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きみと飲んだコーヒーは甘かった


 世の中、というよりも個人的になのだが、かなりの確率で外れてくれない『嫌な予感』というものがある。


 朝寝坊して、朝食を食べ忘れ、焦ってテーブルの脚に思いっきり小指をぶつけ、ついでとばかりにデートの待ち合わせ場所までの道すがら雨がざあざあ降ってきたところでアンジェリカはそれを察知した。

 もちろん傘は手元にない。


 なぜ、()()は外れた試しがないのだろう。


 特別に人より鋭いわけでもないのに、分かってしまうから厄介だ。




 と、思ったところで現実から逃避できるはずもなく──




「すまない、アン。別れてくれ」


 なーにが、『すまない』だ。

 そんな態度で済むと思ってんのか。

 このすっとこどっこいめ。


 アンジェリカはそんな気持ちを抑えるために紅茶の入ったカップに口を付けた。


 すっとこどっこいにしてクソ野郎ことラキームの隣でぷるぷる小動物の如く震えている涙目のキャロラインを視界から消すように視線を逸らすのも忘れない──が、彼女のすんすんと(はな)を鳴らす音が(うるさ)くて、存在をありありと感じてしまう。


 キャロラインは、アンジェリカが妹のように可愛がっていた自身の務める喫茶店の後輩の女の子()()()

 後輩の時期はたったの四か月間だったけれど──つい前日彼女がいきなり仕事を辞めた理由がこの時、分かった。


 だが。それは今日、いや、今、この瞬間に終わりを迎えたので、これからの彼女の肩書きは『先輩から恋人を取った女』になる。


 アンジェリカは彼女のことを、ちょっぴりドジで、だけれども一生懸命でふわふわと綿菓子のような庇護欲ある愛らしい天使のような女の子だと()()()()()

 しかし。

 それも、知り合って二十年かつ付き合って六年の結婚秒読みだと思っていた恋人のラキームが彼女の肩を抱き、わざわざ人が大勢いる真昼間の休日の人気カフェでアンジェリカに謝罪する直前までの話である。


「本当に申し訳ないと思ってる。……でも、キャロを、いや、キャロラインを愛してしまったんだ」


 だから聞き飽きたっつーの、ボキャブラリー少な過ぎだろ。くそが。『でも』ってなんだっつーの。


 ……なんてことはアンジェリカは言わなかったし、顔にも出さなかった。

 だって、取り乱すなんてプライドが許さない。


 それに、「くっ……!」と下唇を噛み、眉を(しか)める()恋人はまるでここが舞台の上かのように声を張り上げるものだから、アンジェリカは悲しいと思うよりも恥ずかしさを感じてしまったのだ。

 幼い頃から知っている人間の予告のない黒歴史劇場は、もはやテロと同じである。


 やめてほしいし、本気ですまないと思っているのならアンジェリカの六年を返してほしい。


 いや、まじで返せ。無理なら金を寄越せ。


「ごめんなさい、アンちゃん先輩」


 なんで、あなたが泣くの?

