男の死にざま
私は養子だが養父母は実の子以上に可愛がって呉れた。養父は小柄な身体に鞭打って過酷な炭鉱労働に耐えた。専ら、昔は日本の男は皆5尺3寸、今で云えば160センチ、この小さな身体で欧米諸国と戦った、それを支えたのは大和撫子だ
しかし、現在は離婚率も増加の一途を辿り、その要因が、夫が妻を大事にしなくなったから、とも言われる。
私も、決して妻を最大限に幸せにしてきたと言える自信は無い、何せ結婚指輪も贈っていない。一重に妻からの献身的な愛があってこそ、日本一の果報者かもしれない。
だがひとつ自慢が出来る、それは後ろを見せたことがない。ある日、同じ団地に住む住人から電話があった。聞けば、妻が車を動かした時、隣の車を傷つけそのまま放置していたので、傷つけられた相手がその弁償を求めての電話だった。
相手は怒り心頭だったが、一緒に警察署に行って被害届を出した。何、物損事故の手続きをしただけ、相手の男は顔見知りで、自車が傷つけられたことに激昂しての電話だったが、私は至極冷静だった。
男は、女房に金銭的に幸せにすることだけが男の甲斐性ではない。男は、時には身体を張って女房を守ること、それが男と言うもの。
力及ばず、と言う言葉がある。良いじゃないか、力の限りを尽くして、それでも妻子を幸せに出来なかったことを恥じることはない。
恥じるのは国だ、5尺3寸の身体で、亜細亜を蹂躙した欧米諸国を相手に戦った男達、それを陰ながら支えてきた大和撫子、寡黙だった日本男児、男は女を愛し、女は男を愛し、重労働に耐え、今日の繁栄をもたらして呉れた先人に心から敬意を表したい。
男と生まれた限りは、男としての役割がある。何も立身出世が最終目的ではない、愛する妻を得たなら、分に応じ生きる事を楽しみ、変に応じては真っ先に自分の身を犠牲にする。
そういう男に憧れ、そういう男で死にたい。袈裟がけで死ぬより、眉間を割られて死にたい。
いささか離れるかもしれないが、男とは、女とは、というとそれは差別用語だという人がいる。また性に疑問を抱いて、実は私は、と、いう人もいる。それに苦しむ人を理解することは本当に難しい。男としての性、女としての性、違うというのではなく、その性を受け入れながら人間としての生き方を模索し、その中に自分らしさをみつける、生きることに疑問を持つのではなく、与えられた人生を精一杯生きれば、生まれたことに意味があるのでは。