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26 私を呼ぶ声


 毎日、通勤で利用するバスターミナルの人混みは、慣れなくて苦手だった。

 リジーはその日も、仕事帰り、人の波に押されるように駅から出た。


「リジー!」

「え?」


 誰かに名前を呼ばれた気がして、立ち止まる。

 聞き慣れない男性の声だった。

 振り向いて見知った顔がいないか確認するが、通り過ぎる人々の中でリジーと目線が合う人物は誰もいなかった。


(……気のせいか)


 リジーはそのまま歩き出した。


(どこにでもある名前だし、別のエリーゼさん、あるいはエリザベスさんだったのかも)



「ただいま、ジョン」


 頭に2回怪我をして以来、仕事から帰って来ると、<スカラムーシュ>にいるジョンに声をかけるのが習慣になった。

 大概リジーが店のドアを開ける前に、ジョンの方は気が付いているらしく、すでに入口近くにいてこちらを見ている。


「リジー、おかえり」

 

 ジョンはいつも穏やかな笑顔で迎えてくれる。

 自分の名前は、こんなに優しい響きだっただろうか。

 用事がなければすぐ2階の自分の部屋へ上がるのだが、ただその挨拶を交わすだけで、ひとり暮らしも寂しく感じない。


 ~リジー……~


 自分の名前を呼ぶジョンの低くて透る声が好きだった。

 いつもは静かで優しい声。たまに慌てた声、稀に少し怒った声。

 あとは、どんな声があっただろう。


◇◇◇


「リジー!」


 別の日の仕事帰り、また名前を呼ばれた。今度ははっきりわかった。

 <スカラムーシュ>のある通りに差し掛かった場所で、人通りはまばらだった。


(知らない声。誰?)


 思わず立ち止まり振り向くと、20代前半くらいの見知らぬ男と目が合った。

 仕立ての良さそうな、艶のあるグレーのスーツを着て片方の手で松葉杖をついている。

 足を怪我しているらしい。


「ようやく会えたね……」


 濃い茶色の髪、青い瞳、上品な笑顔で確かにリジーを見ている。


「? どちらさまですか?」


(<フォレスト>のお客様? かな?)


「その節は、祖母のローズが親切にしていただいて、ありがとう」


(ローズ……さん)

 

 リジーはハッとして自分の薔薇の模様のショルダーバッグを見た。


「あ、ローズさんのお孫さん……ですか? 入院なさってた……」

「そうです。初めまして、ウォルター・ケイスと申します。先日退院しました」

「……エリーゼです。初めまして」


 リジーは戸惑いながらも挨拶を返した。


「祖母の言っていた通り、かわいいお嬢さんだ!」


 ウォルターは目を細めた。


「……」


(初対面で社会人の私をかわいいとか……なんだろうこの人)


 リジーの不信感をウォルターは察したようだ。


「すみません、不躾でした。今日、私があなたに会いにきたのは、祖母とは関係ありません。私が会いたかったのです。祖母があまりにあなたのことを褒めるので、どんな方かと興味がわきました」

「……」


(興味って……)


「退院してから、仕事が早く終わった日の帰りだけですが、この駅周辺であなたらしき人を探すのが日課になりました。もちろんアンティークショップのあるこの通りでも探しました。あなたにいつ出会えるかと、毎日心が躍りましたよ」


 ウォルターは、リジーから目を離さず、にこやかによどみなく話す。

 自分の世界に入り込んでるような感じだった。


(ちょっと怖いんですけど)


 リジーは早くこの場から立ち去りたかった。


「そして、祖母から聞いていた目印の薔薇のバッグとあなたの容姿にぴったりの女性をようやく見つけた。だから試しに呼んでみたのです。あなたの名前を。反応があれば、あなただとわかる」


 空耳ではなかったんだ。でも、知らない声に振り向いたりしなければよかった。

 リジーは後悔した。


「あなたで間違いありませんでしたね」


 一度も逸らされない目の奥の光が、妖しく感じられる。

 コツコツと近づくウォルターから距離をとろうと、リジーは後退りした。

 ところが、サッと手をとられた。

 怪我人とは思えない素早さだった。


「あ、あの……!?」


(何? この人? 嫌だ! 怖い!)


