第2話「佐藤くんは眺める」
【資料:特殊管理対象】
佐藤 良太(識別コード ES2022Sato-Rare) 男性 18歳
身長167cm 体重58kg 血液型A型 右利き
本年度よりY県S市から転入
知能検査結果A+は国内で検体ケース【Rare】に分類される個体では前例なし
対象が平穏な学生生活を送るため、周囲のサポートは必須である
本人には悟られることのないように細心の注意を払うこと――
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「おい、佐藤。起きろ」
頭上からの声に顔を上げる。僕が居眠りに入る直前は確か現国の授業を受けていたはずだけれど――しっかり寝過ごして授業が終わり、六限前の休み時間になっていた。
声を掛けてきたのは須堂くんであった。ややガタイの良い長身に刈り上げた短髪、いつも不機嫌そうに何かを睨み付けている印象がある彼だが、今はその鋭い眼差しを僕に向けている。
何かな?
僕は口元の涎を拭うような仕草で自然に口元を隠しながらも、いつものように心の中で呼びかけて反応を伺う。もはや癖になりつつある、僕の遊び心たっぷりのご挨拶という奴だ。
「おい、ボケーっとしてんなよ。まだ寝てんのか?」
恐らくばっちり僕の声は届いているはずだが、聞こえていないように振舞って見せる。
彼は単純そうな見た目に反して意外にも頭が切れるようで、この手の「挨拶」では全く釣れないし、つれないのだった。
「何かな?」
今度ははっきり声に出して答える。
「自分の心の声をどれくらい伝えるか」がだんだんコントロールできるようになってきたせいか、ついつい声を発するのをサボりたくなってしまうのは悪い癖かもしれない。
「しらばっくれんじゃねえ」
怒ったように――というか、明らかに怒って僕に詰め寄って来ている様子の須堂くん。
しかし困った。
何が彼を怒らせたのか本当に心当たりがないのだ。
「お前まさか本当に心当たりがないとでも言うつもりじゃないだろうな」
須堂くんの目尻がグンとつり上がり、言葉に威圧感が増す。
人を怒らせるようなことはわざわざしていないと思うのだけれど。
寝起きの頭を覚醒させるため、大きく空気を吸い込む。薄靄のかかった頭に酸素が送り込まれ、朝の記憶が戻ってくる――
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忘れるのも不思議なほど鮮烈な記憶は、一限目の英語の授業中のことだった。
僕は外国語の中でも特に英語は得意だ。単語さえ覚えてしまえば決められたルールの中で並び替えるだけで簡単に意味が理解できるし、コトバを覚えるのは得意な方だという自信がある。
単語帳と教科書をきっちり読み込むだけでテストの点数に困ったことなどなかったし、つまり授業を聞く意味がなく、それは退屈だということに他ならない。
僕の席は教室の左から二列目の一番後ろ――授業態度で後ろ指を指されることもないほどに目立ち辛く、安眠には絶好のロケーションだった。
優雅な遅めの二度寝と洒落込もう。腕を枕にしようと机の上に出すと、うっかりペンを机から弾き飛ばしてしまった。
思いの外遠くまで転がったペンは、僕の右前の席――吉川さんの椅子の下に滑り込んでいた。
ああ、面倒くさい。立ち上がって拾うのも面倒くさい。
どうせこの授業中はあとは寝ているだけだし、拾わなくてもいいんじゃないかな。
周りに聞こえよがしに想う。はっきりと思い浮かべることで、周囲に拾わなくてもいい、という意思を伝えた。
でなければ、気遣った誰かにペンを拾うという一手間を押し付けてしまうことになるし、それは僕も望むところではないからだ。
ともあれ、僕は物を大事にする主義を掲げているつもりだ。
あのペンだってかれこれ6年近く使っているし、思い入れは強い。うっかり失くしてしまえば僕の心には一週間は消えない傷が刻まれることだろう。
仕方ない、面倒だけど拾うか。
立ち上がろうとしたその時、僕は一つの異変に気付く。
――吉川さんのスカートが椅子の背もたれに引っかかってめくれあがっている。
見てはいけないという理性の静止も一瞬で振り切られ、本能が目線を尻に向けさせた。
白――いや違う、僕が悪いんじゃあない。むしろ僕が気付いたことによってこの声が届けば彼女はスカートを整えるだけで良いのだから。
健全な男子高校生がめくれあがったスカートの中身を見ないなんてのは、熱い薬缶に触れたときに手を引っ込めないのと同じくらいには不可能なことだ。
流石に僕の声が聞こえている状態であまり下着をじろじろと見つめるのもばつが悪い。
いや、決して悟られないならば見つめたい、というわけではないのだけれど。
誰にともなく言い訳をし続ける僕。非常に見苦しいのは自分でもわかっているとも。
この間、概ね十五秒。
一息ついて当初の目的を思い出す。そうだ、ペンを拾おうとしていたんだった。
少し時間を置いたし彼女もスカートの位置を直し終えた頃だろう。
再びペンに視線を向けたつもりが、無意識に少し上方を捉える視界。
白――いやちょっと待て、僕の声は聞こえているはずなのに何故スカートを整えてないんだこの娘、見られたいのか!?
