90 誰もが願う幸せな日常~後編~
アランとふたりで車を押し、ガソリンスタンドまで辿り着いたときには日が暮れていた。
「本当に、ありがとうな、ジョン。いいのか? 何も礼がいらないってそんな……」
「いいんです。昔この道で僕たちをガソリンスタンドまで乗せていってくれた親切な人も何も受け取ってはくれませんでした。僕はそのお礼が今日できたと思っています。アランさんたちとご一緒できて楽しかったですし」
「ジョン、俺はいつか必ずおまえに恩返しする。ハーバーシティに行ったら必ずおまえの勤めてる店に寄らせてもらう。おまえもサンディエゴに来るときは声をかけてくれ。動物園や水族館だけじゃない良い穴場に連れて行ってやるからな」
「はい、綺麗な建物のある場所があればぜひ。彼女が好きなので」
「おお、そうかそうか。待ってるぞ。……ジョン、おまえがここにいたから手を貸してもらえて俺たちは助かったんだが、大切な女がいるのにおまえはなんでこの時期、こんな寂しい場所にひとりでいるんだ?」
「!」
「まあ、俺も他人のことは言えんがな。若いころは好き放題無茶やって、オリビアにずいぶんと心配をかけた。惚れてる女をあまりほったらかしにしない方がいいぞ」
ジョンは癖でポケットに手を伸ばしてから、懐中時計は既にリジーの手元にあるのを思い出した。
まだ慣れていない腕時計を見て、リジーが仕事から帰っている時間か確認した。
「すみません。電話をかけてきたいのですが、少し待っていてもらえますか」
「俺たちはガソリンを入れて、ゆっくりしてっから、気兼ねなく電話しろよ。自分がどれほど思っていたとしても、相手には伝わらない時もある。油断してあとで後悔しても遅い。女の心は移ろいやすい。しっかり捕まえておけ」
「はい」
(何をやせ我慢していたんだ。本当は、片時も離れたくはなかったはずなのに。リジーの声をずっと聞きたかったのに。すぐにでも会いたかったのに)
ジョンはガソリンスタンドにある公衆電話へ向かった。
◇◇◇
12月30日も終わる。今日もジョンは帰って来ないのだろうか。
(ジョンの馬鹿、早く会いたいのに、あなたは私に会いたくないの?)
リジーは、今日も閉店間際のクリスティのパン屋に滑り込んだ。
「こんばんは、リジー。お帰り」
「クリスティさん、こんばんは。ハワイアンブレッド残ってます?」
「あるわよ。最後の1個、ギリギリだったわね。待ってて、今日は焦がしたやつがあるから、おまけするわ」
「わ~! ありがとうございます!!」
リジーが焦げたパンが好きだと言ってから、たまにクリスティがそれをおまけしてくれるようになっていた。
「食べすぎちゃだめよ。まあ、リジーはもう少しパンみたいにふっくらしても良いけどねぇ」
「は、はい」
また言われてしまったと、肩をすくめた。
ハワイアンブレッドを買って、アパートメントまで帰って来た。
灯りの点いていないシャッターの降りた<スカラムーシュ>は、寂しさを募らせる。
電話すると言われていたが、ジョンからはまだ一度も電話がかかってきていない。
それこそ毎日のように電話が鳴るのを待っていた。
一度は母親からで、うっかりがっかりしたような返事をして怒られた。
デイビッドがまだ居座っていて、煩わしいという愚痴とういうか、リジーには惚気にしか聞こえない電話だった。
娘に何をぼやいているのだろう……冷めた応対をしてしまい文句を言われた。
勝手にやって。
それより、どうしてジョンは電話をくれないのか。
電話の無い所を不眠不休でひたすら車で走っている?
(大人の余裕? 都合? そこまでして特に声を聞きたいと思わない? 何か電話できない理由があるの?)
よからぬ理由に行き着きそうだったので、リジーは考えるのをやめた。
それにしても、ふとした瞬間にジョンの事ばかり考えてしまう。
(人を大好きになるってこんなに相手を思い出してしまうんだ。ジョンがいないことが落ち着かない)
彼中心では、自分の人生ではない。彼に頼って甘えてばかりで精神的に独立していない。
少し離れたところから、自分を見られるようになりたい。
何気なくジョンの事を考えてしまうのは良くない。
ジョンは、今頃ひとりの時間、非日常を満喫しているのだろうか。
(なんだか少し悔しい……)
その時、電話が鳴ってドキッとする。
「ハロー……」
期待で胸が苦しくなった。
――リジー? 僕だ。
その待ち望んだ声を聞いて、いろんな気持ちは結局飛び去ってしまう。
「ジョン!!」
(良かった、いつもの声。大好きな声)
――良かった。元気そうだね。怪我してない?
