蠅くて、寒くて寒くて、嫌だ怖いと言葉にならぬ声で泣いた。
その温もりの対象が【母親】という存在だという事に、その時に赤子だった僕は気づかなかった。
僕だけを捨てて、母親を奪った奴は楽しげに冷たく言い放った。
『ボクと遊ぶ準備が出来たらアイツと一緒においで。別に来なくてもいいけど、その時は永遠に二人はボクの宝物にする』
僕だけが見知らぬ屋敷の前に取り残されて、その屋敷の持ち主に拾われる事になった。
次の両親は悪い人では無かった、けれど狂っていた。
ここで六歳までこの屋敷の子どもとして暮らした、毎日美味しい食事が用意され、高そうな服を着せられていた。様々な参考書を渡され、勉学も人並み以上に学ぶ事が許された。
しかし、自分を両親だと名乗る夫妻は、僕の事を誰にも会わせようとはしなかった。
使用人達ですら僕に会う事は叶わず、僕は小綺麗な部屋にいつも閉じ込められていて、小さな箱庭の中で暮らす事を強いられた。
夫妻は僕に笑顔で語りかけ、優しさを振りまいてきたけど、いつも同じ会話をしていた。
「この子は私達の子どもの生まれ変わりだわ」
「あの子が死んですぐに門の前に置かれていたのだから」
「私達の子が生まれ変わったの、けど一度死んでしまったから赤い目をしているのね」
「これは黄泉の国を一度くぐってしまった証なんだろう」
「可哀想に、一度悪魔に魂を抜かれてしまったのだもね、でも大丈夫よ、私達が貴方を隠して今度こそ大切にする、幸せにしてあげるから」
「たとえ悪魔になって帰ってきたとしても、私達の子どもを隠し愛し続けよう」
夫妻は僕の事を悪魔と呼ぶ。
この赤い目と、銀の髪は魔王の姿と酷似していて、とても人間のものとは思えないものだと、本を読んで理解した。
自分達の子どもが流行病で死んで、都合良く僕が捨てられていたから自分の子どもの代わりにした。けれど、この容姿は人間として受け入れられるものでは無いというのだ。
僕に手を伸ばしてきた暖かい光も、いつも温もりと安心感を与えてくれていた母親も、僕の事を愛しいという目で見つめてきていたのに。
それを覚えていたからだろうか、この夫妻の事を両親だと思えなかったのは。
僕の存在はひたすら隠され、夫妻の自己満足の為に息子でいなくてはいけなかった。
しかし、僕の姿を遠目で見た使用人の誰かが僕の事を外に漏らしたのだろう。とある日に夫妻の屋敷が襲撃にあった。
ならず者達が屋敷に押し入り、次々と使用人を殺し僕を捕らえた。夫妻も逃げ惑っていたが、結局は捕まり僕の目の前で殺された。
夫妻は最期に言う「悪魔なんて育てるんじゃなかった」「お前のせいで私達は殺された」そうして夫妻は事切れた。
夫妻は両親ではないと思っていた、けれど情はあった。
だから、死ぬと思ったら悲しかったのに、お前に悲しむ価値はないと全力で突き放された。
心が枯れていく。
感情が死んでいく。
無償の愛なんて存在しないと、酷く裏切られたような気持ちになった。
僕はそのまま攫われ、次に連れてこられたのは地獄を現世に作り上げたような場所だった。
鎖で足を繋がれて行動は最小限しか取れない、小さな窓一つしか無い部屋に閉じ込められて、食事も一日に一食だけ、固いパンや冷めたスープが出されるだけだった。
その窓から見える外の景色だけが、僕の世界だった。
僕を攫った理由は、人並み外れた氷の魔力が宿っていると知ったからだという。
毎日毎日休みなく、力尽きるまで魔道具に魔力付与を強いられた。
反抗的な態度をとれば殴られ、泣き言を言えば食事を抜かれる。身だしなみなどお前には必要ないとほったらかしにされた状態だった。
髪は長く伸びて、身体は傷だらけになっても治療してもらえる事もなかった。
悪魔のお前が外に出れば殺されるだけだ、ここで生かしてやっているだけありがたいと思え。
そう言われ続け、僕は己の感情を語る為の言葉を発する事を諦めた。
そして、心の中で酷く憤怒して、僕を悪魔だと罵り蔑むのなら、いつか必ずそれ相応の復讐をしてやると憎んだ。
まだ駄目だ、まだ力がない。
もう少し成長したら、もっと強くなれば、魔力をコントロール出来るようになれば。
本当の悪魔となってお前達の目の前に君臨してやる。
僕の容姿と似ているという魔王も同じ気持ちだったのだろうか?
至福を肥やす豚共より、よっぽど共感出来ると思った。
まさに、彼奴らが望む通りに僕は悪魔そのものに成り果ててしまったのかと自嘲して、ふと思った。
本当に僕を愛した者はいるだろうか、と。
僕を愛した両親はいたんだろうか? 僕に手を伸ばした少女は幻覚だったんじゃないか?
