AED問題と善きサマリア人と詐欺師ベル子
AED問題について、ほんのちょっと説明を。
AEDというのは動体外式除細動器のこと。要するに心臓がヤバい状態になったときに電気ショックを与えて復活させる機械のことです。この機械のいいところは、医学的知識がまったくなくても音声ガイドに従うだけでそれなりにうまくいくというところにあります。
ただし、仮に女性が倒れた場合、胸をはだけさせる必要があり、これがセクハラではないかということで責められる可能性があります。これをAED問題といいます。
医療の現場においてはどうでしょうか。医療行為は多かれ少なかれ患者の身体にメスを入れる行為です。仮にメスを入れないとしても薬物を使ったり、あるいは触診をすることも身体に影響を与えます。要するにあらゆる医療行為は患者への身体的な侵害行為になりえます。しかしながら、当然のことながら、医療行為をいちいち侵害行為であると言われていては誰も医療行為を行えなくなります。そこで、法は悪意または重過失がない限りは、悪くないよと解釈することにしました。
一般人どうしにおいてはどうでしょうか。
民法においては、これを緊急事務管理といって、事務管理というのは直接的に責任がないのに他人の事務を管理することです。道端で倒れた人を介抱する責任は行き交っただけの人にはありません。しかしながら、これを助けようとしたことについて、一定の関わりが生じ、責任の問題へと発展するということになります。
この問題をシンプルに見ると、関わった以上は、適切に関われということを言っているわけで、リスクの問題として見ると他人に関わらないほうがリスクがゼロなわけですから、リスクマネジメントとしては優れていることになります。
さきほど述べたように、『悪意』や『重過失』が認定されれば責任を問われることになるんですからね。なにもしなければ責任を問われることはないのに、関わってしまえば、『悪意』や『重過失』を常に認定・判断される可能性があるということです。この点を、「ほとんどの場合救助した人間が悪く言われることは無いだろう」と考えるのは良いにしても、実際の裁判においては、『(重)過失の有無』の判断にかかっており、救助時点においては、どう転ぶかわからない曖昧な状態に置かれることになります。
このことは、善意によって救助しようという行為を障害するものだと言えます。
この論点を対照化する法理として「グッド・サマリタン・ロー」というものがあります。グッド・サマリタン=善きサマリア人の法理とは何かというと、聖書に起源があります。かいつまんで説明すると、ユダヤ人が強盗にあって半殺しの目にあったときに、偉い人たちは見えないふりしてさっさと先に行ってしまったんだけど、その当時は異邦人扱いでほとんど罪人同然だったサマリア人だけがその人を助けてくれた。ユダヤ人の隣人となったのは誰かという問いです。もちろん、サマリア人であるというのが答えであり、この点は相互扶助の精神によって生じた善意の行為はその人の悪性を相当程度洗い流すものだと考えたのでしょう。
つまり、グッド・サマリタン・ローの核心部分は『善意の行為は罪に問われない』ということです。
この点、日本における緊急事務管理とかなりの部分は重なるものと思います。『ほとんどの場合は罪に問われないだろう』ということを無根拠に信じるのならば、グッド・サマリタン・ローは不要であるという結論になるのです。
ですが、緊急事務管理においては、再度申し上げますが、『過失』の有無を終局的に他人(裁判所)によって判断されることになります。
対してグッド・サマリタン・ローは、州によって若干のブレは生じるものの、外形的に応急手当が認められるのであれば責任は問われないというところに意味があります。つまり、これは日本の民法典における曖昧性を極力廃止し、応急手当をしようとする者の障害を排除する機能があるのです。
では、グッド・サマリタン・ローを導入すべきなのか?
この点については、グッド・サマリタン・ローを導入したとしても、『悪意』があったとして訴えることは可能です。グッド・サマリタン・ローは善意の行為は罪に問われないのですから、善意の反対である悪意は罪に問われることになります。もちろん、それでも過失による罪はなくなることで、だいぶん安心感は増すと思いますが、裁判所に訴えられて、この人はセクハラ目的でAEDを使ったんですと言われる可能性はあります。
結局、罪に問われないだろうというラインがやや前進しただけで、グッド・サマリタン・ローも完璧なものではないんです。
では、もっと進めて、反対の方向にリスクを持たせるのはどうでしょうか。要するに『救護義務』を課すのは?