 というか、虫唾が走るので『アンちゃん先輩』って呼ばないでほしい。


 彼女に謝られた途端、アンジェリカの彼への情は消えてなくなった。

 塵すら残さない完全なる消滅である。いっそ清々しい。

 ついでにこの女を思いやる気持ちも死んだ。

 大体、驚いた時に「ふえええ」だの「はわわ」なんて言う女がまともなわけがない。

 咄嗟に出る言葉はそんなふわっとした音のわけがないのだ。

 だけど、悔しいことに彼女の見た目は最高に可愛い。小柄で華奢で色白で……アンジェリカが憧れる女の子の形をしている。

 女のアンジェリカがそう思うくらいなのだから、ラキームなんてイチコロだったのだろう。


 アンジェリカはうるうるしている女の目に見たくない嘲りの色を見つけ、泣くもんかと頬の内側を噛んで、できるだけ感情が出ないように「分かりました」とだけ言った。


「は?」

 キャロラインはそう呟いて怪訝な表情をした──ほら。やっぱりね。

 いつも聞いている「ふえええ」や「ほえっ」や「はにゃ?」は演技だったのだ。


「あのぉ、アンちゃん先輩は私のこと怒ってないんですか?」

「別に? 怒ってないわ」

「え〜、無理してません?」


 してるに決まってんだろうが。このぶりっ子め。


「……してないよ」


 こんな女に靡いたチョロ()と付き合っていた事実がアンジェリカを打ちのめすが、泣かない。泣かないったら泣かない。


「話がそれだけなら、私は帰るわね」


 計算高い女に長年付き合っていた男を取られた惨めな女は、席からゆっくり立ちあがって「会計よろしく」と言って踵を返した。


 名前を呼ばれた気もしたが、振り返らない。いや、振り返れない。


 泣くもんか……!


 だって、涙は女の武器なんだもの!

 だから、あんなくだらない人間達の為に流す涙はない。


 ないったらない!


 アンジェリカは、雨に打たれながら目から大量の()をだらだら流し、ずんずん歩いた。




 ──これが、半年前の話である。






 ゜+.――゜+.――゜+.






 腕時計を確認すると、昼飯にはまだ少し早い時間だった。


 カランコロンとドアベルの音を鳴らして店に入った途端、豆の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

 初めて来た場所なのに、どこか懐かしさがある空気感に緊張していた肩の力が幾分か和らぐのが分かる。


「いらっしゃいませ」


 高過ぎず女性にしてはやや低い、しかし落ち着いていて心地良い声に、冷たくなった指先の感覚が戻っていく。



 ラキームがその喫茶店に入ったのは偶然ではなかった。

 つい半年前まで交際していたアンジェリカの勤め先だと分かった上で来店した。


 そして、落ち着く声でラキームを迎えたのはその彼女だった。


「……お好きな席へどうぞ」


 アンジェリカは、ラキームを見てほんの僅かな時間だけ驚いた顔を見せたが、すぐに立て直して店員の顔になった。


 ラキームはそれを見て、自分は()()許されていないのだと思った。

 でも同時に、きっとアンジェリカならば許してくれる、とも思っていた。


 カウンター席に座り、話しかける隙を伺う。今日は水曜日、ラキームの記憶通りならば比較的混みにくい曜日と時間のはずだ。


 半年前、ラキームはちょっとばかし目移りした……いや、浮気をした。二股だ。


 つまり。今が三百年前なら死刑を言い渡されていた重罪を、ラキームは犯した。


 その相手というのが、アンジェリカとラキームの三つ下の可愛い女の子──キャロライン。

 キャロラインは目が大きくて甘え上手で、一人称が「キャロ」で、びっくりした時に「ふえぇ~っ」と言うような庇護欲唆る可愛らしい女の子だった。

 キャロラインはアンジェリカと違って、ふわふわして……いや、ふわふわし過ぎて地に足が着いていないような子でもあった。

 そこが可愛いなと思っていたし、頼られることが嬉しかったが、それはキャロラインと付き合って二ヶ月間という短い期間のみの話だ。


 なぜかと言うと、キャロラインはとにかく非常識で節操がない人種に属される人間だったからだ。


 アンジェリカと別れてまで一緒になったのだからと、もはや意地でキャロラインによく言い聞かせてもやったが、彼女は魅力的な大きな瞳をうるうるさせて、別の男の胸に飛び込んで行ってしまった。

 そのおかげで、ラキームは相手の男に『キャロラインのストーカー』だと認識されている。

 まったくの濡れ衣だ。

 なんたる侮辱だとも思ったが、まあ……その男もそう遠くない日に真実を知るだろうと引き下がった。

 ちなみにその男には付き合って数ヶ月の恋人がいたとかいないとか──後にキャロラインが『人のモノを欲しがる』悪癖を持つ女と知ることになるが、それは今この時には関係のないことである。


 しかし、それももう終わった話だ。

 あんなアバズレよりも、今は愛しのアンジェリカである。


 薄化粧で、たっぷりとした艶のある黒髪を後ろできっちり結んでいる彼女に野暮ったさはない。

 姿勢が良く、清潔感もあり、それでいてどこか色気を感じる半年ぶりのアンジェリカは、ラキームが少し不安を覚えるほどに綺麗になっていた。


 不安?

