表現力
表現力
丁度1年前の平成29年7月、家庭教師をしている長男から、小説を書くことを勧められた。聞けば、長男も投稿していると、しかし無から有を生み出す力量はないので、自伝的小説に取り組んだ。
書き始めてみると、今まで辿ってきた様々な出来事が次から次へと浮かんでくる。書きながら、これは伏せて置いた方が良いかなと、少し姑息な気持ちを抱きながらも、でもこれを飛ばしたら筋が通らない、誰でも失敗はある、と、9割方は正直に書いて来た。
書きながら、俺も少しは文章力があるかもしれない、何しろ中年迄は色々な小説を読んできたからな、高校生になって毎週のようにアルバイトした時は、お袋にアルバイト代を渡した僅かな残りを鶴舞の古書店で古本を買い求め、著名な作家の小説をむさぼるように読んだ。
その読書量が今役立っているかもしれない。持論だが、一朝一夕に文は書けない、例え書いたとしても、読み人に自分の意図を伝えるための力がいる。そのためには表現力、言いかえれば語彙が豊富でなければならない。
中学1年の頃、英語の授業で、京都は風光明美な観光都市である、これを英語に訳せ、と。風光明美を英語でどういうか、一所懸命考えたら、先生は、キョウト イズ ビュウティフルシティ と。私は腹が立った、風光明美が単にビュウティフルなのか、これでは味も素っ気もないではないか。
英語でも、美しいという表現は様々だろう、私は英語力が乏しいから他に表現する力を持っていないが、しかしこれでは余りにも風光明美という日本語を軽んじていると思った。と、ともにこんな表現で、生徒を煙に巻いている英語教師を少し軽んじた。
日本語の優れた所は、間接的な表現でも美しさを表現出来ることだと考える。例えば、美しい女性を、英語でも様々に表現するだろうが、日本語であれば、うなじにかかる黒髪、長い睫毛、薄紅色の口元と書くだけでも、相当な美人だと感じ取れる。
直接的表現を好む欧米人に対し、私達は想像力を思う存分働かせる。夜目、遠目、傘の内ではないが、直接に見なくても、きっとそうだと、だからこそ、単純に表現するだけでは相手に想いは伝わらない