グレース1-1
町が終わり、再び森の小路に入る頃エクリプスの口から語られる御伽噺も終わりに近づいていた。アリスはもう大丈夫だという旨を伝えると、エクリプスの背から降り二人は再び手を繋ぐ。二人ぼっちの兄妹の旅は果てしなく続くかのように思われた。
だがそんなことは無く、唐突に道は途切れた。そして目の前にはこの世界に来てから初めて見る、色鮮やかな庭園と洋館が聳え建っている。二人は暫く放心してそれらを眺めていた。
白いアーチには緑の蔦が絡まり、真っ赤なバラが控え目に主張している。それらを囲む木々には、アーチのバラとは逆に盛大に、絢爛に赤バラが踊り見る者の心を震わせた。その先には優しいピンクの壁の洋館が建っている。古びているが、可愛らしさと威厳を兼ね備えていた。
「お兄ちゃん、ここって……」
「うん。……入ってみようか」
「えっ?いいのかな、勝手に入っちゃって」
「でもインターホンも無いし……」
エクリプスは中に向かっておーいと呼びかけてみたが、返事は来なかった。ダメだ、と目を閉じて首を横に振る。それなら他に方法が無く仕方ないと、アリスも覚悟を決めるしか無かった。
緑は癒しに、赤バラは御洒落に。二人は庭園へ足を踏み入れるとキョロキョロと辺りを見渡しながら歩みを進めて行った。テレビの中で見るような素敵な庭園であった。
或る一つを除いては。
最初は人がいなく手入れがされていないのでゴミが落ちているのだと思った。でもその考えは間違っていた。ゴミはどんどん数を増し、遂には手足、頭……。
「きゃあっ!?な、何これ」
ゴミだと思っていたのはぬいぐるみの綿であった。そして遂に綿だけではなく、ぬいぐるみそのものが姿を現したのだ。或るぬいぐるみは腹を切り裂かれ、或るぬいぐるみはパーツ全部をバラバラにされて。それらが増えてきたということは、ぬいぐるみに残虐な行為をしている場に、行為をしている何者かに近づいて来てしまったわけで。
エクリプスはアリスの手を強く握り直すと踵を返した。
「逃げようアリス、ここは危険だと思う」
「お兄ちゃん……!」
「だあれ?」
時既に遅し、とはまさに今のこの状況を指すのだろう。二人はもう逃げられない所まで入り込んでしまっていたのだ。可愛らしい、けれど少々甘ったるすぎる声に二人は石にでもなってしまったかのように動けないでいる。
くるんくるんと巻かれている髪に、フリルが沢山ついた白いドレス。豪華な館によく似合う可憐な少女は。左手にはうさぎのぬいぐるみが抱かれていた。今にも千切れそうな腕や耳を揺らし、真っ赤な血の代わりに真っ白な綿を溢しながら。右手にはナイフが握られていた。白が、繊維が貼りついているソレは一目で何に使われたか分かるようになっていて。
「だあれ?」
再度少女は同じ問いを口にした。
エクリプスは少女の左手から目が離せないでいるアリスを背にやると、刺激しないように落ち着いた声色で答える。
「僕はエクリプス、こっちの子はアリス。勝手に入ってごめんなさい、誰もいないと思い込んでいたもので」
「そう、そう。……ス、アリス、館に入って」
少女は目線をあちこちに動かし始めた。何かを探しているというよりは、意思とは関係なく目玉のみがぐりぐりと動いているようで非常に気味が悪かった。
「夜が来るの。アリス、館にいて。いて」
少女の眼球はどんどん動きを激しくし、首までカクカクと揺れ出した。涎が口の端をツッと伝い雑草の上にポタリと落ちる。明らかに異常だ。
「わ……分かりました……」
エクリプスはアリスの手を引き恐る恐る歩き始めた。ゆっくりと、爆発させてしまわないように。アリスも震える足を何とか奮い立たせながらエクリプスについて行く。
始めて出会った影以外の人が、こんなに危なさそうな人だなんて。ついていないどころの話ではない。