蔑まれ続けて、自分の心を防衛する為に生み出した妄想だったんじゃ?
本当は最初から独りで、誰も僕を愛さないし、誰もが気味悪がって力を奪うだけ奪ったら死ねと望んでいるんじゃないか?
僕は、僕は? なんの為に産まれてきたのか?
楽になる為には、死ぬか、殺すしか、ないのか……?
ここでの生活を二年間強いられ、人らしい感情もすり減って、希望も潰えて、笑い方すら忘れた頃だった。
視界は朦朧として、音を聞くことすら諦め、僕に魔力付与をしろと鞭を振るい叫ぶ魔女をいつか必ず殺すと憎しみで心が真っ黒に塗りつぶされていた時、暗闇を切り裂く電撃のような声が鼓膜に突き刺さった。
「触るなァーーっ!!」
牢の先で見知らぬ誰かが怒りを露わにしながら叫んでいた。
怒りで震えながら、今にも泣きそうな顔で鉄格子をガシャガシャを揺らしている。
誰だ? 知らない奴だ、しらないはずなのに……目が逸らせない。
「はいどれんじあっ」
どくんと心臓が高鳴る。
赤子の時に僕の首に付けられていた黒いチョーカー。今でも隠し持っていた、そのチョーカーに書かれていた名前を、見知らぬ少女が呼んだ。
「おねえちゃんだよぉっ!」
僕の記憶にある最初の光景と、目の前の少女の姿が一致した。
夢でも、妄想でもなく、現実に存在して今目の前に居る。
一度死んだ心だ、甦ってくる感情に心がついていかない。
何も考えられず、反応出来ず、ただ縋るように少女を見つめているうちに、魔女に身体を担ぎ上げられて攫われた。
屋敷は燃えさかり、魔女はまた別の場所で僕を道具として利用して使うのだと、金が全てだと笑う。
このまま外に出れば、僕の力を無理矢理抑えていた魔石の力は及ばなくなる。この魔女が一歩でも外にでたら、その時は確実に息の根を止めてやる。
お前達が望んだ悪魔のように、残酷に、無残に殺してやる……ッ。
あと少し、あと少しで僕は解放されて本物の悪魔に成り果てる筈だった。
「待ちなさいーーっ!!」
殺意に湧く感情が凍り付く程、真っ直ぐな声が僕を追い掛けてきた。
まるで、そちらへ行くなと言っているかのように。
燃える屋敷を駆け抜けるには熱いだろうに、息も苦しいだろうに。
少女は僕を、諦めなかった。
魔女を殴り飛ばし、少女は声高らかに言う。
「その子は悪魔でもお金を生む道具でもない!!」
悪魔ではない、と。少女は確かに僕の存在を見つけた。一体誰なのか、僕を知る、僕の知らないお前は誰なのか?
「私の弟を返しなさい!!」
あの日の光景と、目の前の少女の姿が完全に一致した。
僕を弟だという目の前の少女。
あの日の陽炎は自分の事を「おねえちゃんだよ」と言っていた。
居たんだ……僕にも家族が。
僕の妄想でも幻覚でもなく、確かに存在していた。
襲い掛かる炎から僕を守る為に抱きしめた少女の……姉の温もりは苛烈で、黒く染まっていた心に一滴の色をつけた。
あと少しで手遅れだっただろう、その一歩を「行くな」と引き留めた。
姉に触れられた箇所はとても暖かくて安心して心地がよかった。
今離れれば、また地獄に逆戻りする気がして、僕の背に付きまとう悪意から逃げたくて、ずっと手を握っていた。
どうか振り払われないようにと願いつつ、目が覚めたら消えているかもしれないと怯えながら手を握り続けた。
「可愛い!! 赤いお目々がうさぎちゃんのようで可愛い!! 宝石のように美しい!! 無理やだ離れたくないーーっ!!」
誰もが気味悪がり、悪魔だと罵ったこの容姿を疑う余地もない程の愛情で愛しいと叫ぶ。
「ずっと探してたの! ずっと会いたくて……生きてるって信じたくて、でも見つからなくて……怖くて、ずっと、ずっとね……」
離れている間も忘れられていなかった事実に心がじわりと震えた。
信じても……いいだろうか、ここで裏切られたら僕はもう二度と誰も信じられないだろう。
けれど、この人なら僕を助けてくれるだろうという……願いにも似た、期待。
「いきててよがったよぉ~~っ」
思い切り抱きしめられて、僕の為に涙を流す人。
信じてみよう……今一度、僕は悪魔ではないと自分の事のように怒ってくれる人がいたから。
抱き返して、それを拒絶される事無く受け入れられて、ようやく呼吸がうまく出来るようになる。
肺にいっぱい吸い込んだ空気と一緒に見上げた色は、憧れていた青空の色と同じように晴れやかに笑っていた。