 手を引こうとしたが、びくともしない。

 強い力に身体中が警戒する。心臓が嫌な鼓動を刻む。


「これからワインでも飲みながら食事でもいかがですか? 祖母に親切にしていただいたお礼がしたい。ご馳走しますよ」


 口調は丁寧なのに、強引だった。

 ウォルターはリジーの右手をぎゅっと握りしめて、良い返事を確信するかのように微笑んでいる。


「いいえ、お礼は必要ありません。手……手を放してください!!」


 リジーは声を荒げた。


(嫌だ、誰か……ジョ……)



 その時、ウォルターの手首を骨太い手がガッチリと掴んだ。


「!?」


 リジーとウォルターの視線の先にいたのは、若草色の<タコガーデン>のTシャツを着た男だった。


「サム……」


(助けて……)


 リジーは潤んだ目で助けを求めていた。

 サムはリジーに優しく頷いてから、今まで見たことのないような恐ろしい形相でウォルターを睨みつけた。

 いつもの朗らかなサムとは別の顔に、リジーは息を飲んだ。


(綺麗な顔の人が怖い顔をすると、本当に悪魔みたいに半端なく怖いんだ!?)


「手を放せ!! この子は俺の友人の大切な人だから、気安く触れるな!」


 サムのナイフのような鋭い視線に、ウォルターは怯えた表情を浮かべ、弾かれたようにリジーの手を放した。


「失礼したね。エリーゼさん、祖母のこと本当にありがとう。では、これでさよならだ」


 ウォルターは何事もなかったかのように背を向け、松葉杖をうまく操りながら、駅の方向へ去って行った。あっけないほど変わり身の早い男だった。



 リジーは、ホッと胸を撫で下ろした。


「サム、ありがとう。助けてくれて……」

「いやいや~、俺、ちょっとカッコよかった? 俺のこと見直した? 俺の女に手を出すなって言った方が良かったかな?」


 いつもの剽軽なサムに戻っている。滲みそうになっていた涙も引いた。


「はは……すごくカッコよかったけど、サムは、物凄く怖い顔もできるんだね。いつもと極端に違うから本当に驚いちゃった」

「リジーはどっちが好み? カッコいい俺と……」

「いつもの軽いサム!」

「え~? あ、そう……軽いのね、俺……」


 サムがガクッと肩を落とした。


「さあ、送るよ。配達の帰りだったんだ。しかし何なんだ、あのスカした松葉杖野郎は。知り合いか? いきなりリジーの手を握るなんて。今度あいつに会ったら、無視して逃げろよ」

「うん……」


(手を握られた時、ゾッとした。ローズさんのお孫さんだから、悪い人ではないのかもしれないけど、すごく嫌な感じだった)


 隣を歩くサムを見上げた。サムはジョンより少し背が高く、体格が良い。


「サムは、ジョンとは長い付き合いなの?」

「そうだね。もう結構なるかな。クロウは俺のことなんて言ってる?」

「え~っと、……なんだっけ?」


(さすがに、狼だと思って気を付けるように言われた、とか言えない。ごめん、サム。実はこの辺りではサムとジョンは強者だったりするのかな? 本当に悪魔と魔王ペア?)


「あんまり良いこと言ってないみたいだな。まあ、いいさ。俺の方があいつを気に入ったんだから。これからも纏わりついてやるつもりだし。リジーは、シンドバッドさんの親戚なんだよね?」

「うん、母の従弟なの」

「シンドバッドさんが、すさんでた俺にきちんと社会と関わりを持って生きてみないかと言って、<タコガーデン>を紹介してくれたんだ。嬉しかったよ」

「シンおじさんが……?」

「シンドバッドさんとうちの社長は仲が良いらしい。それで、こんな俺でもなんとか雇ってもらえた。シンドバッドさんと社長には感謝してる。大げさだけど、シンドバッドさんは俺の師匠でジョンは兄弟子だ。この街に来て、最初にまともに接してくれたのがシンドバッドさんとジョンだった」


 サムは少し照れながら笑った。


(サムが笑うと凄まじい光が降り注ぐ。眩しい。……悪魔? なのに天使みたい)


 リジーはつい悪魔に見惚れた。


「せっかくふたりだけだから、ジョンには内緒の話をしよう。俺はまあまあ女の子と遊んだりしたけど、あいつはストイックで、浮いた話は全くなかったから」


 サムが悪魔の微笑を見せる。


「はあ……」


(どうしてそんな話を)


