君の手から香る悲しみ
「お。良い匂い」
昼休み終了五分前。トイレから戻ってきて自分の席に着いた時、どこからかふわりと甘い香りが漂った。
思わず口からこぼれ出た呟きは、教室の喧騒に紛れてしまうくらいの小さな声だったけれど、既に隣の席に着いていた柏原には届いたらしい。
くるっとこちらを振り向いた柏原は、教師相手にそうするように、殊勝な面持ちで挙手した。
「あー、それ俺かも」
「え、柏原?」
今しがたの甘い香りと、目の前の男子がうまく結びつかず、ぱちぱちと瞬く。
「たぶんハンドクリーム。ほら」
苦笑した柏原は、挙げていた片手をそのままずいっと差し出してきた。
……え、これは、手の匂いを嗅いでみろということか?
鼻先に突き出された手のひらに固まっていると、柏原はその手をひらひら振ってみせた。ふわり、と空気の流れにのって、また甘い香りが至近距離で届く。
「……………あ、本当だ。さっきとおんなじ匂い……ローズ?」
「おぉ、すっげえ。やっぱわかるんだな。工藤も一応女子ってことか」
「ちょっと。一応は余計だから!」
ローズの香りは私も好きだし、自分でも使ってるからさすがにわかる。
放ったグーパンチはあっさりかわされた。もちろん、こっちも本気じゃないけれど。
膨れてみせると、柏原がケラケラと笑いやがったので、ついうっかりつられて笑い出してしまう。
――……あぁ、好きだなぁ。
私が恋心を再認識するのは、いつもこんな時だった。バカなやり取りだけど、それに幸せを感じてしまう私は、やっぱり柏原のことが好きなんだろう。
……例えその気持ちが報われないと知っていても。
「でも、どうしてそんなハンドクリームなんか塗ってるの?」
男子高校生がローズの香りのハンドクリームを塗ったって別に構わないと思うけど、良くも悪くもおおざっぱな柏原が、手荒れを気にしてケアしているというのも、いささかちぐはぐな行動に思えた。
たぶん私は、この時ちょっと浮かれていたのだ。
私が疑問を素直に口にすると、柏原はひょいと肩を竦めて答えた。
「あー、これな。彼女に会いに行ったら、問答無用で塗られちゃってさぁ。ちゃんとケアした方が良いよって」
――貧血の時のように、すぅっと全身の血が引いていく感覚がした。
……聞かなきゃ良かった。
そんな身勝手な思いが頭をいっぱいに埋めつくす。
「でも、俺がバラの匂いとか、うん。マジ似合わねーよなぁ」
口ぶりこそ迷惑そうだったけれど、本当にそう思っていないことは、彼の優しく温もった表情を見れば明白で。
へぇ、そうなんだ。なるほどね。確かに。ありきたりな返事が喉に詰まって、うまく言葉が出てこない。何か、何か言わなければ。この動揺は決して悟られたくない。
「………………爆発すれば良いのに」
強張る喉からようやっと絞り出せたのは、そんな捻くれた台詞だった。
「うわ、ひどくね?」
柏原はまたケラケラと笑った。
「うっさい。黙れリア充」
……あぁ、どんどん態度がひどくなってしまう。
嫌な気分が全身から滲み出てしまわないように祈った。
次の授業の準備をする振りで会話を打ち切って、柏原から目を逸らす。
机の脇のフックに引っ掛けたスクールバッグをあさっていると、俯いた頭に何かがやわらかくのせられた。
再び固まっている間に、それはぽんぽんと軽く頭を撫でて離れていった。ふわり、とまた鼻をかすめたローズの香りに、泣き出したいような気分になる。
「…………いったい何かね、柏原」
わざとおかしな喋り方で誤魔化すと、「何となくそんな気分だったのであります」と返事が返ってきた。
……”何となく””気分”で、女子の頭を撫でるなよなぁ。一つ上の学年だという彼女さんはきっと気が気じゃないだろう。その先輩も、こんなところも好きなのかもしれないけれど。
こっちの気持ちを見透かしてやってるんだとしたらとんだ悪い男だけど、たぶんこいつは天然だ。腹立たしくて、悲しくて、それでも捨てきれない想いに蓋をして、ゆっくり顔を上げる。
目が合うと、柏原はへらっと笑った。
その笑顔ひとつで怒れなくなってしまう私は、もう手の施しようがないのかもしれない。
次の授業の担当教師が教室に入ってくる。日直の掛け声でたらたらと起立し、挨拶をしてまた着席。眠気を誘う声が指示した教科書のページを開こうとして、手が乾燥してるな、とぼんやり思った。
スクールバッグの底に眠るハンドクリームの存在が頭に浮かんだけれど、手は伸ばさなかった。
ちらり、と隣の席へ視線をやると、柏原は既に堂々と机に突っ伏している。寝る気満々だなこいつ。
呆れ混じりにその姿を横目で眺めながら、放課後に新しいのを買いに行こう、と私は密かに決意した。