 何を馬鹿な。


 アンジェリカは自分しか男を知らない。

 そんな心配なんてしなくてもいい。

 物心付く頃から、ずっと一緒に過ごしてきたアンジェリカは、ラキーム一筋の女の子だった。会っていなかった半年の期間を差し引いても自分達には二十年以上の絆がある。


 そうして己を鼓舞したラキームは、アンジェリカに声をかけた。


「やあ──」



 ──久しぶり。元気だった?

 ──ええ、元気だったわ。ラキームは?

 ──俺は元気じゃなかった、かな。

 ──どうして?

 ──君が、いなかったから……。

 ──ラキーム……!



 てな具合に話を進めて、復縁をする予定だ。抜かりはない。

 昨日寝る前に何度も何度もイメージトレーニングしたのだ、大丈夫に決まっている。


 ちらり、と目が合ったアンジェリカに、「久しぶり」と言ったと同じタイミングで、運悪くカランコロンとドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ!」


 嬉しさを隠そうとして失敗した弾んだ声に、ラキームは硬直した。


「アンちゃん、マスター、こんにちは」

 そう言って、カウンター席──ラキームの二つ隣の席に座った男の声にも、隠せない喜色が滲んでいた。


「どうしたの? 今日は来られないかもって言っていたのに」


 アンジェリカが続けて「いつもの?」と聞くと、ぱっと見でもかなり身なりの良いと分かる男はメニュー表に目を落とさずに「うん」と笑顔で返す。


 その間、ラキームは店長らしき初老の男性にメニューを聞かれ、メニュー表の中の一番上に書かれているコーヒーを指差した。


「一件打ち合わせがなくなったんだ。それで社長が婚約者に逢いに行きたいって駄々を捏ねちゃってさ。で、僕が逢瀬に邪魔だからって言って、一時間早くお昼休憩を貰ったんだ」