「でも、遊んでいないってことは、女心もわからないやつだからね。駆け引きもしない、すべて直球。すべて行動が物語る、かな」

「??」

「まあ、鉄壁の仮面のほころびを突いて崩してしまえば、歯止めは効かないだろうから落ちてくる。リジーがジョンの本音を引き出したいなら……。まあ、頭の片隅にでも置いといて。俺の分析が間違ってなければ、最後の切り札は簡単。きみの拒絶だ。リジー、ジョンを幸せにしてやってくれ」


 リジーはサムに肩をポンと叩かれた。


(拒絶? 何? 幸せにしてやってくれって……)


「えっと、ジョンはガールフレンドは今はいないってこと?」

「俺と出会ってからはね。その前は知らないけど。ちなみに俺も今はフリーだよ」

「そう」


 リジーはジョンにガールフレンドがいないと聞いて、安心したようにホっと小さく息を吐いた。

 それがすっかり表に出て、サムには気付かれてしまっていた。

 リジー本人は全く無意識のことだった。

 


 リジーとサムは話しながら歩いている間に、<スカラムーシュ>の前まで来ていた。


「リジー? おかえり」


 自分の名前を呼ぶ声は、いつもと違って、少し硬い印象を受けた。


(そうか、サムが隣にいるからかな)


「クロウ! おまえの姫のボディーガードをしてきてやったぜ! 勘違い松葉杖野郎に捕まってたからな」

「何!? 松葉杖……! そうか……ありがとうな、サム」


 ジョンが何か思い当たるような険しい表情をした。


「ありがとう、サム。またね」


(姫って、わたしのこと? サムもさらっと平気で恥ずかしいこと言うよね)


「またな、クロウ、リジー」


 サムは飄々と帰って行った。




「サムが言ってた松葉杖野郎って、もしかしてあのリジーが助けたご婦人の孫? 絡まれたの?」


 心配そうにジョンが聞いてくる。


「絡まれたというわけではないのかな。声をかけられて、お礼を言われただけ……」

「それだけならサムがあんな言い方しないだろう?」

「あ、と、食事をしないかって、手を握られた。たまたまサムが通りかかって間に入ってくれたの」


 何でもないように話そうと思っても、声が少し震えてしまった。


「そう……」


 ジョンが渋い顔をした。


「ローズさんのお孫さんだし、悪い人じゃないんだと思う」

「会ってすぐに手を握るような男が?」


 ジョンがサムと同じ反応をした。


「今度見かけたら、すぐ逃げるんだ。いいね」


(またサムと同じセリフ。そういえば、ジョンだって初対面で、私に詰め寄って頭を撫でたよね)


 リジーはなんだかおかしくなって、クスッと笑った。


「リジー、きみは緊張感がなさすぎ……る? ……!」


 ジョンが急に押し黙った。

 リジーは笑っているのに、目じりから涙が頬をつたっているのに気が付いた。


「あれ、なんで……」


 思い出した。強い力で手を掴まれて怖かったことを。

 ジョンのそばに戻ってきて、もう大丈夫だと安心したら、涙がじわじわと湧いて来る。


「リジー! ……どうしたんだ」


 目の前のジョンが慌てている。

 彼がこれほど心配してくれるのは、お母さんに頼まれているから……だよね。

 それを思うとなぜかさらに涙がこぼれる。


「リジー、どうして泣いているのか話して……。そいつに何かされたのか?」


 ジョンが、頬をつたう涙を親指で拭ってくれている。


「嫌だった……」


(嫌だった)


「嫌だった……ジョン以外の……男の人から手を握られたのがすごく嫌だったの!」


 リジーは無意識に本音を言葉にしていた。


 ジョンが手を広げたのがわかったが、すぐに顔が白いシャツの胸に押しあたり、わけがわからなくなった。背中と後頭部をジョンに両手できつく押さえ込まれた。


「!?」


 リジーは今までとは違うジョンの強い抱擁に戸惑ったが、心の深いところから嬉しさがわいてくる。


(どうなってるの? また抱きしめられてる。身動きもできないくらいの力で……心臓が痛いほどどきどきする。身体中が熱くなる。ジョンは私が泣いたから慰めてくれてるの? それとも……ジョンの息遣いが近すぎる。かみ合わないふたつの心臓の音が聞こえる)


 涙はジョンの白いシャツを濡らすことはなく、自然と止まっていた。


 「リジー……」


 リジーの名を呼ぶジョンの声は、息苦しさと熱を帯びていた。


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