二話
小学校、中学校と卒業して僕は高校生になった。
電車を乗り継いで、だいたい30分くらいの距離。
鈍足の普通列車しか止まらないような駅から乗っている。
それなら絶対、少し遠くの駅まで行って急行で乗ったほうが得なんだけど
それをしないのには、実はわけがあった。
自転車でその花屋を通り過ぎる際、運よくその人と目があい
彼女は僕に手を振ってくれる。
なんて幸福なのだろう。
毎朝やっているテレビの占いなんかよりも、よっぽどあてになる気がする。
彼女が手を振ってくれたら一日が凄くいい日で、
彼女が僕に気付いてくれなかったら、その日はダメダメな一日。
そして、そもそも店が営業していない日は・・・僕も仮病を使って家に帰ってしまってもいい気になる。
そんな彼女、姫路さんに出会ったのは一ヶ月前の事だ。
僕は自転車での帰り道、その花屋の前で盛大にすっころんだ。
坂を下ってきてからの、強引なハンドル切りだったのだ。
自転車がそれに耐えられずにタイヤは段差に足を取られ派手にジャンプした。
そして、当然乗り手である僕の身体も硬いアスファルトに強かに叩きつけられた。
死んだんじゃないかと思った。
「キミ!大丈夫!?立てる?」
そうして駆け寄ってきた声の主に、僕は天使がお迎えにきたように思えた。
「ん・・・・ぐ・・・」
声を出そうとすると喉の奥から血のにおいがして吐き気を感じて、口をギュっと結んだ。
「すぐそこに私の家があるから掴まって!」
声にならないような声を出しつつ僕は言われるがままに彼女に掴まる。
というか今思えば、身体フラフラな男一人を担げるなんて姫路さんって結構逞しかったんだな。
僕はその後、彼女の店に寝かされ手当てをされた。
「・・・・・すみません。」
「いいよ。気にしないで。あとで車でお家まで送ってあげる。自転車壊れちゃったみたいだしね。」
足にガーゼを当てながら彼女はそう言う。
「い、いいえ。そこまでは流石に・・・親に電話して迎えにきてもらいます。」
「気にしないでって。キミ、さっき花を避けようとしたんでしょ?そんな花に優しい子が私なんかに気を遣わなくていいよ。」
そう、僕は道に咲いて伸びていた花を、そのまま踏み潰してしまいそうになって慌ててハンドルを切った。
その結果、こんなに派手に飛来してしまった。
「大抵の人はそのまま踏み潰していっちゃうんだもの。花を好きな人は多いけど、だけどいざって時はやっぱり雑に扱っちゃうの。
花だって生きてるのにね。」
だから、ありがとう。と彼女は何故かお礼を言った。
「こ、こちらこそ、ありがとうございます。」
ちょっと照れくさい。こういう人を、まさに解語の花と呼ぶのだろうか。
「私は姫路。姫路桜って言うの。この花屋の店長をやってます。といっても店員なんて私一人なんだけどね。キミ、名前は?」
「・・・旭ヶ丘千尋・・・です・・・。」
「そっか、よろしくね。千尋くん」
その時の、安心できるような笑顔に僕はすっかり救われてしまった。
だからやっぱり天使なんじゃないだろうかと思えた。
大人の魅力って感じだ。
「千尋くん。おかえりなさい。今日も帰って来るの早いね。部活とかしてないの?」
「してないです。夜遅くなっちゃうので、その分勉強の時間に充てたいなぁって思って。」
「へぇ、偉いね。」
夜遅くなってしまうと、姫路さんの店は閉まってしまうので姫路さんの店に立ち寄って彼女に会えない。
それが困るので部活になんて所属していない。というのが本音だ。
「でも、せっかく早く帰ってこれるのに私のお店に着てたら意味ないんじゃない?」
「・・・あぁ、いえ、あの、・・・ひ、姫路さんと喋るのも、とっても勉強になりますし・・・」
「そうかなぁ。そう思ってもらえるなら私も嬉しいけどね。」
ちょっと照れくさそうにする。
本当は閉店まで居座りたいんだけど、流石に営業妨害になったら嫌なので
