3.
「お兄さま、お願いがあるのですけど……」
明くる日、外で仕事を終えて家に帰ってくると疲れた状態ではまったく顔を合わせたくもない女がセオドリックを出迎えた。
執務室に入って少し服を緩めようとしていたセオドリックは彼女に危うくジャケットを投げつけるところだった。
義理の妹、ネリネである。
波打つ艶やかな亜麻色の髪に大きな茶色の瞳。顔立ちは幼げだったが、女性にしては少し背丈が高くシェリルと同じ十五歳にしては大人びた相貌をしている美少女だ。
セオドリックもシェリルも薄い金髪に緑の瞳をしている。シェリルはネリネとは違って小柄で愛らしい娘で、二人が並ぶとどうしてもネリネの方が威厳のある娘に見えた。
それがセオドリックは余計に腹立たしい。
「なんだ、ネリネ……俺のことを兄と呼ぶな」
「まあ、そんなけち臭いことはおっしゃらないで。私、お兄さまのお店に行ってみたいのです。明日連れて行ってくださいませ」
「お断りだ。なんでおまえを連れて行かなければならない。高級路線の店だぞ。おまえが行くところじゃない」
「まあ酷いおっしゃりよう……でもケヴィン様が仕入れに出入りされているのでしょう? あの方といずれ結婚するのですから、私、お兄さまのお仕事にも少しは詳しくないといけないと思うのです」
「殊勝な理由だな……それを口にすれば俺が絆されて連れて行くと思っているなら大間違いだが」
セオドリックがそういってネリネを睨み付けると、ネリネは眉を八の字にして肩を落とした。
「お兄さま、誤解です。私は少しでもお兄さまやシェリルの役に立ちたいのです」
「なら家の奥に引っ込んでいてくれ。間違ってもシェリルとカイルの邪魔はしてくれるなの」
「お兄さま……カイルさまのことは考え直した方が良いと思いますの」
「なに?」
ネリネの口から漏れた言葉に、セオドリックは顔をしかめた。
ネリネは円らな琥珀色の瞳でセオドリックを見つめた。
「あの方、シェリルとはいろいろ気性が合わない気がいたします。アイリスさまのご希望なのは存じておりますが、亡くなったお母さまよりも生きているシェリルの幸せを考えるべきだと思いますわ」
「それでカイルとおまえが結婚するのか?」
「まあ!?」
ネリネは今日初めてセオドリックにしかめ面を見せた。
「わたくしはケヴィンさまと結婚しますもの。そういうお約束ではありませんか」
「その通り。おまえは自分の結婚のことだけ考えていれば良い。家の他のことには口出しするな」
「お兄さま」
「わかったらさっさと部屋に戻るんだな」
セオドリックはシッシッと片手を払って部屋を出て行くようネリネに指示をした。
ネリネは不満そうだったが、家政婦長のミリアが姿を現わすと諦めたように部屋をあとにする。
「まったく、なんなんだあの娘は……」
「ケイトさまの元で贅沢をしていた頃のことが忘れられないのでしょう……お力にならず申し訳ございません」
「いいさ、ミリア。あの娘がおかしなことをしでかさないようしっかり見張っておいてくれ」
「承知いたしました」
ミリアはセオドリックを見つめて静かにうなずいた。
多くの使用人が伯爵家から出て行き、今も屋敷内の使用人は不足しているが、このミリアという家政婦は出来物だった。
まだ三十代半ばと若いが屋敷には十年以上勤め、上級使用人らしく文字の読み書きも計算も出来る。
ケイトがいい加減に家政を回して贅沢をするなか、このミリアがあれこれ気を回して伯爵家を維持してきたといっていいだろう。
「ミリア、客室を一つきれいにして置いてくれないか?」
「どなたかお越しになられるので?」
「ミセス・パーマーとは別に家庭教師をもう一人、シェリルのために雇おうと思う。来年の婚約のお披露目までに立派な淑女にしてやりたい」
「それは、……素晴らしいお考えです」
「上級貴族出身の家庭教師を雇えるかもしれないから、そのつもりでしっかり準備しておいてくれ」
「承知いたしました」
ミリアがそう言って部屋を下がっていく。
セオドリックは一息吐き出した。
叔母を訪ねてから数日、ひょっとしたらちょうど手透きの家庭教師がいるかもしれない、と知らせがもたらされた。
なんでも帝国帰りの上流貴族出身の家庭教師がいるのだとか。帝国で名家の令嬢を数人指導していたという折り紙つきの人物で、先頃仕事が一段落したのでいったんセレナ王国に帰国していたらしい。
まだセオドリックの元には名前も履歴書も届いていない。
そもそも雇う方にも招待状が必要になってくるレベルの家庭教師だ。
無事にペンネローズ家に来てもらえるかわからないが、駄目でももう一人シェリルのための家庭教師を雇うつもりだ。
来年のお披露目までに淑女の教育を最低限施せば、あの引っ込み思案な妹も少しは胸を張って生きていけるだろう。
学業にかまけて家を放置していた罪滅ぼしとして、セオドリックはシェリルに可能な限り何でも用意してやるつもりだった。
