恋の土鈴
ころころ、とそれは軽く乾いた音を歌う。
表面に紫陽花が描かれたそれは、古い土鈴だった。
萩野が誕生日、十夜に貰った物だ。
萩野は今年で十一歳。
可愛い物、綺麗な物に目がないお年頃だ。
九月の二十日、萩野の誕生日、誰もいなくなった教室。十夜がどこか緊張した面持ちで、萩野の前に立った時、萩野は何をくれるのだろうととても期待した。
素敵なヘアアクセサリーかもしれない。
それとも大人びたアクセサリーかもしれない。
ドキドキする萩野に、十夜は拳を差し出した。
ころ……、と音が聴こえた。
萩野が問うように十夜の顔を見ると、その顔は少し赤くなっていた。
おもむろに、広げられた掌の上には、全く萩野が予期していなかった物があった。
「やる」
「……ありがとう」
萩野はがっかりした気持ちを十夜に悟られまいと、貼りつけた笑顔でそれを受け取った。
そして仕方ないのだ、と自分に言い聞かせる。
十夜の家は神社の神官家だ。
どこか古めかしい空気の中で育った十夜が、現代の女の子の気持ちを掴む物を、正確に見抜いていなかったとしても無理はない。次の言葉を聴いた時には、少々、慌てた。
「うちの神社に代々、受け継がれて来た物なんだ」
「え、そんな大事な物、悪いよ」
「良いんだ。それは萩野の物なんだ。――――そういうことになってる」
いつになく真剣な顔で言う十夜に、圧されるように萩野は頷いた。
「うん。……ありがとう。本当に」
念を押すように本当に、とつけ加えたのは、先程よりも増した感謝の気持ちの表れだった。
(吾が背……)
その時、幽かな女性の声を聴いた気がした。
すだく虫の音。
リー、リー、リー。
萩野はタオルケットをお腹の上に置き、十夜から土鈴を貰った時のことを思い出していた。
初秋の夜の空気は金木犀の香りを運び、澄んでいる。
(吾が背……)
金木犀の他に、ふわりと古風な香りが萩野の鼻腔をくすぐる。
お寺の匂いに少し似ている。
そして十夜に土鈴を貰った時から、萩野には幻聴が聴こえるようになった。
それは愛しく悲しく狂おしく、……切なく遣る瀬無い声だった。
十夜にそれとなく尋ねてみたが、何のことだか解らないようだった。
恐らく、と萩野は思う。
今はもう、生きていない、過去の女性の声が、この土鈴に沁みついているのだ。
幽霊と名付けてしまえば怖いが、その声は、萩野に懐かしさを思い起こさせた。
壁にかけられた、ピエロがお手玉をしているデザインの時計を見る。
ピエロは丸い時計盤の下にいて、青とピンクの玉が左右の手に交互に現れる。
時計に話しかけるように、萩野は声を上げた。
「誰なの?私に、何かしてほしいことがあるの?」
(吾が背……)
声が聴こえるようになってから萩野も調べた。
吾が背、とは愛しい恋人に女性が呼びかける言葉だ。
(吾が背の、鈴を)
「鈴って。これと似たような物があるの?」
(そう。もう一つの垂玉神社に)
「もう一つ?垂玉神社って他にもあるの?」
垂玉神社は十夜の家が神官をしている神社だ。
同じ名前の神社が他にあってもおかしくはないが、萩野は聴いたことがない。
(頼む。秋の七草の名を負うた娘。吾が背の鈴と私の鈴を共に添わせて)
萩野は声が聴こえている間中、ずっとピエロの青とピンクの玉を睨むように見ていた。
そうすることで、ともすれば浮遊しそうな自分の意識を、現実に繋ぎ止めようとしたのである。
声はそこまで言うと消え、あとは虫の音が響くばかりとなった。
萩野はそのことを、明くる日の下校時、十夜に話した。
「うちの他に垂玉神社か。そりゃあ、探せばあるかもしれないけど、少なくとも俺は聴いたことないなあ。お父さんに訊いてみるよ」