二人は少女の横をすり抜ける。心臓は破裂しそうなぐらい痛くて、アリスに至っては無意識に呼吸を止めてしまっていた。少女の横をすり抜けると、アリスはチラリと後ろに視線を向けた。そして直ぐ後悔することとなる。少女は此方を見ていた。焦点の合わない目で、歪に口を歪ませて笑っていた。その光景のなんと不気味なことか。
「きゃはは!」
狂人だ。
「きゃはっ!きゃはっ!ひーっひひ!」
彼女は狂人だ。背後からザシュザシュとナイフを布に突き立て裂く音が聞こえてくる。
アリスは知らず知らずの内に恐怖のあまり涙を流していた。いっそ自分が狂ってしまえたならどんなに楽なことか。
少女の声が完全に聞こえないところまで来ると、二人は立ち止まって呼吸を整えた。いつの間にか走ってしまっていたらしい。エクリプスは後ろを振り返って少女の姿があるか確認すると、アリスに頷いてみせる。
「逃げようアリス。館に入ることなんてない」
「う、うん……何されるか分からないもんね」
アリスがその言葉を言い終わったちょうどその時であった。
世界から明かりが消え、全ては影になり空には一つだけ白く丸い穴が開いた。唐突に、なんの前触れもなく「夜」が訪れたのだ。街灯の類は無く互いの顔が辛うじて判別できる程度の明るさしかない。狼の遠吠えが鼓膜を突き刺し、人間の無力さを思い知ったかのように自然と体が震え始める。
「タイミングを見計らったみたい……」
これでは、外にいるのは危険だ。作り出された檻に閉じこもるしかない。
「この世界は僕達を逃がさないつもりらしいね」
そう言うや否や、エクリプスは正面からアリスを抱きしめて頭を撫で始めた。
「どんなに理不尽な状況になっても僕がアリスを守るから、アリスは安心して僕に身を委ねて?」
アリスの頬はカッと真っ赤に染まる。鼓動も激しくなって、ドクドクという音がエクリプスにまで聞こえてしまいそうだ。
今までずっと手を繋いでいたのに。エクリプスは兄なのに。アリスはどうして自分がこんなにも動揺しているのか分からなかった。記憶が無いせいで未だ兄だという実感がそこまで湧いていないからだろうか。でないと、こんなにふわふわとした甘い気持ちの説明がつかない。
「だ、抱きしめられるのは……ちょっと……」
「あ、ごめんね」
アリスがか細い声で訴えると、エクリプスはパッと離れた。微かに残った温もりが恋しい、なんて思ってしまうのはやはりおかしい。
「流石にセクハラっぽかったかな」
「ちが、そうじゃなくて」
そうじゃなくて?
そうじゃなかったら、なんと言いたいの?
アリスはエクリプスから視線を外すと、先行して館に向かって歩みを進めた。ドアの横にある灯りが真夏の太陽のように熱いと感じた。だけど本当は灯りは熱くもなんともなくて、知ってはいたけれどこの熱を灯りのせいにすることにした。そうでもしないと、益々混乱して整理がつかなくなってしまう。
アリスはドアを開けると、先ず顔だけを覗かせて中をキョロキョロと探ってみた。あの子の館だ。とんでもない何かが待ち受けていてもおかしくはない。しかしアリスの予想に反して、館の中は驚く程普通であった。外観から予想したまんまの内装だ。アリスはほっと安堵の息を吐くとドアを大きく開けエクリプスと共に中に入り込んだ。だが、入ったはいいものどこに行けばいいのか分からない。
「アリス」
廊下に立ち尽くしていたその時であった。後ろから甘い声がして、二人はビクリと肩を震わせて振り返る。案の定と言うべきか、そこには先程の少女が立っていた。
「グレースのおうち、どう?」
グレース、というのは少女の名だろうか。可愛らしく小首を傾げた少女に、アリスは不器用な笑みを浮かべてみせる。
「と……とても、素敵だと思います」
「敬語じゃなくていいのに」
「す……素敵、だよ?」
「グレースさん、僕達少し休みたいのだけれど」
グレースのテンポに乗れず困っているアリスに、エクリプスが助け船を出した。グレースは一旦お喋りしていた口を閉じると、不自然に首をぐりんぐりんと回してから再度口を開く。