僕は帰りたくない気持ちを抑えに抑えつつ他の客が着たら帰るようにしていた。
今日は三十分くらいも彼女を独り占めに出来た。
店を出ると中古で買ったマウンテンバイクに跨り、他のお客さんの相手をする姫路さんに手を振った。
忙しそうにしながらもまた、彼女の笑顔をかっさらうことができた。
今日はとってもいい日だ。
彼女の店に寄れば、彼女に逢えれば、とっても晴れやかな気分になる。
モノクロで息の詰まる教室で、欠伸の出るようなつまらない授業に耳を傾けながらの一日を、チャラにするように鮮やかに塗り替えてくれる。
そう思える。
何もしたくない。何も考えたくない。八方塞で本だけ読んでりゃそれでいいと思っていた僕の日常を、変えてくれたんだ。
まさに、僕を救ってくれた天使だったんだ。
そろそろオレンジ色だった空も濃いコバルトブルーになりつつあった。
三十分だけとはいえ、夜は夜だった。
チカチカと点滅する古びた外灯がそれを教えてくれた。
数年くらい前から、使われなくなってしまった公園がある。
名前は実は知らないし、知ってても覚えちゃいない。もうずいぶん前に表札も消されてしまった。
もう古びていて危険だからと遊具は撤去、処分され公園としての役割を果たしていない。
ただそこに真四角の空白があるだけだ。
何はともあれだ。
昔は外が騒がしくて迷惑なだけで僕には何も関係ない場所だ。
そんな公園の跡地を眺める女の子が立っていた。
ジっと見つめたまま動かない。
風で長い髪がユラユラと揺れていて、前髪はなんだか伸ばしっぱなしでなんだか幽霊のようだった。
夏だというのに冬服のセーラー服を着ていて、それがそんな僕の馬鹿げた発想をより際立たせていた。
だけど、本当に幽霊か何かだったらどうしよう。そう思うとさっきまで蒸し暑さが恋しくなるような肌寒さが襲ってきた。
こういうのは関わらない方が吉だ。
そうして、僕は再び足に力を入れてペダルを漕いで家に帰宅した。
その日はどうにも寝つきが悪かった。
小学生から中学にあがる際に一人部屋をもらって、大きなベッドになった。
その無駄に大きなベッドが小さな部屋をより小さく感じさせているはずなのに、そんな眠れない夜は
どういうわけか嫌になるほどに広く感じてしまう。
広く感じて怖いと感じてしまう。
仰向けになって見上げる天井は異様に高くて、外灯や月明かりが締め切ったカーテンから忍び込んできて僕の睡眠欲の邪魔をする。
小さい頃・・・例えば小学生低学年くらいの頃ならもっと広く感じられていたのだろうな。
それくらいに自分という存在が、この部屋に対して小さく感じられて、どうにも不釣合いに思えた。
そういう意味では、あまりに身勝手だけど、実の親に対してこんな時ばかり「余計な事をしてくれやがっって」と思ってしまう。
まぁ、当時は「ありがとう」としか言ってないけど・・・。
「ダメだ・・・。眠くないと嫌な事ばかりを考えてしまう。」
枕を顔に押し付けて無理に眠ろうともがく。そんな行為が無駄である事はわかるし、余計に眠くならないのがわかっていてもだ。
今日は姫路さんとも沢山喋れていい日だったはずなのに・・・それもきっと公園の前で、あんな幽霊みたいな女の子を見てしまったからなのかな・・・。
いや、全く知らない女の子に責任を擦り付けるのはよくないな・・・。
「──・・・あの子の制服、西中の制服だったのかな。」
暗くてよくわからなかったけど、地元の中学で一番近い学校ならそこしか思いつかなかったし、あの背丈なら高校生ではないだろう。
中学1年生くらいかな・・・。
それこそ余計なお世話かもしれない。
じっと天井を睨みつけていると、ようやく願った睡眠欲が顔を出して舞い降りてきた。
きっと目覚めはよくないだろうけど、そんなものは期待しない。
出来れば今日の、姫路さんとの時間だけ残して他は全部忘れられればいいと思う。