「うん。そうして」
さわさわと、道の脇をまだ赤い薄が揺れ、田んぼは秋の実りで黄金と緑に色づいている。
「あの鈴について、その……人?他に何か言ってたか?」
「ううん。どうして?やっぱりあの土鈴、何か由緒ある物なの?」
「…………そうだよ」
答えた時の十夜は、いつもクラスで率先してドッジボールをするような男の子とは思えないほど、深い目をしていた。
萩野の鼓動が大きく一つ鳴った。
それから数日後の日曜日。
枕元に置いていたスマートフォンの着信音で、萩野は目が覚めた。十夜からだ。
見られている訳でもないのにパジャマの柄を何となく気にしながら、萩野は電話に出た。
『解ったぞ。例の垂玉神社のこと』
「え?」
『お父さんに訊いたら、今は神主もいなくてほぼ廃社状態になってるけど、学校の裏山に垂玉神社の末社があるらしい』
「じゃあそこに、鈴があるかもしれないの?」
『かもな。行くか?』
「行く」
萩野の答えは簡潔だった。
それから母親にお昼のお弁当の支度をしてもらって、十夜と待ち合わせの小学校の正門に行った。正門の外には花壇が張り出していて、今はコスモスが揺れている。その前に、十夜は既にリュックを背負って待っていた。萩野はほっとした。スカートにしようかズボンにしようか悩んだのだ。裏山とは言え登山となると、ズボンのほうが向いている。けれど日曜日に十夜とせっかく会うのに、スカートでなくて良いものかどうか考えたのだ。結果、実用的なズボンにした。スカートを穿いていれば笑われたかもしれない。
「よし、行くか」
「うん」
二人しか知らない秘密の謎に迫る――――。
そのことが、萩野の胸を高揚させた。
裏山には椎や杉、他、萩野が名も知らない樹々が生い茂り、中でも蔦植物の旺盛な繁殖ぶりは目立った。
十夜は父親に書いてもらったという地図を見ながら、時々萩野に手を貸して道なき道を進んだ。
二人共、植物の鋭利な葉先などによって手に切り傷を作った。晴天であることも手伝い、すぐに汗だくになった。
長袖長ズボンでなければ、傷はもっと増えただろう。
時折、萩野がリュックに入れた土鈴がころころと鳴った。その音は、もうすぐ逢いたい人に逢えるという、期待と喜びに満ちたものに萩野には聴こえた。
「――――ここだ」
辿り着いた先、僅かな空間の中、緑に埋もれかけたその神社はあった。屋根は傾き、柱も傾いでいる。もうしばらくすれば完全に、山の一部となるだろう。二人はまず腹ごしらえをして、作業に取り掛かることにした。
宝物庫と思しき建物に絡みついた蔦を、十夜が持っていたアーミーナイフで切りながらその扉を開いた。扉はギ、ギギ、と音を立てながら、しかし思ったより滑らかに開いた。
中にあったのは銅製の神鏡だった。
「……鈴はないじゃないか」
(そこではない)
不意に、萩野にはもう慣れ親しんだ声が聴こえた。
(ああ……。何という。哀れな。埋められてしまっている)
その悲痛な声が響いたあと、萩野と十夜の視界が暗転した。
二人は気付けばどこか広い木造建築の中にいた。
見たことのない、変わった服装の人たちが行き来している。
彼らに二人の姿は見えないらしい。
(国語の便覧で見たことがある……)
女性たちが纏うのは、飛鳥時代の着物だ。
天女の羽衣のような布を領巾と言い、長いスカートは裳と言うのだ。額の赤い花のような模様は花鈿。
広い建物の一角には紫陽花が植わっていた。
匂えるように咲く紫陽花の横、逢瀬を重ねる男女がいた。
「吾が背……。皇子様」
「愛しい沙耶葉。いつまでこのように人目を忍ばねばならぬのか」