「そこのお部屋。椅子に座って休んでいて」
グレースは廊下の突き当たりにある他より大きめな扉を指すと、うさぎのぬいぐるみを引きずるようにして他のドアへ消えて行ってしまった。もう耳だけしか残っていないうさぎのぬいぐるみをブラブラと揺らして、実際に引きずってはいないのにそう錯覚させるような動きで。
きっと、いや絶対に彼女自身が切り刻んだのだ。青い顔をして立ち尽くすアリス。その手をエクリプスは引いて、グレースが指した扉へと引いて行った。
その部屋は大きな広間で、真ん中にはフィクションでしか見たことがない大きくて長い立派なテーブルが陣取っていた。テーブルの上には燭台と、庭で見た赤いバラが上品な彩りを添えている。頭上にはシャンデリアが煌めいていて、アリスは先程までの気分の悪さも忘れてエクリプスに声を掛けられるまで惚けていた。
「さ、アリス。座って」
気づくとエクリプスは一番扉から遠い席の横の席を引いてにこやかにアリスを見つめている。その姿がいやに様になっていて、アリスは自然に歩みを進めストンと落ちるように椅子に座ってしまった。
「あっ……ごめん私、椅子引かせちゃって」
「いいんだよレディなんだし」
「レ……レディ?」
レディという言葉にポッと頬が赤に染まる。
エクリプスはにこやかなまま、アリスの耳に口を近づけると囁くように言った。
「だから、ごめんじゃなくてありがとうって言葉が欲しいな」
今度はポッどころではなく、ボンッと激しく湯気が吹き出そうなほどアリスの顔は真っ赤に染まった。わざとやっているのか、天然なのか。どちらにせよ妹相手にタチが悪い。いや、妹が相手でなくても……。
「ありがとっ……あのその、でも、でも」
「ふふっ」
エクリプスはおかしそうに吹き出した。そしてアリスの隣の席に座ると、嬉しそうに彼女の顔を覗き込む。
「大分顔色が良くなったね」
「あ……」
銀の燭台に映った顔を見て、アリスは思わず声を洩らした。そこには少々間抜けにポカンと口を開けている血色の良い少女が映っている。これが、彼女の今の顔。
「お兄ちゃんがからかうから……」
気恥ずかしさから拗ねたように言うアリスの言葉からは、隠し切れない嬉しさが滲み出ていた。
ふわり、とアリスからは自然に笑みが溢れた。エクリプスは一瞬だけ目を丸くすると、同じように優しい笑みを浮かべる。彼も先程より、はるかに血色が良かった。幸せでたまらないというように二人の間の空気が震える。
けれど、そんな時間が永久に続くはずがなくて。扉がいやにゆっくりと開くと、グレースが顔を覗かせた。そして一度部屋の外に戻ると、料理が載った台車をガラガラと音を立てて運んで来る。
正直に言うと料理はどれも見たことがないぐらい豪華で、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐり思わず唾液が溢れて口外へと零れ落ちそうになるほど魅力的であった。
……しかし。この料理の数々はグレースによって作られたものなのだろうか。この屋敷でグレース以外の人間は見かけなかったし、気配もしなかった。そうなると、必然的に料理は彼女によって作られたという解が導き出される。今は目の焦点が定まっているグレースが、黙々と二人の前に料理を並べて行く。やはり、見るだけであるならばとても魅力的なものであることに変わりはなかった。味もきっと相当なものなのだろう。
だが、アリスの脳内では先程の光景が繰り返し再生されてしまうのであった。ぬいぐるみの死体が散乱し、中央でナイフを持って笑う女。今は目の前でグラスに液体を注いでいる少女、グレースの狂乱した姿を。
「さあ、食事にしよう」
セッティングが終わったらしく、グレースはアリスの横の誕生席の椅子を引くと、ちょこんと可愛らしく腰かけた。その間に、エクリプスがアリスに耳打ちする。
「先ずは僕が食べるから、平気だったらアリスも食べて」