予兆
誰もが幸福になりたいと思っている。 そこに例外はない。 これこそが、あらゆる人間のあらゆる行動の動機である――首を吊ろうとする者をも含めて。
――フレーズ・パスカル
幻想郷の博麗神社には、相変わらず妖怪が溢れている。
ただ、一つ違うのは、賽銭箱に沢山のお金が入っている事、参拝客が増えた事。 そして極めつけの理由は、霊夢の退屈を加速させる物であった。
「異変がない」
そうボヤく霊夢の隣で、醤油煎餅を齧っていた早苗は、思わず煎餅を口からポロっと落とした。
「れ、霊夢さん、それは失言という物ですよ。 何で巫女が異変を望んでいるんですか!」
「だってつまらないじゃないの、そりゃ私も働くのは嫌いよ? それでも、最近は平和すぎてやる事が無いのよ!」
「確かに、最近はちょっと平和すぎる気もしますね。 妖怪達も……なんとなく覇気がないというか……」
早苗の言うとおり、霊夢たちの目の前で妖怪達がチームを組んで、チーム対抗で弾幕ごっこを楽しんでいる。 異変を起こす様子は幻想中で見られず、このように妖怪達は人を襲う事もせずに、ただ遊び惚けているのだ。
「それに、異変を起こしてもらわないと困るのよ。 いざという時に幻想郷の妖怪達や、それに対抗できる巫女達が力をつけておかないと、外の世界からの侵攻に脆くなるでしょう?」
「それが弾幕ごっこ制定のきっかけでもありますからね。 確かに、平和すぎるのも困り物というものです」
「それと……紫も最近姿を見せないのよね。 平和すぎるというよりも、何か不穏な物も感じている」
「え? 最近見ないと思ったけど、行方不明なんですか?」
興奮気味に早苗が霊夢に詰め寄ると、"やってしまった"というような驚きの表情を浮かべてから、すぐに観念した様子で、早苗の耳元に口を近づける。
「あまり言いふらさないでね。 あれでも幻想郷の管理者だから、不在って事が分かると色々と面倒なのよ。 冬眠してるって事で口裏は合わせておいて」
「……善処しましょう」
「ま、それでもこの平和っぷりなら何が起きるって事もないだろうけどね。 妖怪達まで平和ボケしてて……まったく」
霊夢は煎餅を齧りながら、まんざらでもなさそうな顔で、遊ぶ妖怪達を見て笑っていた。
立ち並ぶ近未来的なでありながら、古代中国を思わせるような荘厳とした建物が立ち並ぶ月の都から、、綿月豊姫は地球を見つめていた。
どこまでもその星は蒼く、いつまでもその色を失う事はないように思える。 太陽がその輝きを失う事がないかのように、地球もまた青く、美しかった。
しかし、豊姫はその美しさを楽しむのではなく、ただぼーっと見ているような様子で、時折扇をパタパタと揺らしているだけで、まるで覇気のない顔をしていた。
「何を見ているんですか? 豊姫様」
不意に後ろから声が聞こえて、豊姫が後ろを振り返ると、そこには一羽のウサギがいて、じっとこちらを見つめて首を不思議そうにかしげていた。
「最近ずっと地上ばかり見つめていらっしゃっているじゃないですか。 何か珍しい事でもありましたか?」
「……そうね、珍しい」
「それを言うなら最近の月の方が珍しいと思いますけど。 だって――」
ウサギの言葉を遮るように、急に地面が揺れだす。 小さな隕石でも当たったかのような、少し大きな地震。 その揺れは30秒ほど続いた後、何事もなく収まった。
「……ほら、地震。 月では滅多にないですよ? なのに、最近こんなに地震が多いなんて」
「そうね。 でも……違う」
豊姫は首を横に振ってはいるが、地球から視線を外すことは無かった。
「何が違うんですか? もー、ハッキリ言ってくださいよ!」
ウサギがそう言うと、豊姫は扇をパシッと勢いよく畳み、その扇を地球へと向けた。
「少し……色が違うと思うの」
豊姫の目に、今の地球は美しい色に見えてはいなかった。