「致し方ありませぬ。貴方様は皇子様でおわしますれば」
「皇子と言うても名ばかり。愛しき妹を妻にすることも出来ぬ我が身が口惜しや」
「天皇様に逆らってはなりませぬ」
「得心が行かぬ。愛情のない妻を押しつけられ。吾は傀儡ではないのだぞ」
「それ以上言うてはなりませぬ」
「ああ……、沙耶葉」
抱擁する二人が、いかに愛し合っているかは、子供である萩野にも十夜にも解った。
沙耶葉は、今の宮廷にとって歓迎出来ない一族の出だった。
やがて二人の密かな逢瀬は天皇の知るところとなり、沙耶葉は宮殿の一角に幽閉される。
皇子と逢うことを禁じられた沙耶葉は、食も水も絶った。
緩やかに、沙耶葉の命は溶けていった。
月光が沙耶葉のいる牢獄を照らす。
沙耶葉は月に願った。
もう一度、来世でも幽世でも良いからあの方に逢わせてください。
紫陽花の咲くあの頃を、今一度。
それが叶うなら私は死んでも良い。
夜の王の化身たる月光は、沙耶葉の願いを叶えた。
翌日、冷たくなった沙耶葉の身体を抱いて皇子は慟哭する。
慟哭は収まるところを知らず、皇子は嘆きの余り、沙耶葉の跡を追うように亡くなった。
二人の祟りを恐れた天皇は、職人に命じて紫陽花の描かれた二つの土鈴を作らせ、社に奉納した。初めは同じ社に奉納したものが、時代が下るにつれて離れ離れとなった。
はっと萩野が目覚めた時、十夜は先に起きて、素手で土を掻いていた。いつの間にかあたりは暗くなり、月光が射している。
「十夜。今の夢……」
「うん。ひどい話だな」
愛し合う二人は引き裂かれた挙句、非業の死を遂げた。
その後も、祀られた土鈴の片方は無残な目に遭ってしまった。
萩野と十夜は土を掘り進めながら、頬に汗と、そして涙を光らせていた。
やがて萩野の指にこつりと当たる物があった。
「十夜」
「うん」
更に深く掘り進める。二人の爪は真っ黒で、手も黒かったが、構ってはいなかった。
掘り出されたのは桐の箱だった。まだ腐食していない。
箱を取り出す時、ころころ、と澄んだ音が聴こえ、萩野と十夜の期待を高まらせた。
果たして蓋を取った中には、紫陽花が描かれた土鈴が入っていた。
「やった」
「うん。やった」
(ああ、吾が背……)
その土鈴から、袍という上着に袴を穿いた、涼やかな面差しの男の幻が現れる。
そうして、同じように姿を現した沙耶葉の手を取り、にっこりと笑うと、彼女を掻き抱き、霧のように消えた。
「……沙耶葉さんの願い、お月様が叶えたんだね」
「違う。萩野が叶えたんだ」
「紫陽花の花言葉の移り気って、あの二人には当てはまらないね」
「そうだなあ。あのな、萩野」
「うん」
「あの土鈴、うちに代々伝わる家宝で」
「家宝?そこまで大切な物だったの?」
自分のような子供に渡しては駄目ではないか、と思った萩野に十夜が言った。
「将来、自分が結婚したい相手に渡すようになってるんだよ」
どこかぶっきらぼうな十夜の口調は、萩野の顔をほころばせた。
「ありがとう。じゃあ、もう一個のほうは、十夜が持っていてね」
十夜が照れたように掘り出した土鈴をころころと鳴らし、答える。
「お父さんに掛け合ってみる。……すっかり暗くなったな。げっ、家からの着信が溜まってんじゃん!」
スマホの画面を見た十夜が顔色を変える。
「大変!」
二人は慌てて山道を下りた。
下りる二人を、月光が照らしていた。
(吾が背……)
(吾が妹)
月の光に蕩けるように、嘗て激しく恋し合った男女が、宙を揺蕩っていた。
萩野の土鈴は今はただころころと鳴るばかり。
悲しい女性の声はもう聴こえない。