自衛隊
東京へ家出して戻った私に、もう親子3人の暮らしはなかった。親父の怒りは凄まじく顔を合わせることも口を開くこともなかった。それ故、当時あまり希望者がなかった自衛隊に入ることにした。
今でこそ魅力ある仕事として、婚活では持て囃される職業だが、昔は制服を着て歩いていると、税金泥棒と呼ばれた。私も、今から50年前の1968年、名古屋駅地下街で、制服姿でお袋と一緒に歩いていたら、若い男からその汚い言葉を浴びせられた。怒りが湧いたが、懸命に堪えた。
数ある職業のひとつとして選んだ私に、税金泥棒の一言は強い衝撃を受けたが、それは単なる言葉の暴力としての認識としか捉えておらず、本質的なものを深く見つめることはなかった。
千葉県習志野市で空挺隊員の訓練を3ヶ月実施したが、精密検査の腰のレントゲンで、降下着地時の衝撃に耐えられないとの判定を受け、憧れの“空の神兵”にはなれず、これまた挫折を味わった。同期の40数名の中で、私を含む5名だけ不合格、その前の筆記テストで微分積分は出来たが、これは空挺隊員には必要のない知識だった。
名古屋市立向陽高校では落ち毀れの生徒だったが、自衛隊ではそれが生きた、と云うよりあまり頭の良い若者はいなかった。体力はあるが、まともに文章を書ける者や、理路整然と話す若者はおらず、暴れ者の集団といっても過言ではない。
それを、国防の任に耐える隊員に育てる為には、厳しい訓練と思想教育が必要だが、厳しい訓練は何とかなるが、国民を守るという崇高な使命を理解させることは所詮無理な話だ。
挫折の連続の人生だが、自衛隊時代はその学力が些か生きた。習志野での空挺隊員の夢を断ち切られた私は、京都府福知山市の普通科連隊に配置された。
途中名古屋を通過した時は、何故名前も聞いた事のない福知山なのか判然としない気持ちを抱いていたが、入隊して半年ばかりで任務地が名古屋ではまだ親父の怒りが収まっていないだろうから、返って良かったかもしれない。




