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歴史が豊かな町

 私が学んだ小学校の名は、御剱小学校だった。御剱小学校は、 やまとたけるのみこと、が東国征討に際し,ヤマトヒメノミコトから授かったこの剣を使って敵が放火した草をなぎ払って難を免れたため,草薙剣に改められ、熱田神宮の神体となっている。小学校は文字通りそれに由来している。


 熱田は江戸時代、熱田の渡しとして栄えた。織田信長が今川義元と乾坤一擲の勝負に臨んだ際、必勝を祈念して神宮に詣でた場所だ。


 九州福岡飯塚市から引っ越して、祖母が住む名古屋市瑞穂区雁道町の長屋から小学校に通ったが、学校迄は歩いて5分程、熱田神宮も30分程と何かと歴史を感じる土地柄だった。町名の由来も、雁が通る道、で雁道、それも熱田に関係しているから。


 2キロ歩けば、鶴舞つるま図書館にも行ける。鶴が舞う、何とも優雅な名前だ。学校が終われば、毎日のようにその図書館に通った。ひらがなで書かれた古事記を読んだ、イザナギ、イザナミのミコト、奇しくも区は瑞穂区、歴史が好きになるきっかけが出来た町だ。


 戦災で焼失した小学校は、二階建てだった建物の外壁を一部残し、戦後生まれの児童で教室は溢れかえっていた。嬌声が飛び交い、一日中子供の声が途切れない、運動場は休憩時間を一秒でも惜しむかのように、芋の子を洗うような鮨詰め状態、無謀にもバットを振り回す子供、暫しそれで頭が当たる子もいた。


 しかし、子供の移動範囲は知れたもの、せいぜい2キロ四方が限度、それでも珠には、少し距離はあったが瑞穂運動場にもいった。小学校高学年になったとき、卓球部に入り、日曜日などは瑞穂競技場内の卓球台が開放されるので、毎週のように一日中ピンポン球を打っていた。


 名古屋も大空襲で街の中心部は焼けてしまったが、運動場周辺は池もあり、卓球に疲れた時は棒切れに糸で結んだ釣針を吊り下げザリガニを取った。“池に入るな、危険!”という、決まりの看板はあるが誰も気にしない、暑いときは泳いだこともある。


 小学校3、4年のころは郷土研究クラブに所属した、郷土の偉人を知る部活、そこでは愛知一中(現在の旭丘高校)の日比野寛一校長や、溺れた子供を二度も助けに入り、二度目は力尽き小学校6年生で亡くなった山田精一少年の事を知った。


 良い環境に恵まれたことが、現在の私の執筆の支えとなっている。


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