数日後叔母から件の家庭教師に紹介状が用意できそうだという話を聞いたときはいの一番に飛んでいった。
「紹介状は用意できそうだけれど、正直ちょっと不安だわ」
新しい白粉をテーブルの中心において、叔母はそう口にした。
「なにがです?」
「あちこちお茶会に顔を出して手の空いてそうな方を見つけたのですけれど……どうにも……」
「駄目な方なのですか?」
「……淑女としては間違いなく一流ですよ。ただ曰く付きと申しますか」
「いわく、とは?」
「名前を聞いてわかるかどうか……アーシュリア・シルクティア様なのです」
「シルクティア?」
セオドリックは叔母に告げられた名前に目を見開いた。
「シルクティア侯爵家の縁者の方ですか? そんな上級貴族の方が家庭教師に? 分家は財産状況が良くないのでしょうか?」
「アーシュリア様は分家の方ではなく本家のご令嬢ですよ、セオ!」
「ええ!?」
セオドリックは目を見開いた。
「そうよね……あなたはあの大騒動の時まだ寄宿学校で、そのあとは帝国に留学したからこちらの世情には疎いわよね……十年前はアイリスがいよいよというところで伯爵家も社交界に顔を出す暇もなかったし」
叔母が頬に手を当て、ぶつぶつとつぶやく。
「あの、どういうことでしょう?」
「王太子フェルナンド様のご婚約の件ですよ」
「ああ!」
いわれ、ようやくセオドリックも思い出した。
確かに十年前、まえまえから婚約していた令嬢と婚約破棄し、よりにもよって男爵家出身の娘を妻にすることを決めただとかなんだとか、醜聞になっていた。
騒ぎは一応寄宿学校の内側にも届いたが、叔母の言うとおり母がいつ亡くなってもおかしくないという状況にあったセオドリックにとってはすべてどうでもいいことで、友人たちの話を右から左に流していたのだ。
「確かもともと婚約していたのは……シルクティア侯爵家の一人娘だったはず……まさか」
「そのまさかです。婚約破棄のあとアーシュリア様は帝国の修道院に赴かれたという話でしたけど……」
「そのまま帝国貴族と結婚しなかったのですか?」
結婚前に醜聞がついてしまった娘を異国の修道院に入れ、そのまま海外の貴族と結婚させるというのは資産に余裕があり歴史のある上流貴族がよくやる手口だ。
シルクティア家の娘であれば帝国の伯爵家くらいとなら簡単に縁組で来ただろう。
家庭教師は寡婦がなる職であることを考えれば、一度結婚したが相手が亡くなったのかもしれない。
「それが、まだ未婚なのですって」
「未婚、ですか……」
それは驚きだ。
「経歴は十分なのだそうです。帝国内でいくつかの家でお勤めしてたのですって。最後にお教えしたのはフォーリア伯爵家の三女、ベラルシア様だそうよ」
「というとドミナンス公爵家との婚姻が決まった!?」
「ええ、ええ……! 思わず大使館にも問い合わせをしたけど間違いないそうです」
「それはすごい」
伯爵家の三女が公爵家の嫡男と結婚する。
これはなかなかないことだ。
お金のある貴族の家であっても子や娘が多ければ、下の方に行くほど資金が底をついて教育が滞りがちになる。娘の場合はいい結婚をさせるためには持参金を多く持たせる必要があるが、長女や次女には満足いくものを用意できても三女以下はそれが出来ずに格下相手の結婚になることも珍しくない。目の前の叔母も三女と四女の教育と結婚に四苦八苦している。
それが舞踏会で見初められて地位が上の男と結婚など、ロマンス小説のような出来事だ。
「公爵子息はご令嬢の洗練された物腰をいたく気に入られたという話でしたわね。それを施したのがアーシュリア様のようなのです」
「シルクティア家の生まれで妃教育も一度は受けた方ですから、そういうこともあるでしょうが……しかし……」
「ええ、つまり、アーシュリア様は現王太子妃エリザベス殿下に毛嫌いされているということです」
セオドリックと叔母は揃ってため息を吐き出した。
エリザベス王太子妃といえば今やこのセレナ王国のあらゆる流行の発信源だ。
結婚した当初はあれやこれやと言われたものだが、優れた社交手腕を持ち上流界を取り纏め、外交も難なくこなし、王太子の寵愛は厚く結婚して八年で二人の子宝にも恵まれている。
王国で今最も輝いてる女性といえるだろう。
そんな人物と争い、敗れた経歴を持つ家庭教師を雇っていいのかどうか。
セオドリックは考え込んだ。
「いやでも、エリザベス王太子妃が結婚したからと言って生家のシルクティア家が政治的にないがしろにされている、と言う話は聞きませんよね?」
「そうね。次期侯爵のノーバート様も議会に出入りしてますよ」
「……だったら、可能ならアーシュリア嬢を雇いたいと思います。シルクティア家との縁が出来るのは我が家にとっても光栄なことですし」
「そう……あなたがそう決めたなら、わたしがどうこう言うことではないでしょう。紹介状を用意してもらえるよう頼みます」
そうして後日紹介状を持って現れた人物にセオドリックは驚いたのだった。