意識の変化
そう、戦後働く人達が見つめ直さなければならなかったのはこの雇用に関する法整備の充実だったのだ。この脆弱な雇用関係の改善こそ、労働闘争の骨子としなければならなかった。
そのためには、単なる一時的な権利闘争ではなく、資本主義社会における働く人達の権利はどうあるべきか真剣な議論が必要だったのだ。
派遣という言葉のまやかしに踊らされてはならない。実態は手配師稼業だ、企業の便利屋となった派遣業者、国も働き方改革などと意味不明な概念をばらまき、働く人たちの権利意識を散らそうとするばかり。
現在は求人難だが、良く足元を見つめなければならない。働く場所は沢山あるが、で、だからと云って給与始め労働環境の改善はありますか。
私は、このシリーズ第3巻作品紹介で、弱者が弱者を責める風潮にあると過激な表現を用いた。どうしてか、それは正規社員と非正規社員の確執がどの企業に於いても顕著に見られるからだ。
正規雇用で働いている側から見ると、パートは勤務時間も仕事内容も片手間と映る、パートから見れば社員が本来すべき仕事まで押し付けてくると感じる。
私はこの確執を見ると、あることが頭に思い浮かぶ。
江戸時代、徳川幕府は士農工商の厳格な身分制度のその下に非人制度を設けた。非人、文字通り人に非ず。そしてその非人達に、到底正気では出来ない汚い仕事を押し付けた。
牛、馬を捌く仕事、時には斬首された屍骸の片付け。また、それらの仕事に従事する者達は移動を禁じ一定の場所に閉じ込めた。よく問題となる部落差別は、その名残だ。
この目的は、身分制度に喘いでいる人達の不満解消だった。人だが、人として認められていない者が存在することは、尤も忌み嫌わなければならない優越感を静かに浸透させたのだ。優越感と云うより蔑視、人を蔑む感情だ。
私には正規社員と非正規社員の確執がまるでタイムスリップしてきたかのように市民と非人の関係に映る。どちらも弱者であることに拘わらず、優越感に浸ろうとする正規社員、嫌なことばかりさせると感じる非正規社員。
冷静に考えれば、その確執を巧みに利用しているのは企業であり国だ。働く者同志がいがみ合ってばかりいては、企業や国の思う壺ではないだろうか。
そして企業や国に対し求めていくべきことは、相応の利益配分だ。資本家、株主だけに利益を優先してはならない。資本主義社会は、その資本は金ではなく、人であることを国民一人ひとりが正しく認識しなければならない。
そして、職業に関わる全ての人が社会のインフラにとって必要な存在であることを無条件に受け入れなければならない。
であるなら、その資本主義社会の利益はそれ相当に還元されてしかるべきではないか。少なくとも、働いても満足に食えない社会であってはならない。
最後に、貧困の蔓延はやがて社会の混乱を招くことになると私は密かに危惧している。




