健康で文化的な生活と生活保護
親父とお袋が仕方無く名古屋の生活を捨て、九州福岡飯塚市の炭鉱に来たのは、昭和22年(1947年)、私が生まれる前年だった。名古屋も、米軍の空襲で中心部を始め焼け野原になった。魚屋で働いていた親父も、戦争で働き場所を無くし、止む無く石炭景気に湧く炭鉱に就職するより他はなかった。
昭和25年朝鮮戦争勃発は、九州地方に多大な影響を与えた。特に、石炭は映画にもなった、“花と龍”、で、知られていたが、空前の一大産業となった。親父は三菱系の炭鉱で働いていたが、石炭王と云われた麻生家は、宰相吉田茂と縁戚となったことから、炭鉱夫の中ではもう熊本細川家のお殿様以上の絶対的存在だった。
今でこそ、警備業は暴力団、所謂反社会的組織、組員が営む事が出来ないが、その沿革となった三池騒動始め、警察も労働争議を押さえるためやくざ(暴力団)を意図的に利用したことは事実だ。それゆえ、警備業黎明期は、暴力団も警備業が出来た。
名古屋に戻ってからも、親父とお袋は炭鉱での生活を時々話していた、その麻生の名も出ていた。しかし、当時の私に、その名が何なのか分かる筈もなかった。
7年間懸命に働いたので退職金も出たが、借金を払ったら残金は僅か、仕方無くお袋の実家で間借り生活を余儀なくされた。
着の身着のままで行ったので、最初は何もかもツケで始まる。二人で石炭塗れになりながら、時には命の危険に曝されながら、そして同僚がある日突然落盤事故で亡くなれば、自分も明日はどうなるか分からない、金など残しても仕方がないとばかり、休日の日は酒(専らどぶろく)に明け暮れるのは人情と云うものだ。
名古屋に戻っても、もう魚屋にならなかった、どうしてそこで働かなかったか分からないが、7年の歳月が流れ歳も40を過ぎればもう無理な話だ。何の取り柄もなければ、残されたのは肉体労働だけ。
私とて、20代は運転手で毎日過酷な労働だが、5尺6寸(170センチ)の私に比べ、5尺2寸(155センチ)の小男の親父にとって、40過ぎから原綿の16貫(60キロ)を担ぐ労働は芯から身体に堪えたことだろう。
私が自衛隊に入隊して1年程立ったとき、親父とお袋揃って入院してしまった。親父は、胃から鮮血を吐いたことから、お袋は糖尿病が悪化と、夫婦共まるで示し合わせたかのような入院、早速病院に行ったが、二人とも結構元気、見舞いに行った私は拍子抜けした。
その頃はもう親父の怒りは解け、自衛隊で頑張っている私に格別話しかけることはなかったが、何時もの無口の中にも表情は穏やかだった。
間もなく二人とも退院したが、暮らしの生活費は、親父の清掃員の僅かな収入と私からの仕送り、お袋は持病となった糖尿病治療を軽んじていたので、もうまともに働けず、それで生活をしていた。それでも、私は出来るだけ仕送りをした、お袋はその中で呑気に時々は九州の妹の所に遊びに行っていた。