AEDをもっとも使える状況の人が使わなかった場合、見捨てたことが罪になる。救護義務に反したとして責任を問えるとする。こういう救護義務を課している場合も、グッド・サマリタン・ローにはあるようです。
しかし、そもそも相互扶助の精神をもとに発生したグッド・サマリタン・ローにつき、それ以外の利益判断を持ちこむのは法益の矛盾が生じるように思われます。リスクにさらにリスクを重ねるのは、結局、人が人に会うこと自体がリスクになり、社会を硬直化させかねません。
ここで、多くの日本人の心性を勝手に想像しますと、『聖人』自分が不利益を被ってでも他人の利益を追求する人はあまりいない。しかし『善人』自分が不利益を被らない限りにおいて他人の利益を追求するのはやぶさかではない人は多いのではないかと思っております。他者を助けてあげるというのは他者の享楽であり、人間の本性に根づいた強烈な体験なのです。つまり喜びなのです。ただ、いくらなんでも炎にとびこんで自分の身体を食べてもらうウサギみたいな存在にはなれません。善人であるということは、聖人になりたいけれどもなれない妥協的産物として立ち現れる概念です。
ところで、この善人であるということを経済的観点から表現すると『パレート最適』という言葉によってあらわされます。パレート最適とは『誰かの状況を改善しようとすれば、他の誰かの状況を悪化させることになる』という状態のことを指します。純粋な理論においてみれば、自分が不利益をまったく被らないというのは考えられません。時間やあるいはなにかしらの手間はかかっているものでしょうから。しかし、そこは少し目をつぶって、大方の不利益は受けないで、誰かを助けることができるならそれはOKという考え方につながるのではないかと思います。AED問題においていえば、片方に乗っているのは人の命なわけですから、AEDを持ってくるくらいなら不利益とはいえないという感じです。
善人である日本人からすれば、AEDを持ってくるくらいはいいと思います。しかし、訴えられる可能性を考えれば、それは不利益だと考える人は多いでしょう。したがって、ここでは善意を後退させて、例えばAEDを持ってくるくらいはいいけれど、あるいは救急車を呼ぶくらいはいいけれど、胸をはだけさせてAEDを直接当てるのは無理だと考えてもやむをえません。
また、他者がその人に向けて、善意を後退させるな、あるいは聖人になれというのは、いくらなんでも無茶というものです。
もう一度論点をおさらいしますと、AED問題は、人の善意を後退させることです。つまり、訴えられることを不利益とみなし、救護することを躊躇してしまうことが問題です。そう考える人が増えることでパレート最適における全体的な利益が縮小するからです。
であれば、個人の不利益を覆すほどの個人的な利益を社会的に与えるべきなのではないでしょうか?
例えばの話です。AED救護など、人命を救った場合については、相手方から訴えられたか否かに関わらず、お金をもらえるとするのはどうでしょう。訴えられたら弁護士費用がかかるかもしれないじゃないかと思われるかもしれないが、例えば、もらえる額が1000万円、1億円と増えていけばどうでしょうか。
最終的にリスクとベネフィットがつり合い、やがてベネフィットのほうが重くなったときに、善意は保全されないでしょうか。もちろん過大な額であれば、善意を穢してしまうと思います。無理やりにでもAEDを使おうとする輩もでてくるかもしれません。ですが、日本の裁判における精神的慰謝料は平準化されています。痴漢・セクハラであれば一般的には100万円程度でしょう。(もしかしたらわたしの知識不足で違うかもしれません。ですが、論旨に影響はありません。)肉体関係を繰り返したとか、そこは事態においても判断がわかれるところでしょうが。
今回のようにAEDの使用方法においてセクハラが認定されるとして、その額はいくらになるでしょうか。100万円よりもずっと少ないのではないかと思います。この訴訟額というのは、相手方の胸算用で決まるところですが、裁判所から届く訴状のコピーにバッチリ記載されていますので、客観的に判断可能です。そして、裁判の期間なども長期化・短期化いずれに至るかは不明ですが、最終的には客観的に経過した時間が誰の目から見ても明らかになります。要するに定量的に判断可能なのです。したがって、それに照応するように貰える額も決定可能です。
精神的なダメージはどうでしょうか。もちろん、お金によって慰撫されます。結果的に負ける可能性があるとしても、もともとAED問題においてはかなりの部分が違法性阻却される可能性が高く、お金がもらえるのならば訴訟という煩わしい出来事に付き合ってもいいかとなる均衡点が存在しうると考えます。
時間はどうでしょうか。訴訟には時間がかかりますが、これも同様にお金によって中和しえます。長期化すればもらえる額が多くなればいいのです。
名誉はどうでしょうか。お金によって中和しえます。もちろん、名誉を重んじる人にとってはお金をもらっただけでは救われないという人もなかにはいるかもしれません。しかし、そういった方は、お金を受け取らないという行為によって、自らの高潔を証明できます。
すげえな、お金さいこーじゃん。
ではどうやってその原資を確保するかですが、考えられる方策としては、組合あるいは保険あるいは寄付のようなイメージでしょうか。
社会と国家と隣人を愛する善良な日本人のみなさんは、AED問題における善意の後退を阻止するために、毎月100円ずつ保険屋たる夢野ベル子に支払うわけです。その人数が増えてくると、システムの安定度は増します。もちろん中には全避けしとけばいいわけだから、そんな保険料払いたくないよって方もいるかもしれません。
ですが、癌や心臓病で死ぬかもしれないという理由で保険に入りたがるくせに、なぜ社会的に死ぬかもしれない可能性については目を瞑るのでしょうか。
ね、入りましょうよ。ほらほらリスクマネジメント。たった100円で社会的に死ぬ可能性が減るんですよ。これは入らないと損でしょう。
あ、詐欺師の気分がわかってきちゃったので、ここらへんでやめときます。
全部うそうそ。かわいらしい幼女の妄言です。
ちなみにベル子は聖人クラスなので、もちろん不合理に助けますよ。
AED問題は感想問題でもあります。感想を書くとき、必ず相手方からセクハラだ、痴漢だと訴えられるリスクは生じます。リスクマネジメントの観点から言えば、感想は書かないほうがよろしいということになりますが、作者は多かれ少なかれ感想を求めているものです。合理的な人間は、感想を書かないのですが、人間の合理が、なろうというコミュニティの全体益を縮小させてしまうわけです。そう考えると、感想を書く人は不合理な人間であり、聖人です。しかし聖人は気狂いでもあるのですから、自らの言葉がレイプ犯のそれであると肝に銘じるべきです。あ、ちなみにわたしは全裸にひん剥いてもOKな幼女ですので、感想・評価しても大丈夫ですよ。むしろよろしくお願いいたします。あと、こういうファンタジーシステム(保険とか)で問題解決を図れないかって妄想するのは、たぶんSF的な発想に近いなって思ってます。上の仕組みはガバガバですけどね。