「……してないし」
(一番はその心配? でも嬉しい、嬉しい、ジョンの声だ!!)
リジーは受話器を握りしめ、少ししょげたり、喜んだり忙しい。
――連絡をするのが遅くなってごめん。明日、そっちに帰るよ。
「うん! 今はどの辺にいるの?」
――ラスベガス……の方かな。
「はあ?」
ジョンからは想像できない、およそ似つかわしくない場所だ。
――あー、誤解しないで。別にギャンブルしに来たわけじゃないから。ラスベガスに至るルートを車で走るのが好きなんだ。何もない丘陵地帯とか永遠に続くと錯覚するような一本道とか……。
「へえ……」
――長い年月少しずつ姿を変えながらも、そこに永遠のように存在している。
「そうだね」
いつもと変わらない声を聞いていて、少し寂しい気がしてくる。
(ジョンは、私に会わなくても全然平気みたいだ。もっとたくさん話したいことはあるのに、なかなか言葉も出てこない)
ジョンとつながっている唯一の受話器をきつく握りしめる。
――リジー、帰ったら、最初に話すことがある。
ジョンの声が急に沈んだ。
(そんな不安そうな声を出さなくても大丈夫なのに)
「……うん、わかった」
――急に腹がへったな。きみの声を聞いたら、いつもの日常が恋しくなった。
「嫌な予感するけど、いつから飲まず食わずだったの? 睡眠は?」
――さすがに水は飲んでるし、最低限食べてるし、仮眠もしてる。
「え? 大丈夫なの?」
―――帰るくらいの体力は余裕で維持できてるよ。リジー、心配しないで。
「心配するよ。気を付けてね」
――わかってる。
「シンおじさんみたいにむさくるしい人になって帰ってきたら、ハグも頬擦りもしないからね!」
――もしや魔法の鏡でも見てる? それは困るな。それ以外の事もしたいから、身綺麗にしてからきみに会うことにしよう。
「へ……!?」
(急に大人な発言止めて欲しい。変に心臓に負担がかかるから)
――じゃあ、電話を切るよ。
「あ……」
――ん? どうしたの?
「待ってるね」
――ああ、リジー、……愛してる。
「! 私も……」
(ああは言ったけど、どんなむさくるしい格好で帰ってきても、きっとジョンに抱きついてしまうに違いない。ようやく明日会える!)
電話は切られた。
(<フォレスト>で仕事して、おいしいものを食べて、気にかけてくれる大好きな人たちがいて、大好きなジョンがいて、家族がいる。これが私の幸せな日常)
リジーの心は、ようやく落ち着きを取り戻した。
◇◇◇
ジョンはリジーのいつも通りの明るい声を聞いて、心が温かさに包まれた気がした。
自分の居場所、彼女が待ってくれている自分の日常に帰ろう。
「ほう、甘い顔して戻ってきやがって。ラブラブなのか?」
アランの車に戻ると、ジョンはアランに冷やかされた。
助手席のオリビアは、ジョンを見て始終にこにこしていた。
大柄の男が身を小さく屈めて華奢な女性と手話でやりとりしている姿が、とても仲睦まじく見える。
妻を気遣っているのがよくわかった。
ジョンの車まで引き返す車中で、アランがふたりの馴れ初めを話始めた。
「オリビアの手話の手つきが、流れるように綺麗で優雅で、アカデミー女優の演技を見てるみたいで、目が離せなかった。一目惚れだ。耳が不自由だって知らなくてな、俺の運転が荒っぽくて、マーケットの駐車場で横切ったオリビアに車を当てちまった。まあ、オリビアは2日位の入院だったから軽傷で済んだが、俺は一生ものの重症だった。こいつの綺麗な手に心臓を鷲掴みされたからな。なになに、恥ずかしいって?」
隣で頬を赤らめて手を動かし、ぽかぽかとアランのびくともしない肩を叩くオリビアの仕草が微笑ましい。上品で清楚な感じだったが、アランにかかると可愛らしい表情を見せる。
「手話はオリビアに習った。オリビアは優秀だから相手の唇の動きで言葉を読めるんだ。俺が最初に習った手話は、もちろん〔愛してる〕だ。次に習ったのは、〔おまえを抱……〕うが……」
そこでオリビアがさっきよりも頬をさらに赤らめて、ものすごい勢いでアランの口を手で塞いだ。