「お疲れ様。社長秘書さん」

「全然疲れてないよ。それに社長には感謝してるくらいだ」

「あら、そうなの?」

「うん。こうしてアンちゃんに会えるから有難いなあって思ってる。アンちゃんの笑顔は僕の栄養剤だからね」

「お上手ね」

「本音だよ?」

「ふふ。あなたは野菜が足りないから、特別にブロッコリーを増し増しで入れてあげるわ」


 そこでアンジェリカはくるんと振り向いて、ラキームの対応をした男に「いいでしょ、マスター」と首を傾げて甘えたように言う。


 マスターと呼ばれた男は、ラキームにコーヒーをサーブしながら『仕方ないなあ』とでもいうかのように眉をコミカルに動かしてから頷いた。


「……ねえ、アンちゃん? ブロッコリーはやめない?」

「だーめ。体にとっても良いんだから食べなさい」

「えー……」

「ブロッコリーを食べられる人が好きだわ、私」

「僕、実はブロッコリーが世界で一番好きな食べ物なんだ! 山盛り入れて!」

「やあね、そんなに入れないわ」

「アンちゃんの為なら、僕は一生ブロッコリーだけで生きてみせる」

「ばかね、私はもっとたくさんレパートリーを持ってるんだから、ブロッコリーだけなんて食べさせないわよ」

「さすがアンちゃん」

「すぐ作るから待っててね」

「うん」


 ──なんだ、これは。


 ラキームは、呆然と湯気の出るコーヒーカップを見ながら右側から聞こえる会話について考える。

 そして、そんなラキームに店長がこっそりと耳打ちするように話しかける。


「すみません。お客様の二つ隣のお客様にサービスしている場面を見て、嫌な気持ちになったでしょうか……?」


 呆然とするラキームの態度に、店長が何やら勘違いし、謝られたラキームは引き攣った笑顔と掠れた声で「あ、いえ」となんとか返す。


 すると店長はラキームが怒っていないことが分かりホッとしたのか、聞きたくないことをつらつら話し始めた。


「あのお客様なんですがね、アンちゃん……ああ、うちの看板娘に恋してもう三年も通ってくれている常連さんで、半年前にアンちゃんが恋人と別れたって聞いてからはそれはもうこちらが恥ずかしくなるくらい猛烈なアプローチをして──」


 耳を塞いでしまいたかったが、それはできなかった。


「──つい最近付き合い始めたんですよ」


「……」

「先ほど、アンちゃんに何か話かけましたが、そういうわけなので……あの子のことが気になってもちょっかいはご遠慮くださいね。お詫びにクッキーをおまけしますから」


 茶目っ気たっぷりの笑顔を見て、ラキームは店長──この男に一度だけ会ったことがあることを思い出した。


 ラキームがアンジェリカと付き合うとほぼ同時期に、街でばったり遭遇し、挨拶をしたことがあるのだ。


 確か、付き合って初めてのデートの日だった。


『店長さん、アンに悪い虫がつかないように、頼みます』


 記憶が確かならば、ラキームは彼にそう言ったはずだ。

 そして彼は、『まかせてください』と返してくれた。




 ラキームはすっかり冷めてしまったコーヒーをぐっと一気に飲んでから席を立った。


 ちらりとアンジェリカの方を見るが、(がん)としてこちらを見ない意志を感じる横顔に横っ面を引っ叩かれたかのような衝撃を受け、話しかけることも復縁も諦めた。



 ラキームの会計は店長がした。


 カラン、とドアベルが鳴る時、来店する客とすれ違う。


「いらっしゃいませ」


 ラキームへの言葉はない。



 帰り道はひたすらに惨めだった。


 キャロラインと別れてから、いや、アンジェリカと付き合っている頃から両親に結婚と『孫の顔が見たい』とせっつかれていたラキームは今日、彼女と復縁し求婚するつもりだったのだ。

 両親はラキームが報告しなかったので、アンジェリカと別れたことは知らないし、てっきり自分達の息子のところに嫁に来てくれると思っているだろう。


 でも実際は違う。


 アンジェリカはいつもラキームを大事にしてくれた。

 アンジェリカはいつもラキームが大事にしているものをも、大事にしてくれた。


 それなのに。


 そんな献身的な彼女に、自分はどうだったろうか。

 酷い扱いはしていなかったとは思うが、大事にしていたかと問われれば自信をもって頷くことはできない。


 キャロラインに『先輩に内緒で会いたいです』と言われた時から、アンジェリカとキャロラインの優先順位を入れ替えた。

 長年連れ添った幼馴染であり恋人の後輩との恋──許されざる恋に酔ってアンジェリカの気持ちを慮ることはしなかった。

 ……ほんの少しも。


 本当のことを知れば、アンジェリカを娘のように可愛がっていた両親……特に母は何を思うだろう。

 同じくラキームを息子のように思ってくれていた彼女の両親はどう思っているのだろう。


 失ったものの大きさに今更ながら、後悔が押し寄せてくる。

 だが、それが分かったところで失ったものは戻らない。


 零れた水がもうカップにもどらないように、割れて粉々になったカップでコーヒーは飲めないように、元の形には決して戻らない。



 ラキームの口の中にはまだ酸味がある苦いコーヒーの味が残っていて、それをとても不快に感じた。



 しばらくの間は、コーヒーは飲めそうもない。




【完】


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