再び慌てて目線を逸らす。罪悪感と欲望の狭間で激しく心を揺さぶられながら、少し客観的に状況を整理する。
一、吉川さんのスカートがめくれ上がってパンツが丸見えになっている。
一、僕の心の声は聞こえているはずだから、本当に見られたくないならばスカートを直せるはず。
ここに追加情報と仮説を加えて検証しよう。
そもそも直さない理由は何か。
考えられるのは、「僕の心の声が聞こえていない体」を装うため、だろうか。
クラスメイト達は僕の声が聞こえていることを隠そうとしているのは知っての通りであるし、そのために彼女が恥ずかしさを我慢しているという説だ。
我慢できる程度の羞恥心なのかは僕には測りがたいが――僕の右隣の梶くんは既に眠りについているし、もう一つ奥に座っているのは女子だ。
僕に見られている程度なら我慢できる、ということか。
そう断定してしまうと気が楽になり、泳いだ目線は自然と白い布をなぞった。
落ち着いてよく見てみると、彼女が身につけていたのは下着そのものではなく、短いスパッツのような――つまりは視線への対策として履かれた防具であった。
確かにこれならば、多少見られても恥ずかしさはあまりない――のだろうか?
スカートがめくれあがってるのは紛れも無い事実なのだが――やはり僕に対する配慮と考えるのが妥当であろう。あくまで僕の声は聞こえていない、ということにしたいらしい。
安心したような落胆したような複雑な心境ではあるが、罪悪感が薄れていくのを感じる。
しかしなるほど、女子があんな風に工夫してまでスカートを履いているという事実は興味深いものだ。
どうせ見られることを想定して履いているのだし、既に二回も見てしまった後なのだから、三回見たとて同じことだろう。
大義名分を得た僕は無遠慮に観察を開始する。好奇心と本能には逆らえない。
その履物は丈は短いなりに、下着を見せないよう、僅かに腿にかかる程度には長い。
柔らかい素材なのか、太股に食い込んだりはせず、すらりと伸びる足が眩しい――おっと。またも本能に流されてしまった。
再び視線を少し上に向ける。あまり肉付きが良いような印象ではない彼女であったが、椅子の上に乗っかった曲線は魅惑的だった。
女子の臀部をまじまじと見つめる事などなかったが、これはこれで何やら心をくすぐる物がある。
いや待て、よく見ると下着の線が浮き出ていないか――うっすらと、水色の――
ふぁさ。
吉川さんがスカートの位置を直していた。
心なしか一瞬目が合った気がする。
見られてもいい履物だったというわけではないのだろうか。それとも、僕の声が聞こえてからしばらく時間も経ったし、そろそろ自分で気付いたという演出ができていると判断されたのだろうか。
何となく損をしたような気持ちになりながら、僕は腕を枕にして夢の世界への門を叩く。
30分後――目を覚ました僕は、吉川さんの椅子の下で見るも無惨な姿を晒しているペンと対面し、全てを悟るのであった。
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「吉川さんのこと――かな? 僕としてはペンがダメになっちゃって深く傷付いているし、痛み分けだと思っているんだけど」
「とりあえずお前が心底ロクでもねえってことはよーくわかった」
重い溜息を吐いて須堂くんが目を眇める。
いやいや、僕の声が筒抜けだからそう思うだけで、男子なら誰だって同じことをすると僕は主張したい。僕だけが悪いような言い種はやめて欲しいところだ。
「吉川のことも後でしっかり聞きたいところだが――他にあるだろ、もう一つ」
そんなに方々で事件を起こす、少年マンガのミステリー作品のように濃密な一日を過ごした覚えはないのだけれど。
僕は、彼の怒りを買い得る事件簿を再び検索し始める。
佐藤くんは思慮深きすけべ。