そのせいで、車がぐらついた。
「アランさん、言わなくていいです。わかりましたから!」
ジョンは慌てて助け舟を出した。
「わかった、オリビア。言わねーよ」
アランは笑いながらプイと横を向いたオリビアの頬を撫でる。
「でな、意外と手話は誤解しやすいから気をつけろ。ジョン、これの意味わかるか?」
アランが後部座席のジョンを大きく振り返り、投げキスのような動作をしてみせた。
いかつい髭の男がすると、なかなか言いようのない微妙な空気になる。
「それは……わかります。学校の奉仕活動の手話の授業で習いました。〔ありがとう〕の意味ですよね」
「お~知っていたか。でも、この動作を可愛い女にじっと見つめられてされてみろ、絶対〔好きです!〕だと思うだろう?」
「え~っと、そう、ですね」
ジョンは次の展開がなんとなく想像でき、返答に苦しむ。
「入院したオリビアを毎日見舞いに行って、退院の日は、彼女を病院から家まで送った。家に着いて別れ際、オリビアがこれを俺にするもんだから、てっきり俺に惚れたんだと勘違いして、その場で……」
「アランさん! わかりましたから、もう……」
ジョンが言い終わらないうちに、またもやオリビアがアランの口を必死におさえにかかった。
「わかった、わかった、落ち着けオリー……」
オリビアが高速手話で、アランに何か訴えているようだ。
アランは苦笑しながらオリビアの頭を撫でた。
「これ以上、何も言うなってさ」
「そうでしょうね」
初対面の自分にぺらぺら喋る内容ではない。
「俺はオリビアを怪我させたから責任をとったわけじゃなく、心底惚れたから結婚した。最後に習った手話は〔結婚してくれ〕だ」
「!!」
アランが言い切った言葉は、ジョンの胸にも響いた。何かがこみ上げてくる。
アランの言葉に、オリビアがとても幸せそうな、まるでハイビスカスの花が咲きほころぶような笑顔を見せた。
ジョンの心につかえていたものが、溶かされて行く。
大切なことは何なのか、気づかせてもらった気がした。
「オリビアは話すことはできないが、声は少し出せる。ベッドで声を聞いたときは、天使かと思った。可愛くてもう、他の男には絶対聞かせたくねえって思っ……痛ててて!!」
オリビアは火が出るほど顔を真っ赤にさせながら、とうとうアランの頬を思い切りつねった。
「で、ジョンのガールフレンドはどんな女なんだ?」
アランが赤くなった頬をさすりながらジョンに聞いて来た。
「彼女は……小柄で可愛いです。ファーストフード店の風に飛ばされたパラソルに当たったり、階段で転んだり、街路樹にぶつかったり、犬に噛まれたり……」
「おいおい、おまえの女、なんか悪運を背負い込んでるのか?」
アランが笑いながら呆れた顔をしてみせた。
「それでも彼女は前向きです。それに、僕がずっと彼女のそばにいるつもりです。彼女は僕にとって暖かい光です。彼女の明るい笑顔を見れば心が温かくなって、そばにいるだけで安らぎで満たされます。慌てた顔も困った表情すら愛しくて。彼女がいなければ、今の僕は別人だったかもしれません」
「おまえも冷静な顔して意外とのろける奴なんだな」
「すみません」
「いや、彼女のことを話すときは優しい良い顔をしていたとオリビアが言っている」
「そうですか?」
ジョンに向かってオリビアが控えめに微笑んでいる。
「まあ、それだけ大切な女なら、絶対放すなよ」
「はい、すぐに彼女の元に帰ります」
アランの車は、道路沿いのジョンの車が置かれたままの場所まで戻ってきた。
ジョンは袋の切れ端に書いたような住所と名前、電話番号をアランから渡された。
渡されながら、手をがっちり握られた。
「ありがとうな。会えて良かったよ。またな、ジョン!」
「僕もあなたたちに会えて嬉しかったです。アランさん、オリビアさんも、お元気で」
ジョンはラスベガス方面へ向って走り出したアランの車を見送った。
(帰ろう。リジーとの幸せな日常に)
ジョンは自分の車に乗りこむと、エンジンをスタートさせた。




